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#53 彼女が誰だとしても

 

 初対面のはずなのに、『ティアン』という彼の愛称を、ためらいなく口にした彼女に、セバスチャンはほんの少し、がっかりした。

 彼女は……ただの自分のファンなのだろう、そう思った。

 

 けれど、すぐに立ち去る気にはなれなかった。


 自分はどこかで彼女を見かけていたのか。

 あるいは、あの酔いつぶれた夜……ひょっとしたら一夜を共にしていたのかもしれない。

 それで、彼女の面影が夢に焼きついてるのかもしれない。


「ここ、座っても?」


 隣の席を差すと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「ええ。もちろんよ。」


 給仕が近づき、彼はコーヒーを頼む。

 その間も、彼女はキラキラとした瞳で、彼の仕草のすべてを見つめていた。


 やはり、熱心なファンなのだろう。


 セバスチャンは、面倒な関係を持つつもりはなかったが、このピアスをつけたのが彼女なのか、それだけは確かめたかった。

 俳優という仕事をしている以上、こんな得体の知れないものをずっと身につけているわけにはいかないのだ。


「ああ……君……。」


「セシルよ。」


「セシル……。」


 名前を呼んだだけで、再び彼女の青い瞳に涙が盛り上がる。


 まずい……感情の起伏が激しいタイプか?

 深入りするのは避けたほうがいいな、とセバスチャンは警戒心を強めた。


 手短に切り上げよう。


「あの夜のことだけど——」


「夜?」


「……いや………覚えていないならいい。」


 躊躇して言いやめると、セシルがじっと彼の瞳を覗き込んだ。


 探るように。

 その奥に、何か別のものを求めるように。


 吸い込まれそうな眼差しだった。


 ふっと、二人の距離が縮まる。


 青い瞳の中で、情熱が揺らめく。

 あと少し……という近い位置で、セシルの唇が、そっと囁く。


「ねぇ、ティアン………キス、しない?」


 その言葉に、セバスチャンははっと我に返って身体を引いた。


「………ずいぶん、積極的だな。」


 積極的な女は嫌いじゃない。

 だが、ここではまずい。

 こんなことで、明日のタブロイド紙の一面を飾るつもりはない。


 セバスチャンは作り物の笑みを浮かべ、コーヒーを口に運ぶ。


 するとセシルは、どこか寂しげな目で彼を見つめた。


「ああ………急ぎすぎたわ……もっと、慎重にやらなきゃ……。」


 小さく呟く彼女の声に、眉をひそめる。


 熱心すぎるファンは、避けるべきだ。


 けれど、セバスチャンの脳裏に、あの夢の情景がよぎる。

 繰り返し見る、あの夢。

 どうしても、気になって仕方がなかった。


 彼女とは、それほどまでに……相性がいいのだろうか。

 それなら……。


 迷いを振り切るように、カップを置く。


 ゆっくりと、セシルの手の上に、自分の手を重ねた。


「セシル。これから俺の部屋に来ない?」


 すると……。


 ぱぁっと、セシルの顔が明るくなる。

 まるで、待ち望んでいた言葉を聞いたかのように。


「ええ、行くわ。」

 

*******


 セバスチャンは、女性関係は派手なほうだと自覚していたが、行きずりのファンの女性を部屋に入れたことは、今まで一度もなかった。

 いつもなら決してやらないことをしている。

 自分でも混乱する。


 セシルは、彼の隣を歩くときでさえ、不思議な気品をまとっていた。

 彼女は今までに出会ったどんな女優とも違う高貴さを持ち、まるで彼女の周りだけ、まるで別の空気が流れているようだった。

 ふとした仕草で金の髪をかき上げ、何気なく景色を見渡す。

 それだけで、まるで彼女を中心に世界が回っているような錯覚を覚えた。


 彼女といると、まるで異国の女王に仕える臣下にでもなったような気さえしてくる。

 部屋に誘われてすぐについてくるような女なのに、不思議と、いきなりベッドに引き込む気にはなれなかった。


 カフェでテイクアウトした朝食と二杯目のコーヒーを、ソファの前のテーブルに置く。


 セシルは、まるで当然のことのように、迷いなくソファの上席に腰を下ろした。

 その動作はゆったりとしていて、どこか優雅だった。

 そして、片手を軽く動かし、彼が座るべき場所を示す。


 とても自然に。

 まるで、それが当たり前のことのように。


 セバスチャンは、一瞬、ためらった。

 しかしなぜだろう。

 彼女の隣に座るのは、何か特別な意味を持つような気がした。

 それでも、促されるままに腰を下ろす。


 セシルは、部屋の中の調度や、大きなスクリーンを珍しそうに眺め、それから微笑んだ。


「ティアン……その身体も、とても素敵よ。」


 遠慮のない視線が、彼の全身をなぞる。

 じっくりと、観察するように。


「……でも、わたくし……瞳は赤が好きだわ。」


 その呟きに、セバスチャンは一瞬、眉を寄せた。

 彼は自身のヘーゼル色の瞳を気に入っていた。魅惑的だとよく褒められる。

 しかし、セシルの残念そうな呟きを聞いて、赤いカラコンでも入れようかと、唐突に思った。


「君が望むなら……そうしよう。」


 調子を合わせるように囁くと、セシルの顔が少し揺らいだ。

 懐かしそうに、嬉しそうに。


 この女は、俺を誰かと重ねているのか?


 だがもうどうでもいい。

 どうせ、ここまできたのだ。


 セバスチャンは、彼女のソファの縁に手を置き、顎に片手を当てた。

 そっと上向かせる。


「キス……してほしいんだろ。」


 びくり、とセシルが震える。

 瞳が少しだけ、揺らぐ。

 ここまで来て緊張しているのだろうか。


 だがすぐに夢中になるだろう。


 そう思い、唇を重ねようとした、直前。


 《彼女に触れるな!》


 脳内で、見知らぬ声が響いた。

 同時に、彼女の頬に滑らせた手に、びりびりと電流のようなものが走る。


 驚いて、反射的に手を引っ込めた。


「ティアン……?」


 セシルが不思議そうに見つめる。


 今のは……なんだった?


「ああ……いや…………やめておこう。」


「どうして!?」


 どうして?

 答えなど、わかるものか。

 

 ただ、彼女に触れるのは危険だ、と本能が警告している。


「まだ朝だ。」


「それって関係あるの?」


 ぶつぶつとセシルがつぶやく。

 そして、「朝のほうが……激しかったのに」などと言って顔を赤らめる。


 こいつ……本気か?


「……ああ、そうだわ! 忘れてたわ!」


 ぱっと、セシルが顔を上げる。


「先に、そのピアスを渡して。」


 セバスチャンは思わず耳に手をやった。


「これ、やっぱり君のか。」


 ピアスを指先で弄びながら問いかけると、セシルは「そうよ」と頷く。


「でも……外れないんだ。」

「嘘でしょ?」

「いや、本当だ。何度も試した。間違いない。」

「……あら。」


 セシルはほんの少し考え込んだようだったが、すぐに「じゃあ……」と呟きながら、ふいにドレスの間に手を差し入れた。


 その動きに、セバスチャンは少しだけ期待してしまう。

 が、次の瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、小ぶりな護身用のナイフだった。


「耳ごと、もらっていくわね。」


 キラリ、と刃が光る。

 心臓が跳ね上がる。


「うわっ……やめろ!」


 慌ててセシルの手首を掴み上げ、ナイフを床に叩き落とす。

 身体が資本なんだ、傷をつけられるなど、冗談じゃない。


 だが、掴んだ手首の細さに息をのむ。

 驚くほど華奢で、少し力を入れれば折れてしまいそうなくらい。


「い……痛いわ! ティアン!」


 セシルが叫んだ、その瞬間……


 セバスチャンの身体に、再び電流が走った。

 今度はさっきよりも強い。

 まるで、誰かに強制的に動きを止められたような感覚。


 はっとして、慌てて手を離す。


「もう……。乱暴はしないで。まるで傭兵みたいよ。」


 セシルは手首をさすりながら、ぶつぶつと文句を言った。


 セバスチャンは、床に落ちたナイフを拾い上げる。

 繊細な彫刻が施され、宝石が散りばめられた美しい短剣。


 まさかこれを使う気だったのか?


 一目見てわかる。

 撮影用の小道具などではない。

 間違いなく博物館行きの品だ。


 こんなものを無造作に持ち歩いているなんて、普通の女じゃない。


「俺だって、このままじゃ困るんだ。」


 苛立ちを紛らわせるように、ばさばさと髪をかきむしった。


「ピアスの外し方、君が知っているかと思ったんだけどな。」


 セシルは黙ったまま、じっと彼を見つめていた。

 その青い瞳が、彼の奥底にある何かを探るように揺れる。


「……ねえ、あなた、誰?」


 静かな問いかけだった。


「は?」


「バスチアンはどこ?」


 思わず、言葉を失う。


「俺の名前は、セバスチャン・クロフォードだ。」


 そう返した瞬間、セシルの表情が曇った。

 唇をぎゅっと噛み締める。

 何かを耐えるように。


 その仕草が、なぜか無性に気に障った。


 自然と手を伸ばし……けれど、直前で気づき、やめる。

 彼女に触れれば、またあの奇妙な電流が走る気がしたから。


 だが、セシルはまったく怯むことなく、凛とした声で言い放った。


「でも、やっぱりそこにいるのは確かなのよ!」


 そして、彼女はきっぱりと言った。


「命令よ! 出てきなさい、バスチアン・フレアベリー!」


 びくっ。


 名を呼ばれた瞬間。

 身体の奥が、一瞬、痺れるように疼いた。


 ……なんだ、今のは。


 頭の奥で、なにかが蠢く。

 まるで、誰かが薄闇の向こうから手を伸ばしてくるような、そんな感覚。


 何かがおかしい。

 いや、最初から、何もかもがおかしい。


 ただの頭のおかしい女、そう切り捨てるには……

 夢、ピアス、そしてこの奇妙な現象。

 不可解なことが、あまりに多すぎる。


 セバスチャンは大きく息を吐き、観念するように目を閉じた。


「……セシル。」


 ゆっくりと目を開ける。


「説明してくれないか。」


 真剣な声音で、彼女を見つめた。


「今、俺は……セバスチャン・クロフォードは……」


 一拍、間を置く。


「信じがたいほどに、混乱している。」


 

ありがとうございます☆

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