#43 牢獄の中で永遠の愛を
石造りの壁に、小さな窓がぽっかりと空いていた。
そこから覗く夜の帳には、ゆっくりと星々が瞬き始めている。
牢獄の中は、湿気を帯びた冷気が漂い、かすかに石灰のにおいがかすめる。
指で壁をなぞった瞬間、ざらついた感触が返り、思わず手を引っ込めた。
振り返ると、簡素なベッドと机、それに片隅には粗末な水場があるだけだった。
貴人用の独房らしく最低限の設備は整っているが、冷え切った空気と無機質な灰色の壁が、ここが自由を奪われた場所であることを嫌でも突きつけてくる。
セシルは王女として育てられ、こうした質素な環境には慣れていなかったが、それに怯むほど繊細でもなかった。
差し入れられた固いパンを、薄いスープに浸して口に黙々と運ぶ。
いずれ、救出が来るはず。
その時、万が一にも倒れるなどという、みっともない姿を晒すわけにはいかない。
いついかなる時も、リュミエールの光として、堂々と振る舞わなくてはならないのだから。
そう心を引き締めた、まさにその瞬間だった。
扉の向こうで、足音が近づく。
がちゃり、と鍵が回る音がした。
静かに扉が開かれる。
冷え切った牢獄の空気が、わずかに揺れた。
そこに立っていたのは、フードを目深に被った長身の男――だが、隠しきれない燃えるような赤い瞳が覗いていた。
「ティアン!」
心臓が跳ねた。
凍りついていた身体に、一気に血が巡るような感覚がした。
ぱっと立ち上がり、駆け寄ろうとした瞬間。
バスチアンの腕がためらいなく伸びる。
指先が頬をなぞり、迷いなく唇が重ねられた。
「ん……っ!」
柔らかな吐息が、喉の奥に絡む。
驚く間もなく、息が奪われた。
焦燥と安堵、どちらともつかない熱に満ちた口づけ。
力強く抱き寄せられ、膝がかくりと揺らぐ。
そのまま、簡素なベッドの上に倒れ込んだ。
ベッドの粗末な木枠が、ギシリと軋む。
驚きと安心が入り混じる中、無意識に彼の胸に額を預ける。
すると――
バスチアンが、耳元で掠れた声で囁いた。
「……セシル。君を……愛してる。」
えっ!?
どきり、と胸が跳ねる。
見上げれば、彼の瞳の奥に抗いがたい情熱が揺らめいていた。
問い返そうとした、その瞬間――
再び、彼の唇が塞ぐ。
「ん………んんっ………あっ………んっ……。」
呼吸を分け合いながらするキス。
胸の奥がじんじんと熱くなってきて、頭がくらくらする。
もう、ここがどこであるすら、考えられない……。
無意識に手が動く。
シャツの間から忍び込んだ指先が、熱を帯びた肌を探る……。
びくり、とバスチアンの筋肉が震えた。
そして、唇が離れる。
一瞬の沈黙。
セシルは熱の残る唇に、そっと触れた。
バスチアンの瞳が、わずかに揺れる。
次の瞬間。
彼はセシルの身体からすっと距離をとり、 急に声を張り上げた。
「ああ……どうか、愚かな私を許してくれ!」
……え?
何? いきなり、どうしたの?
すると彼は扉の向こうを気にするように視線で合図を流し、どこか切実な声で続けた。
「これからは君の言う通り、生活を改める!
だから、どうか戻ってきてくれ……!
君がいないと、昼も夜も、まるで光が消えたようなんだ……っ!」
――ああ、これは……異国の貴族の夫婦、という設定なのですわね!
生活の乱れた夫に愛想をつかした妻が、家出をした……そういうことなのですね!
セシルはバスチアンの意図を察して、しなやかに身を起こす。
涙ぐむような演技を交えながら、震える声で応じた。
「ごめんなさい……あなた。
わたくし……勝手に飛び出してしまって……。
すぐ戻ろうとしたのだけれど、道に迷ってしまったの。……反省しているわ。」
本当に反省しているのだ。これは嘘ではない。
「本当に? 道に迷っただけ?」
「ええもちろんよ。」
「私の元から去ったわけでは……?」
バスチアンの声も震えていて、赤い瞳には本気の熱が宿り、真に迫るものがあった。
本当に演技が上手なのか、それとも下手なのか。
少なくとも『魔獣』の時に比べて、二人とも格段に進歩している。
お互いに台本なしでも息はぴったりだ。
「そんなはずないじゃない! わたくし、あなたのことを世界で一番愛してるのよ!」
セシルは心を込めて、言葉を紡ぐ。
演技に乗じて、そっと本当の気持ちを伝える。
彼の赤い瞳がわずかに揺れた気がして、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「私の方が君よりずっと……愛してるよ。誰よりも、君だけを。永遠に……。」
バスチアンの声に熱がこもる。
まるで本当にそう思っているみたいで、セシルの胸が締め付けられる。
赤い瞳が、じっとセシルを見つめる。
その奥に、何か言いかけて、飲み込んだような色が揺れる。
それは、すぐに……深い夜の闇にのみ込まれていった。
やがて彼が優しく、言った。
「……さあ、愛しい人。私と一緒に帰ろう。」
はっ。
そうでしたわね!
ええ、帰りましょう!
王女だとバレる前に!
コクリと頷いて扉に向かうと、バスチアンがふわりとマントを広げ、肩にかけた。
ふたりは牢の扉を抜け、足早に石の階段を下りていく。
出口にいた看守へ、彼はずっしりとした革袋を渡す。
看守がへつらうような笑みを浮かべる。
「ありがとうごぜいやす、旦那!」
「くれぐれも口外しないことだ。お互いのためにな。」
「へい、分かっておりやす。記録のほうも、きれいさっぱり消しときますんで。」
「助かるよ。……いい酒でも飲んでくれ。」
「旦那も、どうぞ奥方とお幸せに。」
「ああ、ありがとう。……よい夜を。」
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外に出ると、夜空には満天の星が輝いていた。
バスチアンが、ふっと息をついて言う。
「ご無事で何よりです。……エクリプスの牢は、お楽しみいただけましたか?」
「え……ええっ……その……。」
どこか意地悪な言い回しに、思わず頬が熱くなる。
すると、彼は口元に笑みを浮かべ、静かに続けた。
「恋のリストの『16.牢獄の中で永遠の愛を誓う』が滞りなく達成できましたね。ご満足いただけましたね?」
「…………あの……わざと入ったわけではないのよ?」
「ええ、存じております。もしわざとでしたら……二度と迷子にならないように、特別な装飾品をご用意しなければなりません。」
「……っ!」
「それとも、今すぐにご用意したほうがよろしいでしょうか。」
バスチアンの冗談に、セシルは思わず口をつぐむ。
けれど、その直後に小さく息をついて、ぽつりと呟いた。
「……あの……さきほどは、とても素敵でした。
まるで、本当に愛を囁かれているみたいでしたわ。」
その言葉に、バスチアンがわずかに言葉を詰まらせる。
「それは……よかったです。」
どこかぎこちない声。
セシルは、ふとバスチアンの横顔を盗み見た。
淡々と歩く彼の瞳に、微かな揺らぎが映っていた気がする。
「もし……本当だとしたら……。」
ぽつりと呟いた彼は、何かを振り払うように小さく首を振る。
その仕草に、セシルの胸がきゅっと縮まる。
「……ですが、牢のご視察はもうおやめください。」
その声音は、先ほどよりもずっと静かで、優しくて……どこか、惜しむようなものだった。
ありがとうございます。