表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/60

#50 わたくしに、バスチアンをください


 その夜。

 ひっそりと仕立てられた馬車で、アリシアが来た。

 目立たないローブに身を包み、ふたりでそっと部屋を抜け出す。

 部屋を守る護衛は、アリシアが魔法で眠らせてあった。

 その脇をそっと通り過ぎようとした——まさにそのとき。


 目の前に、深い臙脂のローブが立ちはだかった。


 心臓がぎゅっと縮まる。


 恐る恐る視線を上げると、それは、魔術師団長サミュエル・フレアベリー侯爵。

 アリシアとバスチアンの父だった。 


「お父様……!」


 秘密を見つかった気まずさに、アリシアの視線が揺れる。

 しかしサミュエルは、ふっと小さく息をつくだけだった。

 そして、娘の頭をぽん、と軽く叩き——セシルに向き直ると、深々と礼を取った。


 セシルは息を呑み、言葉を詰まらせながら、謝罪する。


「フレアベリー侯爵……。あの……。」


 言葉が詰まり、一度大きく息を吸った。


 セシルのせいで、バスチアンは意識不明の重体になった。

 それなのに、家族の心情も顧みず、こうして勝手に訪れるなど、どれほど身勝手なことか。

 侯爵がそれを拒絶しようとするのは、当然のことだろう。


「この度は、本当に……申し訳ありません……。」


 けれど。

 それでも……どうしても、一目、会いたいのだ。


 唇を噛み、視線を上げ、言葉を紡ごうとする。


「でも、わたくし……。」


 サミュエルは、静かに片手を上げてセシルを止める。


「王女殿下。」


 低く、穏やかな声だった。


「高貴な御身分にもかかわらず、わが息子をお見舞いにお越しいただけるとのこと……。」


 セシルの胸が締めつけられる。

 形ばかりの謝罪の言葉など、必要とされてはいないのだ。


 彼は、穏やかに微笑み、上げていた手をすっと彼女に差し伸べた。

 

「私がお連れしましょう。」

 

 その言葉に、セシルはただ、こくり、と頷いた。


「………ありがとう……。」


「では……おつかまり下さい。」


 サミュエル・フレアベリーの転移魔法は、静かで、とても優しかった。

 霧が晴れるように、ふわりと意識が浮かび、まるで柔らかな陽だまりに包まれるようで……


 そして次の瞬間、彼女はバスチアンの寝室にいた。


 侯爵は何も言わず、静かに部屋を退出する。

 セシルをバスチアンとふたりきりにするために。


 *******


 目に見える傷は、すべて治癒がなされたのだろうか。

 バスチアンは……まるで眠るように、そこにいた。

 そっと近づく。

 

 震える手を伸ばして、彼の頬に触れた。

 信じられないほど、冷たい。

 息をしているのか、していないのか……耳を澄ませてもわからないほどに、儚い呼吸。

 胸に触れると……微かに……今にも止まりそうなほど、ゆっくりと鼓動している。


 何度か見てきたはずの寝顔なのに、それがまるで別人のように感じられた。


 何かが……違う。

 そして、何かが……足りない。


 魔力が切れているからだろうか。

 

 そっと唇にキスをしてみる。

 思いを込めて、熱を送る。


 僅かに、唇が温かくなった気がした。

 けれど、離れるとすぐにそれは冷める。


 考えてみれば、ただの魔力切れならば、フレアベリー家には名だたる魔術師が揃っている。

 セシルなどが何とかできるはずがなかった。


「ね……ティアン。……聞こえる?」


 彼にはきっと聞こえているはずだ。


「ティアン……わたくしと、結婚してちょうだい。

 いいでしょう?

 ……嫌なら、今すぐそう言って。」


 彼は、ただ冷たく横たわったまま、微動だにしない。


「………返事がないのですもの。なら、それで決まりね。

 そうね。いつもあなたは、『お望みのままに』って言うのだもの。」


 けれど、いつもの優しい微笑みは帰ってこない。

 彼の命の灯が、今にも消えかかっているようで、不安が押し寄せる。


 そこにいるのはバスチアンなのに、もうすでに彼はいないような気がした。


 ふと、彼の顔を改めて見つめ、ゆっくりと視線を下げる。

 そして……気づいた。

 いつも彼の耳に輝いていた、セシルの瞳の色のピアスが、そこにはなかった。


「まぁ、ティアン。……わたくしがあげたピアス、どこにやってしまったの?」


 あの日、ふたりで恋のリストを語り合いながら、お互いの瞳の色のアクセサリーを交換した。

 彼は、セシルの耳から外したばかりのそのピアスを、躊躇いなく自分の耳に刺したのだ。

 そして優しく、何度もキスを交わした。

 薔薇の香りに包まれながら、二人だけの秘密を分かち合うように。


 いつもそれは、彼の耳で静かに輝いていた。

 それがないということが、彼が目覚めないことと同じくらい、セシルに別れを感じさせた。


「困ったひとね。

 いいわ。また別のを用意してあげる。

 ……今度は結婚のお祝いですもの。

 わたくしと、お揃いにしましょうね。」


 そっと、冷たいバスチアンの手を握る。

 指先が凍るほどに冷たいのに、それでも手を離したくなかった。


 けれど——しばらくして、セシルは静かに立ち上がる。


「準備はわたくしがすべて進めるわ。

 陛下の許可が下りたら、わたくしの領地で、ずっと、一緒に過ごしましょうね。

 だからティアン……ほんの少しだけ、待っていてね。」


 扉を開く。

 外にはサミュエル・フレアベリーが穏やかに微笑んで立っていた。


「王女殿下……もうよろしいのですか?」


「ええ。これから忙しくなるのですわ。

 フレアベリー侯爵、お願いがありますの。」


「……何なりと。」


 その言い方がバスチアンによく似ていて、セシルは思わず目に涙を浮かべた。


 セシルは一度、ぎゅっと唇を結ぶ。

 それから、静かに……けれど迷いなく言った。


「わたくしに、バスチアンをください。」


 一瞬、沈黙が落ちる。


 サミュエル・フレアベリーは、まるで彼女の言葉の重みを確かめるように、ほんの少しだけ目を伏せた。


 そして、ゆっくりと顔を上げる。

 口元に、小さな笑みを浮かべながら。


「ご随意に。息子はもう、すべてを王女殿下に捧げておりますので。」


*******


 翌朝、セシルは迷いなくサフィールの執務室へと足を踏み入れた。


「セシル。やっと来たか。」


 サフィールは、セシルとよく似た青い瞳を揺らがせ、さっと手をあげて人払いをする。

 水が引くように、部屋にいた者たちが静かに姿を消した。


「なぜか知らないが、急に君に求婚状が届くようになった。

 今なら選び放題だぜ。」


 言って、サフィールは手元の書簡の束を無造作に持ち上げる。


「陛下。お願いがございます。」


 セシルは、それには一切目をくれずに、まっすぐ従兄を見つめた。


「申せ。」

「この度、わたくしの命を守るために、宮廷外務官のバスチアン・フレアベリーが負傷いたしました。」

「ああ……聞いている。」

「………褒美として……彼に、侯爵位をお授け下さい。」


 サフィールの表情がわずかに動く。


「………まだ、死ぬと決まったわけではないだろう。」

「だからです! そして、わたくしの夫として迎えさせてくださいませ!」

「……………本気か?」


 サフィールがセシルをじっと見つめる。


「奴はもう、動けないのだぞ。」

「……っ!」


 セシルは一瞬息を止めた。

 けれど、すぐに毅然とした声で答えた。


「それでも、構いません。わたくし、懸命に看護いたしますわ。いつか目覚めるかもしれません……。」

「目覚めないかもしれない。」

「それでもよいのです。」


 するとサフィールが何か苛立ったように、立ち上がった。


「セシル!

 そこまで想っているなら、どうして諦めるんだ!

 どうして、何としてでも彼を取り戻そうとしない!」


「できるものなら! なんでも致しますわ!」


 セシルは叫び返した。


「何でもだと……!? 本当に、何でも……か?」


「何でもです! 彼はわたくしに命をくれたのですもの。

 今度はわたくしが命を渡す番ですわ。」


 サフィールはじっとセシルを見つめたまま、低い声で言う。


「今まで……命を賭して君を守ってきた騎士は、他にもいただろう?」


 ぐっとセシルは唇を噛み締める。


「………。」


 わかっている。

 彼らに守られてきたことは、感謝している。

 

 けれど、バスチアンは……違う。

 彼は……そう……彼は……。


「ほんとうは……このままでは……わたくしが、生きていられないからなのですわ。」


 セシルの声が震えた。


「バスチアンを……愛しているの。

 彼以外と結婚するなんて、ありえないわ。」


 サフィールが目を瞑る。

 沈黙が落ちた。


 セシルは息を詰める。

 耳の奥で自分の心音だけが響く。

 時間が伸びて、張り詰めた空気が胸を締めつける。


 やがて、サフィールはゆっくりと吐息をついた。


「可能性は………ないわけじゃない。」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ