#44 仮面舞踏会で偽りの求婚を
宮殿の広間には、無数の燭台が並び、天井からは燦然と輝くシャンデリアが煌めいていた。
金と銀に彩られた豪奢な舞踏会場は、揺らめく光の中で幻想的に輝き、まるで夢の中に迷い込んだかのよう。
フロアに集う招待客たちは、それぞれが華やかに装い、そしてとりどりの仮面をつけている。
白いレースのマスク、羽根飾りのついた仮面、金箔の縁取りが施されたもの。
華やかで神秘的な光景の中、優雅な調べが響き渡っていた。
やがて、国王夫妻が姿を見せると、会場がしんと静まりかえった。
玉座の前に立ち、王はゆるやかに口を開く。
「今宵、再びこの宮殿に『仮面舞踏会』の華が咲くこととなった。」
厳かでありながら、どこか温かな声音。
国の歴史と伝統の重みを感じさせながらも、今宵の祝祭が新たな時代の幕開けであることを告げるような響き。
「ここに集いたる方々には、心からの感謝を捧げたい。
この輝かしき夜、我らは友として集い、舞い、語らい、祝いの杯を交わす。
今宵はただ仮面のもとに集う者として、国の威信を置き、地位の隔たりを除き、この儚き宴を、心ゆくまで楽しんでいただきたい。
やがて試練の時が満ちたとき、エクリプスの輝ける星となる二人が、永遠の誓いを交わす瞬間が訪れるだろう。
星が西に消える暁に、鐘の音が高らかに奏でられることを、願って。」
王が杯を掲げると、会場から一斉に乾杯の音が響いた。
瞬間、優雅な旋律が流れ出し、舞踏会の幕が正式に開かれる。
王は隣に座る王妃をそっと見つめ、ふっと微笑んだ。
40年前――この広間で、彼は王妃に求婚し、試練を超えて結婚式を挙げた。
しかし、その後の戦乱の時代で、彼の息子たちはこの伝統の結婚式を行うことなく伴侶を迎え、戦地へと散っていった。
だからこそ、孫であるトライン王子が正式な『試練の結婚式』に臨むと決めたとき、王は誇りとともに彼の決意を受け止めた。
そして、今夜、彼が試練を越えた暁には、正式な後継者として認めるつもりでいる。
*******
今宵の主役であるトライン王子は、仮面越しに広間を静かに見渡した。
この舞踏会での彼の役目は、「新妃を探し出し、求婚すること」。
ただし、一度で正解を当てるわけにはいかない。
古の伝統に則り、何人かの令嬢に「偽りの求婚」をする必要があった。
会場の視線が、ひそかに彼に集まる。
そのとき彼の視線が吸い寄せられるように、ある令嬢に向かった。
純白のドレスに身を包み、金の星が瞬く仮面を纏う、気品ある令嬢。
静謐な美しさを湛えながらも、どこか儚げで、夜空に浮かぶ一番星のように目を引いた。
――美しい。
心が、ふわりと引き寄せられる。
自然と身体が幸福感に満ち、彼は自分の頬が緩むのを感じた。
まるで夢の中にいるような、愛しさ。
いますぐにでも、この腕に抱きしめたい。
求婚の儀を終えて、一刻も早く彼女を連れ去りたい。
遠くから見ているだけでは足りず、彼女へと歩み寄ろうとした、そのとき——。
純白のドレスの令嬢が、ふっと微笑んだ。
そして夜の霧が風に溶けるように、人混みの向こうへと姿を消した。
瞬間、彼の脚が動く。
気づけば、人々の間をすり抜け、彼女の後を追っていた。
……が、その行く手をふさぐように、すっと影が差し込んだ。
紅のドレスが、照明の光を浴びて鮮やかに揺れる。
黒髪の令嬢が、優雅な仕草で彼の視線を遮る。
彼女もまた、金の星の仮面を纏い、微笑んでいた。
「ねえ、素敵な方。どうかわたくしと、踊ってくださらない?」
透き通るような声が、しなやかに響く。
トライン王子は、僅かに驚いたように瞬きをした。
だが、すぐに気づく。
これは偶然ではない。
彼は、ふっと口角を上げた。
「……それは光栄だ。」
そう囁き、優雅に彼女の手を取る。
周囲から、くすくすと温かな微笑みが広がる。
音楽が流れ、ダンスが始まる。
流麗なステップを踏みながら、黒髪の令嬢が、王子の耳元にそっと囁いた。
「殿下。新妃様に見とれるのは、もう少し後にしてくださいませ?」
そして悪戯っぽくクスリと微笑む。
「せっかく、お言葉を覚えてきましたのよ?」
トライン王子は、気まずそうに口を歪めた。
「……ああ、すまない。」
やがて、曲が終わる。
王子は、ゆったりと彼女の手を取り、会場に響く声で堂々と告げた。
「美しき姫君。
どうか私と結婚し、これから全ての夜を、幾千の星の下でともに過ごして下さい。」
黒髪の令嬢が、穏やかに微笑む。
「幾千の星がこの夜を照らす限り、殿下の隣に立つのは私ではございません。」
そして、小さく付け加えた。
「——仮に星が見えない夜であったとしても、ね。」
トラインは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
そして、静かに微笑む。
「あなたは、夜の闇よりも神秘的ですね。」
そう言い、彼は優雅に彼女の手を離した。
こうして、一人目の求婚が終わった。
あと二人。
トライン王子は、目印となる金の星の仮面を探し、広間を見渡した。
たくさんの令嬢の中で見つけるのは骨が折れるかと思われたが、意外にもすぐに目に留まった。
エメラルドグリーンのドレスに身を包んだ、小柄な令嬢。
夕陽のように温かなオレンジ色の髪が、柔らかく揺れている。
トライン王子は彼女に歩み寄り、穏やかに声をかける。
「失礼、御令嬢。」
「あら。わたくしに何か?」
「私と一曲踊っていただけますか?」
「ええ、もちろん!」
彼女は明るく微笑み、ふわりとドレスの裾を持ち上げると、そっと彼の手を取った。
その仕草は軽やかで、まるで春風が舞うように優雅だ。
ふたりが軽やかにステップを踏むと、周囲も場を盛り上げるように舞い始める。
夕陽色の髪の令嬢が、王子の耳元でそっと囁いた。
「殿下……。」
優しく、しかしどこか切ない響き。
「本当に愛する方と、ご結婚なさってくださいね。」
その言葉に、トラインの動きが、一瞬止まった。
「……何?」
彼女は微笑んだまま、少しだけ目を伏せる。
そして、静かに言葉を継いだ。
「——そして、わたくしに……レアリー殿下をお返しくださいませ。」
レアリー……?
その名を聞いた瞬間、トラインは一拍、呼吸を忘れた。
そして、まるで霧が晴れるように、一つの真実を悟る。
「……そうか。」
思わず、唇の端がわずかに緩んだ。
「君が、彼の……。」
フレールが、わずかに首を傾げる。
「レアリーから、よく話を聞いている。」
「……まあ。では、お親しいのですね。」
彼女の声音は柔らかいが、その奥底には、彼女だけの祈りが滲んでいるようだった。
トライン王子は、咄嗟に微笑の奥に感情を隠す。
先の戦争で人質として預かっていたソレイユ王国のレアリー王子。
彼の解放が密かに計画されていることは事実だ。
だが、それは、自分が試練を乗り越え、正式に結婚を迎えたときに行われる『赦し』として。
……まだこの令嬢は知らない。
やがて、曲が終わる。
二人は優雅に礼を交わすと、トライン王子は朗々と告げた。
「心優しき姫君。
どうか私と結婚し、これから全ての夜を、天の星の輝きの下でともに過ごして下さい。」
令嬢は、ふわりと微笑む。
その笑顔は、夕映えのように柔らかく温かかった。
「天の星の輝きが尽きぬ限り、殿下の花嫁たる身ではございません。」
彼は、そっと彼女の手を離す。
だが、その直前——静かに囁いた。
「……すべては、鐘が鳴るときに。」
フレールの瞳が、ふわりと揺れる。
まるで、沈みゆく夕陽のように——穏やかで、それでいて微かな希望が揺らめくような。
彼女はそっと眼差しを潤ませながら、深く礼をした。
その指先が、ほんのわずかに震えていた。
トライン王子も軽く頷き、そして金の星の仮面を探して、再び視線を巡らせ……。
——探すまでもなかった。
すぐそばに、金の星の仮面があった。
金色の髪の令嬢が微笑んで誘われるのを待っている。
「……見つける手間が省けたよ。」
小さく呟きながら、トライン王子は彼女の手を取り、優雅に誘う。
淡い光を受けて揺れる煌めく空色のドレス、金色の髪。
ダンスが始まる。
曲に合わせて、軽やかに舞う。
「……ああ、もう曲が終わるな。こんなに短い曲だったかな?」
トライン王子は不思議そうにつぶやく。
「いくらなんでも、短すぎるだろ。」
「短くしてもらっているのですわ、殿下。」
涼やかな声で、さらりとした返答。
「時間は有効に使っていただかないと。」
その言葉に、トラインは苦笑した。
「君にはかなわないな……セシ……っ……!」
うっかり名前を呼びそうになった、その瞬間。
彼の足が、思い切り踏まれた。
けれど、それすらも優雅にこなして、彼女は微笑む。
あたかも何事もなかったかのように。
トライン王子もすぐに体勢を立て直し、彼女の手を取り、高らかに申し込む。
「聡明な御令嬢。
どうか、私と結婚し、星の輝くこの国を一緒に導いてくれませんか?」
セシルは、美しい微笑を浮かべ、澄んだ声で答える。
「夜空に瞬く星々が、殿下の真なる伴侶を照らしますように。」
トライン王子が小さく頷く。
そして——。
礼を外さない程度に丁寧に。
だが、一目散に。
彼は、先ほどの白いドレスの令嬢を探して、去っていった。