表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/60

#5 恋の教授を叙任します

 

 その一言で、バスチアンの瞳が、一瞬、硬く閉ざされた。

 指先がわずかに動き、静かに拳を握る仕草が見える。

 そこには、冷静を保とうとする意思と、内に押し込められた葛藤が滲んでいた。


「……王女殿下。」


 一呼吸おいて、バスチアンは口を開く。

 その声は穏やかで、冷静さを取り戻そうとしていた。


「……外遊先の情勢を御進講するのとは、わけが違うのですよ。」


「でも、どちらも得意なのでしょう?」


 セシルは即座に返した。

 自分でも驚くほど、声に冷たい響きが宿っていた。

 『恋の魔術師』……そう呼ばれる彼が、この挑発にどう応じるのか。

 確かめずにはいられない感情が、その冷たさにさらに火を注ぐ。


 彼女は一歩、彼に近づいた。

 息が触れるほどの距離で顔を仰ぎ見る。

 そのまま、相手の眼差しをじっと捉えながら、声のトーンを落とした。


「もちろん、ただでとは申しませんわ。」


 わざと柔らかな笑みを浮かべながら、セシルは言った。


「いま、わたくしが管理を任されている爵位のうち、どちらかをあなたに授けられるよう、陛下にご推薦しましょう。」


 『爵位』という言葉に、バスチアンの瞳がわずかに揺らめいた。

 冷静を装いながらも、その奥では、言葉を慎重に選ぼうとする気配が漂っている。


 侍女クロエの話によれば、バスチアン・フレアベリーは多くの女性と軽やかに夜を重ねている。

 けれど、とある資産家の子爵家には頻繁に通い、その令嬢と街中で目撃されたこともあるという。

 もしかして彼女が本命なのでは、とも囁かれているのだ。


 その話を思い出しながら、セシルはあえて無邪気を装って続きを口にした。


「でも……ヴァレンシア子爵は商売人ですわよ?

 侯爵家のご令息とはいえ、無爵の方と縁を結ぼうとなさるかしら。

 伯爵位でもお持ちの方が、印象はずっと良いのではなくて?」


 さらりと続けたその言葉に、バスチアンの表情が一瞬だけ強張った。

 だがすぐに視線を伏せ、それを隠す。


「私の社交生活について、王女殿下のお手持ちの情報には、いささか誤りがあるようです。」


 その声は冷静で、礼を失していない。

 だが、先ほどまでの穏やかさとはどこか違っていた。


 プライドが傷つけられたのだろうか。

 それとも、核心に触れられたことへの怒りか。

 セシルは、彼の言葉と態度の裏にある感情を探ろうとした。

 だが、バスチアンはそれ以上の隙を見せなかった。


「……ですから、そのようなご配慮は必要ありません。」


「まあ、そうなの?」


 セシルはわざと首を傾げ、無邪気な笑みを浮かべてみせる。


「では……ほかに何か……。そうね、小さいけど、わたくしの領地の一部をお譲りするのも、考えられるかしら?」


「王女殿下。」


 彼は一歩、セシルに近づいた。

 その声は低く、これまで以上に緊張がこもっていた。


「お申し出をいただけるのは、身に余る光栄です。

 ですが……今一度、伺わせてください。

 本当に、これは王女殿下ご自身のご意思なのですか?」


「もちろんよ。」


 セシルはすぐに返した。

 その声には意思の強さを込めようとしたが、僅かに声が震えてしまった。


「わたくし……どうしても……恋の情熱を知りたいのですもの……。」


 彼の赤い瞳がセシルをじっと見つめる。

 その視線には、冷静さだけではなく、微かな葛藤と揺らぎが、波紋のように広がっていた。


「でも……あなたが、それをわたくしに教えられない、というなら……仕方がありませんわね。」


 セシルはわざと軽やかな口調で続ける。


「そして、シャルトリューズ卿も譲っていただけないというのでしたら……誰か他の方に相談するしかありませんもの。

 たとえば……近衛騎士の副団長、ロセアン卿でしたら……」


 思い浮かべたのは、今まで自分の警護を務めてきた騎士たちの中で、特に見目麗しい近衛騎士の顔。


 あら……そうだわ。

 ロセアン卿も……いるじゃない。

 優しくて、礼儀正しくて、騎士としても申し分なくて……。

 それに近衛騎士なのだから、恋の一つや二つ、経験していて当然よね。


 だって近衛騎士といえば、社交界でも情熱的な恋の担い手たちですものね。

 もしかしたら、恋のことなら、バスチアンよりずっと教え上手かもしれないわ。


 セシルは少し考えをまとめようと一歩下がり、バスチアンとの間にわずかな距離を取った。


「……彼なら……もしかしたら……喜んで教えてくれるかもしれませんわね……。」


 その瞬間、セシルの腕がぐっと掴まれた。

 引き戻される動きには、強引さの中にも節度と慎重さが感じられた。


「お待ちください。」


 低く抑えた声が、静かな力を帯びてセシルを包む。

 見上げると、赤い瞳がまっすぐに彼女を射抜いていた。

 その奥には、揺るがぬ意志と……微かな焦燥が含まれていた。


「ロセアン卿の手を借りる必要はございません。」


 セシルは内心どきりとしながらも、表情を変えず視線を逸らさずに応じた。


「あら? では、あなたがわたくしの依頼を受けてくださるの?

 情熱的な、本物の恋よ?」


 バスチアンは短く息を吐き、小さく笑った。

 その笑みは、いつもの儀礼的なものではなかった。

 諦めとも、覚悟ともつかない複雑な感情が浮かんで、消えた。


 彼はそっとセシルの腕を放し、静かに片膝をつく。

 美しい所作で頭を垂れたその姿は、恭順で、どこまでも誠実だった。


「お望みのままに、王女殿下。」


 その声は低く、静かに響いた。

 普段と変わらぬ礼節を重んじた言葉でありながら、確かな決意が、そこに宿っていた。


 セシルは、心の奥に小さな安堵を感じながら、優雅に微笑んだ。

 任務の命を与えるときと同じく、左手をすっと差し出す。


 いつものようにバスチアンがその手を額に当てて、忠誠を示せば、この依頼が途中で反故にされることはない。

 そう、確信していた。


 だが、次の瞬間。


 バスチアンはセシルの手を取ると、視線を上げ、まっすぐに彼女を見つめた。

 その瞳には、揺るぎのない決意と……読み取れない何かが、静かに燃えていた。


 そして彼は、セシルの手を内側に返し、そっと、その手首の内側に口づけを落とした。


 温かく、柔らかな感触が、皮膚を通して伝わる。


 ただそれだけのこと。

 驚くほど短い瞬間だった。

 けれど、セシルの全身に、電流のような衝撃が駆け抜けた。


 膝がかくんと抜け、小さく息を漏らす。


 すかさずバスチアンが立ち上がり、迷いもなく彼女を抱きとめた。


「いかがなさいました、王女殿下?」


 その声は、いたわるように優しく。

 けれどどこか、彼の奥底に潜む熱を含んでいるようだった。


 セシルは驚きに目を見開いた。

 見上げると、バスチアンの赤い瞳がまっすぐに彼女を見つめていた。

 その奥には、隠しきれない熱と、かすかな悦びのような光が揺れている。


「可愛らしいですね。王女殿下。

 本当に……私の授業を、お受けになられる覚悟がおありですか?」


「もちろんよ……。」


 喉の奥でかすかに震える声を絞り出しながら、セシルは静かに目を閉じた。

 そして、思い切って彼の胸に身を預ける。


 バスチアンの体温が、柔らかく彼女を包み込む。

 布越しでも伝わってくるしなやかな感触と、すぐそばに感じる鼓動。

 それは、セシルの胸の奥をじんわりと暖めていった。


 こんなにも近くで感じる彼の存在……それは、まるで知らなかった世界そのものだった。


 セシルはそっと目を閉じ、深呼吸するように彼の香りを吸い込んだ。

 どこかスパイシーで、それでいて落ち着きを感じさせる、不思議な香りだった。


 バスチアンは、最初は黙って彼女の動きを受け止めていた。

 だが、やがてその腕がゆっくりと、彼女の背へとまわされる。

 ためらいがちに、けれど確かに彼女を抱きしめた。


 その動きは、まるで壊れやすい宝物を扱うかのようだった。


 こんなふうなのね……男性に抱きしめられるというのは。


 セシルは自然と力を抜き、彼に自分を委ねた。

 心の奥に張りつめていた緊張の糸が、一つずつ解けていく。

 意地も、虚勢も、すべてが柔らかく溶けていった。


 ただ、彼の温もりだけが、今のセシルを包んでいた。


「ね、バスチアン。」


 寄り添うようにして、彼の胸元で囁く。


「明日の舞踏会で、わたくしと踊っていただけない?」


 その問いに、耳元で静かに返る低い声。


「喜んで、王女殿下。」


「ただのワルツではありませんわ。恋人として踊るのよ?」


「ええ、もちろんです。何曲でも……王女殿下がお疲れになるまで踊りましょう。」


「本当ね?」


 リュミエールの宮廷での暗黙の掟。

 一曲目は社交のため、二曲目以降は特別な意味を持つ。

 バスチアンがその重みを知らないはずがない。


 けれど、彼はそれでも、優しく即答してくれた。


 セシルの胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 たとえこれが今だけの、束の間の、優しい嘘だとしても。


 明日、彼と一緒に踊る光景を思い描くだけで、甘く柔らかな期待が胸いっぱいに広がっていく。


 恋人の腕の中で何曲も踊り続ける……。

 揺れる未来を想像する自分を、止めることはできなかった。

  

 

読んで下さってありがとうございます☆

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ