#51 扉の向こうに、あなたがいるなら
サフィールの言葉に、セシルは思わず前のめりになった。
「……では、すぐに叙爵を!」
「そうではない。奴を取り戻すほうの話だ。」
鋭く言い放たれた言葉に、セシルは息をのむ。
「え……それ、は……どのような…?」
魔術師団長のサミュエルでさえ、もう手を尽くした状況なのだ。
ならば、それを覆せる何かがサフィールにあるというのだろうか?
サフィールが静かにベルを鳴らす。
「王妃と、サミュエル・フレアベリーを、ここに。」
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「フレアベリー侯……子息の容態は、いかがか。」
若き国王の問いに、魔術師団長は深く頷いた。
「おかげさまで変わりなく……ですが、体温は低く、呼吸は浅い。
鼓動は、まるで時を止められたかのように、わずかにしか動いておりません。
まるで、死と眠りの狭間に、魂が彷徨っているかのようでございます。」
「そうか……。」
サフィールの目が細められた。
「そのような者を、これまでに見たことは?」
一瞬、深い沈黙が流れる。
サミュエルとサフィールの視線が絡み合う。
まるでその答えを互いに知っているかのように。
やがて、サミュエルは低い声で告げた。
「………恐れながら………王妃陛下が眠られていたときと、よく似ております。」
王妃様が!?
セシルの胸が跳ねた。
思わず、サフィールの隣に座るエルセリアの健やかな頬を見た。
穏やかに目を伏せながらも、どこか懐かしさを覚えているように小さく微笑んでいる。
「………ならば……彼が、『扉』の向こうにいる可能性は?」
「大いにあると考えます。なぜなら息子は……一度そこに行っておりますから。」
サミュエルはそう答えてから、ちらりとエルセリア王妃を見た。
エルセリアがそれを受けて、僅かに頷く。
「実は数か月前に……わたくし、事故で『眠りの国』に、また飛ばされたのですわ。
そのとき、彼が探しに来てくれたのです。」
セシルの心は混乱する。
扉?
眠りの国?
でも……また、とは?
王妃様は、その『眠りの国』に何度も行っているの……?
セシルの頭の中で、混乱しながらも、少しずつ過去の記憶が繋がっていく。
バスチアンが王妃を探しに…?
ああ………フェルモント侯爵領から一人で旅立った、あのとき?
では……バスチアンは今、ただ昏睡しているのではなく、今はその『眠りの国』に囚われているということなの?
けれど王妃は今、救い出されてここにいる。
ならば、彼も………。
「……そこには、どうやって行くの……?」
セシルがおずおずと問いかけると、サフィールはあっさりと答えた。
「魔法陣を作り、『扉』が開いたら、それをペガサスの馬車で越えればいい。簡単だ。」
簡単……?
そんなはずがない。
そうだったらフレアベリー侯爵家で、もうとっくに対処しているはずだ。
セシルが疑問を浮かべたのを見て、サフィールは頷き、続けた。
「……行くのはね。」
「どういうこと?」
「問題は、彼を探し出し、そして、どうやって連れて帰るかなんだ。」
サフィールはちらりとエルセリアの顔を見て、それから目を伏せた。
「向こうに行けば、彼の魂はきっと別の身体に宿っているだろう。
まず最初にそれを探し出さないといけない。
見つけたら次は……その身体ごとこちらに連れてくるか……魂だけを連れ戻すか……。
でも、こっちにはすでに元の身体がある。だから、魂だけを連れ帰るほうがいい。
そのためには、向こうの身体から魂だけを引きはがす必要がある。」
言ってサフィールはセシルをじっと見つめた。
「セシル、ごめん。少しはやり方を知っている俺が代わってあげたいものなんだけど……できないんだよ。」
「……ええ、あなたは国王だもの。そんな危険なこと、無理よね」
セシルが頷くと、サフィールは首を横に振った。
「そうじゃない。すでにそこに安らいでいる魂に、『自分の身体に還りたい』と思わせるのが……難しいんだ。」
サフィールは、言いながらふっとエルセリアの手を取った。
彼はそこに今、エルセリアがいることを確認するように、その手をそっと包み込む。
「それには……『本当の自分の身体で触れ合いたい』と感じさせることが一番いい。
魂に、過去の身体の記憶を呼び覚まさせるんだ。
…………たとえば、心を込めてキスする……とかね。」
心を込めて、キス……。
「他にもあるかもしれないけど、それが一番安全で確実な方法だ……経験上ね。」
サフィールは、少し苦笑して続ける。
「そういうことだから……この間はバスチアンも、王妃を見つけられたけれど、連れて帰ることはできなかった。
それで改めて、私が迎えに行ったんだ。
まさかまたそこにいるとは思わなかったから、見つけてくれただけですごく助かったけど……。」
「わかったわ。つまり、彼を見つけ出して、心を込めてキスをすれば……そうすれば、連れ帰ることができるのね?」
「おそらく。」
しばし沈黙が広がる。
やがてサミュエルが控えめに、言葉を発した。
「ですが『眠りの国』は広うございます。王妃陛下と同じ場所に息子がいるとは限りません。」
「ああ……。なにか……引き合う『鍵』が存在すればよいのだが……。」
サフィールは、セシルをまっすぐに見た。
「君には、心当たりはないか?
王妃と私は、互いのアミュレットリングを交換していた。
彼女が持って行った私のリングが鍵になって、自然に、彼女のいるところに引き寄せてくれた。」
「鍵……。」
エルセリア王妃が横から声を上げる。
「そういえば以前、バスチアン卿の耳に、セシル様の瞳の色のピアスがありましたが……あれは……?」
「ええ……わたくしがあげたものよ。でも……どこかになくしてしまったみたいで…。」
セシルが残念そうに言うと、サフィールがぐっと身を乗り出した。
「つまり今、バスチアンの身体はそれをつけていないのか!?」
セシルが小さく頷く。
サミュエルも言葉を添えた。
「発見した時、ピアスなどは息子の身体にありませんでした。」
「ではもし……彼がそれを持ったまま『扉』を渡ったのだとしたら……何かそれと対になるものがあれば……。
セシル、彼から何か受け取ったものはないのか?」
サフィールがそう言ったとき、セシルの胸元で、小さな熱が疼いた。
それは、いつも彼女の肌に、微かな温もりを与えていたもの……。
セシルは、いつも首にかけている鎖を外す。
「……わたくし、交換したの。バスチアンに、これをもらったわ。」
そこには、バスチアンのリングが通されていた。
優しく光を揺らす深紅の石が、彼の瞳を思い出させる。
「失礼します。王女殿下……。」
言ってサミュエルがそのリングを確認する。
サミュエルの手のひらの上で、小さくリングが震える。
「息子の誕生の日のアミュレットリングです。
王女殿下に手渡した日の彼の想いが……ここに残っています。」
サミュエルが小さく笑い、柔らかい声で付け加えた。
「息子は、王女殿下のことをとても……大切に思っていたようです。」
セシルの胸がトクンと鳴った。
「それなら……鍵として引き合うかしら?」
一瞬の沈黙が落ちた。
サミュエルは深く息を吐き、唇を引き結ぶ。
「しかし、王女殿下の安全が第一でございます。」
セシルは目を閉じ、胸の奥で疼く想いを噛みしめた。
そして彼に向き直り、はっきりと言った。
「サミュエル・フレアベリー。鍵の導く先に、扉を開けて。」
サミュエルは一瞬、驚いたようにセシルを見た。
長く見守ってきた愛しい子を見つめるように。
その瞳の中には、躊躇と、そしてわずかな誇りが宿っていた。
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サフィールがこっそりと、ペガサス一頭立ての馬車を仕立ててくれた。
バスチアンが以前使ったのと同じだから、これで飛行には問題ないという。
サミュエルの手のもとで、ペガサスの馬車の下に複雑な魔法陣が展開される。
送り出される直前に、サフィールがセシルを抱きしめて耳元でそっと秘密を囁いた。
「実は、ひとつの身体に魂をふたつ抱えて扉を越えるのは、とても負担がかかる。
まるで、全身を焼かれながら引き裂かれるような……そこに様々な思念が流れ込んでくる。
でもそれは決して彼に悟られてはいけないよ。
身体がない魂は、動揺すると少しずつ、風の中に解けて、散っていってしまうから。
だから……もしそれが不安だったら、こっちに戻ってこなくてもいい。
向こうで幸せに暮らせ。」
セシルの指先が、ぎゅっとこわばる。
背筋を撫でる冷たい風に、一瞬だけ足が竦みそうになる。
それでも、やめるという選択肢はなかった。
「ありがとう、サフィ。
でもわたくし、必ずバスチアンを探し出して、連れ戻すわ。
彼の身体をあのままにはしておけないもの。」
そしてセシルは、ペガサスの馬車に乗り込んだ。
深呼吸をして目を瞑る。
ぎゅっと首にかけたバスチアンのリングを握りしめる。
それはいつもより少し、温かいように感じた。
ペガサスの翼が大きく羽ばたいた。
夜の帳が彼女を包み込む。
広がる星々が、行く先を照らすように瞬く。
そしてふわりと……セシルの身体は、夜の空へと舞い上がった。
読みに来て下さっている方、ありがとうございます。
あと10話くらいです。