#5 恋の教授を叙任します
その一言で、バスチアンの瞳が、一瞬、硬く閉ざされた。
指先がわずかに動き、静かに拳を握る仕草が見える。
そこには、冷静を保とうとする意思と、内に押し込められた葛藤が滲んでいた。
「……王女殿下。」
一呼吸おいて、バスチアンは口を開く。
その声は穏やかで、冷静さを取り戻そうとしていた。
「……外遊先の情勢を御進講するのとは、わけが違うのですよ。」
「でも、どちらも得意なのでしょう?」
セシルは即座に返した。
自分でも驚くほど、声に冷たい響きが宿っていた。
『恋の魔術師』……そう呼ばれる彼が、この挑発にどう応じるのか。
確かめずにはいられない感情が、その冷たさにさらに火を注ぐ。
彼女は一歩、彼に近づいた。
息が触れるほどの距離で顔を仰ぎ見る。
そのまま、相手の眼差しをじっと捉えながら、声のトーンを落とした。
「もちろん、ただでとは申しませんわ。」
わざと柔らかな笑みを浮かべながら、セシルは言った。
「いま、わたくしが管理を任されている爵位のうち、どちらかをあなたに授けられるよう、陛下にご推薦しましょう。」
『爵位』という言葉に、バスチアンの瞳がわずかに揺らめいた。
冷静を装いながらも、その奥では、言葉を慎重に選ぼうとする気配が漂っている。
侍女クロエの話によれば、バスチアン・フレアベリーは多くの女性と軽やかに夜を重ねている。
けれど、とある資産家の子爵家には頻繁に通い、その令嬢と街中で目撃されたこともあるという。
もしかして彼女が本命なのでは、とも囁かれているのだ。
その話を思い出しながら、セシルはあえて無邪気を装って続きを口にした。
「でも……ヴァレンシア子爵は商売人ですわよ?
侯爵家のご令息とはいえ、無爵の方と縁を結ぼうとなさるかしら。
伯爵位でもお持ちの方が、印象はずっと良いのではなくて?」
さらりと続けたその言葉に、バスチアンの表情が一瞬だけ強張った。
だがすぐに視線を伏せ、それを隠す。
「私の社交生活について、王女殿下のお手持ちの情報には、いささか誤りがあるようです。」
その声は冷静で、礼を失していない。
だが、先ほどまでの穏やかさとはどこか違っていた。
プライドが傷つけられたのだろうか。
それとも、核心に触れられたことへの怒りか。
セシルは、彼の言葉と態度の裏にある感情を探ろうとした。
だが、バスチアンはそれ以上の隙を見せなかった。
「……ですから、そのようなご配慮は必要ありません。」
「まあ、そうなの?」
セシルはわざと首を傾げ、無邪気な笑みを浮かべてみせる。
「では……ほかに何か……。そうね、小さいけど、わたくしの領地の一部をお譲りするのも、考えられるかしら?」
「王女殿下。」
彼は一歩、セシルに近づいた。
その声は低く、これまで以上に緊張がこもっていた。
「お申し出をいただけるのは、身に余る光栄です。
ですが……今一度、伺わせてください。
本当に、これは王女殿下ご自身のご意思なのですか?」
「もちろんよ。」
セシルはすぐに返した。
その声には意思の強さを込めようとしたが、僅かに声が震えてしまった。
「わたくし……どうしても……恋の情熱を知りたいのですもの……。」
彼の赤い瞳がセシルをじっと見つめる。
その視線には、冷静さだけではなく、微かな葛藤と揺らぎが、波紋のように広がっていた。
「でも……あなたが、それをわたくしに教えられない、というなら……仕方がありませんわね。」
セシルはわざと軽やかな口調で続ける。
「そして、シャルトリューズ卿も譲っていただけないというのでしたら……誰か他の方に相談するしかありませんもの。
たとえば……近衛騎士の副団長、ロセアン卿でしたら……」
思い浮かべたのは、今まで自分の警護を務めてきた騎士たちの中で、特に見目麗しい近衛騎士の顔。
あら……そうだわ。
ロセアン卿も……いるじゃない。
優しくて、礼儀正しくて、騎士としても申し分なくて……。
それに近衛騎士なのだから、恋の一つや二つ、経験していて当然よね。
だって近衛騎士といえば、社交界でも情熱的な恋の担い手たちですものね。
もしかしたら、恋のことなら、バスチアンよりずっと教え上手かもしれないわ。
セシルは少し考えをまとめようと一歩下がり、バスチアンとの間にわずかな距離を取った。
「……彼なら……もしかしたら……喜んで教えてくれるかもしれませんわね……。」
その瞬間、セシルの腕がぐっと掴まれた。
引き戻される動きには、強引さの中にも節度と慎重さが感じられた。
「お待ちください。」
低く抑えた声が、静かな力を帯びてセシルを包む。
見上げると、赤い瞳がまっすぐに彼女を射抜いていた。
その奥には、揺るがぬ意志と……微かな焦燥が含まれていた。
「ロセアン卿の手を借りる必要はございません。」
セシルは内心どきりとしながらも、表情を変えず視線を逸らさずに応じた。
「あら? では、あなたがわたくしの依頼を受けてくださるの?
情熱的な、本物の恋よ?」
バスチアンは短く息を吐き、小さく笑った。
その笑みは、いつもの儀礼的なものではなかった。
諦めとも、覚悟ともつかない複雑な感情が浮かんで、消えた。
彼はそっとセシルの腕を放し、静かに片膝をつく。
美しい所作で頭を垂れたその姿は、恭順で、どこまでも誠実だった。
「お望みのままに、王女殿下。」
その声は低く、静かに響いた。
普段と変わらぬ礼節を重んじた言葉でありながら、確かな決意が、そこに宿っていた。
セシルは、心の奥に小さな安堵を感じながら、優雅に微笑んだ。
任務の命を与えるときと同じく、左手をすっと差し出す。
いつものようにバスチアンがその手を額に当てて、忠誠を示せば、この依頼が途中で反故にされることはない。
そう、確信していた。
だが、次の瞬間。
バスチアンはセシルの手を取ると、視線を上げ、まっすぐに彼女を見つめた。
その瞳には、揺るぎのない決意と……読み取れない何かが、静かに燃えていた。
そして彼は、セシルの手を内側に返し、そっと、その手首の内側に口づけを落とした。
温かく、柔らかな感触が、皮膚を通して伝わる。
ただそれだけのこと。
驚くほど短い瞬間だった。
けれど、セシルの全身に、電流のような衝撃が駆け抜けた。
膝がかくんと抜け、小さく息を漏らす。
すかさずバスチアンが立ち上がり、迷いもなく彼女を抱きとめた。
「いかがなさいました、王女殿下?」
その声は、いたわるように優しく。
けれどどこか、彼の奥底に潜む熱を含んでいるようだった。
セシルは驚きに目を見開いた。
見上げると、バスチアンの赤い瞳がまっすぐに彼女を見つめていた。
その奥には、隠しきれない熱と、かすかな悦びのような光が揺れている。
「可愛らしいですね。王女殿下。
本当に……私の授業を、お受けになられる覚悟がおありですか?」
「もちろんよ……。」
喉の奥でかすかに震える声を絞り出しながら、セシルは静かに目を閉じた。
そして、思い切って彼の胸に身を預ける。
バスチアンの体温が、柔らかく彼女を包み込む。
布越しでも伝わってくるしなやかな感触と、すぐそばに感じる鼓動。
それは、セシルの胸の奥をじんわりと暖めていった。
こんなにも近くで感じる彼の存在……それは、まるで知らなかった世界そのものだった。
セシルはそっと目を閉じ、深呼吸するように彼の香りを吸い込んだ。
どこかスパイシーで、それでいて落ち着きを感じさせる、不思議な香りだった。
バスチアンは、最初は黙って彼女の動きを受け止めていた。
だが、やがてその腕がゆっくりと、彼女の背へとまわされる。
ためらいがちに、けれど確かに彼女を抱きしめた。
その動きは、まるで壊れやすい宝物を扱うかのようだった。
こんなふうなのね……男性に抱きしめられるというのは。
セシルは自然と力を抜き、彼に自分を委ねた。
心の奥に張りつめていた緊張の糸が、一つずつ解けていく。
意地も、虚勢も、すべてが柔らかく溶けていった。
ただ、彼の温もりだけが、今のセシルを包んでいた。
「ね、バスチアン。」
寄り添うようにして、彼の胸元で囁く。
「明日の舞踏会で、わたくしと踊っていただけない?」
その問いに、耳元で静かに返る低い声。
「喜んで、王女殿下。」
「ただのワルツではありませんわ。恋人として踊るのよ?」
「ええ、もちろんです。何曲でも……王女殿下がお疲れになるまで踊りましょう。」
「本当ね?」
リュミエールの宮廷での暗黙の掟。
一曲目は社交のため、二曲目以降は特別な意味を持つ。
バスチアンがその重みを知らないはずがない。
けれど、彼はそれでも、優しく即答してくれた。
セシルの胸の奥が、じんわりと温かくなる。
たとえこれが今だけの、束の間の、優しい嘘だとしても。
明日、彼と一緒に踊る光景を思い描くだけで、甘く柔らかな期待が胸いっぱいに広がっていく。
恋人の腕の中で何曲も踊り続ける……。
揺れる未来を想像する自分を、止めることはできなかった。
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