#47 星降る国で抱きしめて
神殿の中央に掲げられた聖なる蒼き布。
そこにくっきりと浮かび上がるのは、夜空のように深く、輝く、星々の紋様。
星々の隙間には、二人の汗と熱が染み込み、昨夜の出来事を静かに物語っていた。
本来ならば、誰もが顔を赤らめるところだろう。
だが、ここに集う者たちは皆、一晩を超える舞踏会の疲労に包まれ、そこにはむしろ清々しい安堵しかなかった。
なにより……暁に閨の扉が開かれなかった理由。
それは、単に『証』が立たなかったからではない。
朝の光すら気にならぬほど、二人は求め合ってしまった。
それだけのことなのだろう。
「……これでエクリプスも安泰ですね。」
誰かが静かに呟く。
おそらく、この国の貴族の一人だろう。
その言葉に、周囲からも小さな頷きが漏れる。
王国に、新たな未来が約束されたのだ。
扉が開かれる。
光が差し込む。
神殿に集う人々の視線が、静かにその方向へと向けられる。
エクリプスの輝ける星、トライン第一王子。
彼は、腕の中にひとりの女性を抱きかかえていた。
その顔には、わずかな紅潮が滲んでいる。
だが、その足取りは迷いなく、堂々と祭壇へと向かう。
彼の腕の中にあるのは、この国のもうひとつの光であるリリス王女。
彼女は、まるで星の光に包まれたように王子に身を預け、白銀の髪をそっと揺らしていた。
歩くことすら叶わぬほど、彼に愛された証。
祭壇の前でそっと降ろされると、リリス王女は立ち上がりながらも、ほんの一瞬だけ、ふらりと揺れる。
その姿を見て、誰もが悟る。
この『試練』は、間違いなく成し遂げられたのだ、と。
司祭が、静かに祝福の言葉を告げる。
澄み渡る祈りの声が堂内に響き渡り、空気が神聖な静寂に包まれる。
高窓から差し込む光の中に、細やかな祝福の星がゆらめき、静かに空間に広がる。
荘厳な沈黙の中、二人は誓いを交わし、黄金の指輪が光を受けて静かに輝いた。
次に、王が歩み出る。
重厚な王冠を戴いた国王が、一歩、また一歩と堂内を進む。
その足音が響くたび、人々は息を潜めた。
王は司祭の前で立ち止まり、威厳を湛えたまま玉杖を掲げる。
そして、宮殿の奥深くにまで響くような声で、堂々と宣言した。
「ここに、新しき王太子の誕生を告げる。」
堂内の空気が震え、次の時代の到来を予感させる。
拍手の代わりに、深く押し寄せる沈黙が、その重みを際立たせた。
そして……王太子冠を戴いたトライン王子は、最初の『赦し』 を行った。
それは、先の戦の爪痕を超えるための選択。
国が、過去を許し、未来へと踏み出すための誓約。
「エクリプス王国は、友好国の王子たちの自由な帰還を正式に宣言する。」
その言葉の意味を、誰もが理解していた。
これは、ただの寛大さではない。
王国の在り方を示す、確固たる意志の表れだった。
戦の因縁を超えた、王国同士の新たな未来。
それが、今、ここで確かに生まれようとしている。
この誓いが、いつか本当の平和へと繋がることを、その場にいた誰もが願っていた。
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結婚式のあとは、盛大な祝宴が催され、列席者たちがもてなされた。
一度仮面をつけて踊り、語り合ったからだろうか。
そこには以前よりも近しい空気が流れ、国を超えて新たな交流が生まれていた。
人々は杯を交わしながら、未来の約束を交わし、やがて三々五々、宮殿を後にしていく。
セシルもまた、自身の塔へ戻りながら、隣を歩くバスチアンに視線を向けた。
どうしても気になることがあった。
思い切って口を開く。
「昨日の夜は……」
「昨夜は……」
二人の声が重なった。
どちらも一瞬、驚いたように相手を見つめる。
バスチアンが、先に口を開いた。
「失礼いたしました、王女殿下。」
「いえ……その……フレアベリー卿、あなた、昨日どこにいたの?」
セシルの問いに、バスチアンは淡々と答える。
「控室でございます。他国の外務官と打ち合わせをしておりました。」
その外務官ってあの赤毛の令嬢のこと?
真夜中に?
納得がいかなくて、思わずバスチアンを見上げる。
ほんの少しだけ、恨めしさを込めて。
だが、バスチアンは逆に問い返してきた。
「では、王女殿下はどちらで?」
その声音は穏やかだったが、瞳はどこか探るようだった。
セシルは、わずかに視線をそらしながら、慎重に言葉を選ぶ。
結婚式が終わったとはいえ、秘密とされている偽の求婚相手の『お役目』のことや、あの二人のことを話すべきかどうか。
「控室よ。……友達と過ごしていたわ。」
「友達?」
「ええ。その……新しくできた友達よ。」
バスチアンは、一瞬、目を細めた。
まるで、その言葉の奥を見極めるように。
「……それは、なによりでした。」
ほんのわずかに滲む、感情の色。
それが何なのか、セシルにはうまくつかめなかった。
けれど、ふと昨夜の出来事を思い出す。
人前で裸足になるなど、通常ならありえない。
それほどまでに親しくなれたのだ。
セシルにとって、初めての『友達』と言ってもいいかもしれない。
そのことを思いながら、クスリと笑う。
「ええ……とても楽しかったわ。」
それを見て、バスチアンは一瞬だけ目を伏せ、唇を引き締めた。
だが、それ以上は何も聞かず、ただ静かに頷いた。
「…………そうですか。」
夜の帳が降りるなか、二人の間に、微かな沈黙が落ちる。
「……あの。」
「王女殿下……。」
ふたたび声が重なる。
セシルは小さく笑って、バスチアンを見上げた。
「いいわ。先に言って。」
促すと、バスチアンが僅かに瞬きをし、それから静かに頷いた。
「……お疲れでしょう。部屋に温かい湯を用意させてあります。今夜はごゆっくりお休みください。」
「…………ありがとう。……あなたも、ゆっくり休んで。」
言葉にしそびれたものがあった。
けれど、気づいたときには、もうタイミングを逃していた。
――今夜は、抱きしめてくれる?
言えないまま、ただ並んで塔を登る。
静かな足音が、石の階段に響く。
セシルの部屋の前に辿り着くと、扉を開けながら、ふと名残惜しさが込み上げた。
「ね、ここにはいつまでいるの?」
バスチアンが穏やかに微笑む。
「明日、ご出立いただきます。」
やっぱり。
そんなに長くいられるはずはない。
わかっていたのに、喉の奥がぎゅっと詰まる。
セシルがこくりと頷くと、バスチアンの指がわずかに動いた。
それを、セシルは見逃さなかった。
そっと手を伸ばし、その手をぎゅっと握る。
「ティアン。」
バスチアンの赤い瞳が、ゆるりと伏せられる。
「わたくし、実はわがままなの。」
「存じております。」
バスチアンが、微かに笑う。
「だから、あなたに命令するわ。」
「……何なりと。」
「ね、キスをして。」
わずかに瞳を揺らした後、バスチアンはすっと顔を寄せる。
ゆるやかに触れる唇。
ひどく優しくて、あまりに柔らかくて……。
それなのに、一瞬……微かに、見知らぬ香りが漂う。
胸の奥がざわめいた。
喉が、きゅっと詰まる。
「命令するわ、バスチアン・フレアベリー!」
声が震えた。
「これから先、わたくし以外の令嬢とキスをすることを禁じます!」
そんなの、無茶だってわかってる。
それでも、口からこぼれてしまった。
視界が滲む。
ぽろり、と頬を雫が伝う。
バスチアンが、静かに微笑んだ。
そして、ふたたび唇を重ねる。
今度は、先ほどよりも少しだけ深く。
セシルの涙の痕をそっとなぞるように……確かめるように。
「御命令は、肝に銘じましょう。」
その声が、あまりに優しくて、切なくて。
「………い……一生、よ? 死ぬまでよ?」
「もちろんです。」
バスチアンが、指先でそっとセシルの頬を拭う。
「私のすべては、王女殿下のものです。」
胸の奥が、ちくりと痛む。
こんなふうに言われると、余計に寂しくなる。
「……いかがなさいましたか?」
囁くような声が、そっと問いかける。
「そんなに涙を流されると……私も溺れてしまいます。」
「……まだ、一緒に、いて。」
セシルは、掠れる声でそう言った。
「承知いたしました。」
一瞬の躊躇い。
そして表情を隠すように、セシルをそっと抱き寄せる。
鼓動の音が、夜の静けさに溶けていく。
彼の体温を感じながら、セシルは目を閉じた。
「……お望みのままに。」
背後で、扉が静かに閉まる。
窓の外では尖塔の数々が、星の光を受けて煌めいていた。




