#46 暁に鐘は鳴らず
夜通し踊り続けた三人の王女たちは、瀟洒な控室を一室占領して、そのソファにぐったりと身を沈めていた。
まるで抜け殻のように、誰も動こうとしない。
窓の外はすっかり明るく、夜の名残を惜しむようにカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
「鐘……鳴りませんわね。」
セシルがぽつりとつぶやく。
煌びやかだったドレスも、疲れとともに皺が寄り、朝の光の中ではなんだか場違いに見えた。
ドレスの下でコルセットがきゅうきゅうと身体を締め付ける。
足元はじんじんと痺れ、踊り続けたせいでふくらはぎが張っている。
フレールが、ぽん、と靴を脱ぎ、足をソファに投げ出した。
「もう立ちたくもないわ……。」
しんとした空気が流れる。
仮面舞踏会は、一晩で終わらなかった。
セシルたちの『贈り物』も、どうやら決定打にはならなかったらしい。
「まだ……あと二夜、ありますし……。」
「でもそれまでここから出られないんでしょう? 今夜のためのドレス、持って来させないと。」
「ああ……そうね……。わたくし、このドレス、もう着たくないわ。」
「舞踏会が終わらないってことは、また踊らなくちゃいけないのかしら。」
「ええ。試練の二人を応援するために、ね。」
「ねえ……本当に……この慣習がロマンチックだなんて言ったの、どなた?」
「……。」
「……。」
しばしの沈黙。
やがて、誰ともなく苦笑がこぼれた。
*******
しばらくして、三人はそれぞれ朝のドレスに着替え、会場へと戻った。
音楽は昨夜よりもゆったりとしたリズムを刻み、飲み物には紅茶が用意され、軽食のビスケットやシュープリーズのサンドイッチが並べられている。
どうやら誰もが、長期戦を覚悟しているらしい。
仮面をつけたまま、紅茶を一口。
フルーツのサンドイッチをそっとつまむ。
ちらほらと、昨夜のうちに恋人同士となった者たちが見受けられた。
どこか気だるげな空気を纏い、寄り添いながら囁き合っている。
新しく生まれた愛の余韻に浸る者たちと、それを静かに見守る者たち。
会場は、そんな独特の雰囲気に包まれていた。
バスチアンの姿は、まだ見えない。
どこにいるのだろう。
まさか……昨日の令嬢と過ごしているのでは?
ふと、彼があの赤毛の女性と絡み合っている姿が、頭に浮かんだ。
それはただの想像のはずなのに、やけに鮮明で……心臓が、ドキリと跳ねる。
セシルは、思わず唇を噛みしめた。
もし、彼があの令嬢と一夜を過ごし、恋人たちの空気を纏ってここに現れたら?
想像しただけで、胸が焼けるように苦しかった。
嫌。
ティアンは、誰にも渡したくない。
彼は、私のものよ!
はっとして、セシルは首を振った。
違う。
そんなことを考える資格は、自分にはないはずだ。
彼は自由で、何をしようとそれは彼の勝手。
セシルが「私のもの」だなんて言う権利は、どこにもない。
だけど。
そう思えば思うほど、胸の奥が苦しくなるのはなぜだろう。
ふぅ、と大きく息を吐いた。
今は、余計なことを考えるのはやめよう。
*******
招待客の間には、仮面の下に静かな連帯感が生まれつつあった。
初対面の者同士でも、自然と会話の輪が広がる。
同じ長い夜を過ごした者たちにしかわからない、奇妙な親近感がそこにあった。
「前回の仮面舞踏会は四十年前に出席したよ」
そんな言葉が聞こえてくる。
語ったのは、年配の紳士だった。
彼は懐かしげに微笑みながら、「その時は三晩かかった」と教えてくれる。
「だからね、皆さん、ピクニックにでも来たつもりで体力を温存するといいですよ。」
その軽やかな冗談に、場が和むような笑い声が広がった。
肩の力が抜けたような、穏やかな空気が漂う。
もはや誰も焦っていない。
こうなれば、もう腹を括るしかないのだから。
——この光景を、トライン王子が見ていないのは幸いだった。
もし見てしまえば、きっといたたまれない思いをするだろう。
いや、きっと彼は気づいている。
これほど多くの招待客に期待されながら、それを成し遂げねばならないことを。
これは、まさしく『試練』だ。
実際、特に男性陣は誰一人として不満を口にせず、むしろトライン王子の勇気に感嘆しているようだった。
いずれにせよ、もう夜はすっかり明けてしまった。
日中に動きはないだろう。
誰もがそう納得し、穏やかに時間を過ごそうと諦める。
給仕たちが静かに新しい茶葉を運び始めた、その時……。
ふと、音楽の合間に、何かが混じった。
まるで、風がふっと吹き込んだような微かな異音。
けれど、それは確かに違った。
ダンスの旋律が、一瞬、ふっと途切れる。
誰もが、しばし動きを止めた。
まるで、音の正体を確かめるように。
そして。
次の瞬間……
高らかなカリヨンの音が、窓の外から響いた。
「鐘が、鳴ったわ……!」
誰かの小さな息を呑む声。
それが引き金となり、会場全体に安堵の吐息が広がる。
拍手。
最初は控えめだったそれは、次第に大きくなり、やがて鐘の音さえもかき消した。
誰かが歓声を上げる。
仮面の奥で、目を潤ませている者もいた。
そして……
誰からともなく、仮面が外される。
一枚、また一枚。
舞い上がる仮面が、陽の光を反射してふわりと弧を描く。
朝の光にきらめきながら、夜の夢が静かに終わりを告げる。
舞踏会は、ついに幕を下ろしたのだった。