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#52 ある映画俳優の朝

 

 今朝もまた、あの夢を見てしまった。

 新進気鋭の映画俳優、セバスチャン・クロフォードは、天井に差し込む朝の陽ざしで目を覚ました。

 深く眠っていたはずなのに、喉が渇き、胸が早鐘のように上下している。

 ぐっしょりと汗をかき、シルクのシーツが肌に張りついているのを感じた。


「……っ」


 《ねぇ……わたくしを……楽しませて?》


 耳にこびりついた甘やかな囁き。

 脳裏に、夢の中の彼女の姿が焼き付いている。


 腰まで届く金の髪、空より青い瞳、熟れたさくらんぼのような唇。


 仕事柄、美しい女には慣れている。

 だが、あの夢の彼女は……現実のどんな女優とも違った。


 彼女は恥ずかしそうに微笑むくせに、指先は大胆で、迷いなくセバスチャンの肌をなぞる。

 服をはぎ取り、まるで彼を知り尽くしているかのように、翻弄してくる。


 《今度は、あなたの番……》


 夢の中の彼女は、無邪気な天使の顔をして、情熱的な娼婦のような仕草で彼をもてあそんだ。

 躊躇いのない唇、震える吐息、まるで彼に夢中で仕方がないかのように……。


 絡みつく指先に抗えず、甘く蕩ける彼女の囁きに導かれ、セバスチャンは何度も果てた。


 ……もちろん、夢の中での話だが。


 だが、現実の身体が素直に反応していたのは、肌に残る不快な感触が証明していた。


「……覚えたてのティーンエイジャーじゃあるまいし。」


 はぁ、と深く息を吐き、ベッドから身を起こす。


 ガラス張りのバスルームへ向かい、無造作にシャワーをひねった。

 冷水が肌を打ちつける。

 熱を帯びた身体を冷ましながら、彼は夢の残滓を振り払うように、濡れた髪をかきあげた。


 一体、あの女は誰なんだ。


 これで三十日連続だ。

 セバスチャン・クロフォードは、この一ヶ月間、同じ夢を見続けている。


 その始まりは、鮮明に覚えていた。


 映画の賞を受賞した夜。

 さすがに浮かれて、少し飲みすぎた。

 珍しく酔い潰れ、翌朝目覚めると、見知らぬピアスが左耳についていた。


 大きな球状の、空の色を写したようなサファイアのピアス。


 試しに外そうとしたが、まるで皮膚に溶け込んでいるようにびくともしない。

 そして、その夜から、彼は 「彼女」 の夢を見始めたのだった。


 そのせいか、ここしばらくは現実に他の女に触れてさえいなかった。 


 それだけではない。

 自分の中に、何かが引っかかる感覚がある。

 食事をしている時。

 脚本を読んでいる時。

 些細なことに、異様に感情が動かされる瞬間がある。


 セバスチャンは滴る水滴を乱雑に拭う。

 バスローブのままキッチンへ向かい、キャビネットを開いた。

 普段は自分でコーヒーを淹れるのだが……。


「……ちっ、切らしてたか。」


 コーヒーの粉がないことに気づいた。

 仕事の合間に補充するつもりで、そのまま忘れていたらしい。


「仕方ないな……。」


 観念して、外で飲むことにする。


 バスローブを滑り落とし、艶やかなシーアイランドコットンのシャツをかぶる。

 黒のスリムフィットのデニムを履き、スモーキーグレーのリネンシャツをラフに羽織った。

 仕上げにサングラスをかけ、財布を無造作にポケットへ放り込む。


 部屋を出ると、1階のフロントでコンシェルジュが微笑んだ。


「おはようございます、ミスター・クロフォード。」


「おはよう、リチャード。」


 軽く顎をしゃくりながら挨拶を返す。

 リチャードは表向きは無愛想だが、実際には気が利く男だ。

 セバスチャンが記者に追われているときは、うまく立ち回ってくれる。


「今日は比較的静かですよ。」


「助かる。」


 人目を気にせず、のんびりコーヒーを飲めそうだ。


 エントランスを出ると、ロサンゼルスの朝の日差しが降り注ぐ。

 セバスチャンはサングラスを少し持ち上げ、空を仰いだ。


 カリフォルニアの青空は、どこまでも広く、美しい。

 それなのに……夢の中の彼女の瞳には、敵わない。


 苦笑しながら、一ブロックむこうのカフェへ向かって歩き出す。


 そして、気づいた。


 数十メートル先。

 陽光を浴びて、金の光が揺れる。


 全身がざわめき、左耳でピアスがじんじんと熱を持つ。


 視線が吸い寄せられるように、足が速まった。

 レザーシューズの靴底が、アスファルトの小石を跳ね上げる。


 彼女だ。


 腰まで届く、陽だまりのような金の髪。

 風に揺れるシフォンのドレス。

 長い睫毛の影が、青い瞳に淡く落ちる。


 夢の中の彼女と、寸分違わぬ姿……。


 彼女は、カフェのテラス席で、コーヒーカップを優雅に傾けていた。


 心臓が、喉元まで跳ね上がる。

 

 サングラスの奥で、思わず目を見開いた。

 

 これは現実か?

 それとも……夢の続きか?


 陽射しがガラスに跳ね、香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐる。


 その瞬間、まるで運命に導かれるように、彼女が顔を上げる。

 驚いたように彼を……いや、彼のピアスを見つめた。


 そして……まるで長い夜を越えた恋人のように、彼女が微笑んだ。

 頬を紅潮させ、宝石のような瞳に涙を湛えながら、彼の名前を呼ぶ。


「ティアン……やっと見つけたわ!」

 

 

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