#41 王女達の秘密の作戦会議
その夜、『仮の求婚相手』に指名された三人の王女たちは、誰にも知られることなく、静かにアステリス公女の部屋へと集った。
円卓の中央では、金と銀の燭台が揺らめき、優雅な影を落としている。
真紅の絨毯に据えられた豪奢なソファが、夢幻的な雰囲気を漂わせる。
テーブルには、まるで儀式の供物のように、エクリプス王国独自の料理が並べられていた。
黄金の皿に盛られたのは、 「三種の魔獣のテリーヌ」。
白銀のトレイの上には、「夜喰の燻製パイ」。
そして、深い群青に星が瞬くようなガラス皿には、「星の果実のタルト」。
獲れたての魔獣の肉が三色の虹のように美しく固められたテリーヌは、さっくりと焼き上げられたカナッペの上で静かに光を宿している。
夜喰の燻製パイは、黒曜石のような艶を持つパイ生地に包まれた、深い森に棲む夜行性の鳥の肉を用いた一品。
芳醇な燻香が広がる中、その名残のように、ほのかに甘い余韻を残す。
その内側から、小さく、微かな息遣いのような囀りが響く。
そして、この国特産の星の果実をふんだんに使ったタルトが、甘い芳香で誘っていた。
三人はグラスの中で揺れる深紅のワインを見つめながら、皿の上の料理を前に、互いに視線を交わし合った。
「……これ、いただくのに少し勇気がいりますわね。」
アステリス公女が呟く。
「……昨夜の晩餐では、何も知らずに美味しくいただきましたけれど……。」
フレール公女も微かに唇を引き結ぶ。
「今日はいろいろな意味で、この国の神髄に触れたような気がしますわね。」
セシルも呟く。
それは、エクリプス王国の民にとっては極上の美食。
しかし、異国の王女たちにとっては、あまりに未知の味だった。
三人は、テリーヌと燻製パイには手を伸ばさず、そっと視線を交わし、迷うことなく「星の果実のタルト」の皿に同時に手を伸ばす。
バターの香りとともに、じゅわりと広がる果実の甘酸っぱさ。
しっとりとした生地が舌の上でほどけ、ひやりとした夜の空気に優しく馴染む。
きらきらと甘く、美しく、それでいて決して安堵はできない味。
まるでエクリプス王国そのもののように。
ワインを一口含めば、甘みと渋みが溶け合い、ゆるやかに喉を滑り落ちていく。
「……トライン王子って、一見控えめな方なのですが……。」
アステリスが、グラスを揺らしながら、ぼんやりと呟く。
「意外と強引なところもおありですのね。」
赤いワインが、ゆるりとグラスの内側を流れる。
「本当に。エクリプスの王子ですものね。」
フレールも、ため息まじりにワインを口に運ぶ。
「今さら辞退はできませんわね……。」
誰からともなく、グラスが傾けられ、赤い液体が静かに揺れる。
「ええ……我が国など、一瞬で潰されてしまいますわ。」
その言葉は、戯れのようでいて、冷たい現実だった。
三人は、しばし黙りこみ、揃って赤いワインを一口。
「……過去には、わざと偽りの求婚相手に、本当の恋人を入れていた方もいらっしゃったみたいですわね。」
「まぁ、なんと……。」
アステリスが、優雅に眉を上げる。
「でも……リリス様、お辛そうだったわ。トライン殿下のこと、本当にお好きなのよね。」
「トライン殿下もリリス様のことを愛していらっしゃるように見えるわ。」
「なんとかできないかしら……。」
「本当にそうよね……。」
ふと、セシルがワインのボトルに目をやる。
思案げにグラスを傾けながら、意を決して、ぐっと一口に飲み干した。
「……実はわたくし……その……もし代妃となっても………『証』を立てられないの。」
コツン、と静かに音を立てたグラス。
アステリスの指が、一瞬止まる。
その場の空気が、微かに張り詰める。
フレールがそっと視線を上げる。
ワインの赤が、彼女の瞳に微かに映り込んでいた。
「……あら。」
アステリスが、意味深に微笑んだ。
「わたくしもよ。」
さらりと黒髪をかきあげ、優雅な微笑みを浮かべながら、静かに告げる。
「わたくしたち……愛し合っていたはずなのよ。
なのに、急に遠ざけられて……理由もなく、婚約破棄されてしまったの。
納得がいかないのよ。わたくし、まだ諦めてないわ。」
一方、フレールが頬を染めながら、唇をかすかに震わせて呟く。
「とすると、やはりそのお役目は、わたくし……ということになりますわね。」
小さな声が、部屋に落ちる。
「身を捧げる前に、レアリー様の釈放を、正式な誓約として取り付けなくては……。」
「待って! そんなの誰も幸せにならないわ!」
セシルが、慌てて身を乗り出した。
「あなた、レアリー殿下以外の方に捧げてしまって、それで平気なの?
彼が自国に帰ったら、あなたのことを忘れて……別の令嬢を妃に迎えるかもしれないのよ?」
アステリスも、ゆっくりとワインを傾けながら、静かに言葉を継ぐ。
「そうですわね……殿方というものは、意外と現実的なもの。
戦争の後に迎えた婚姻なら、なおさら国の都合を優先するでしょう。」
フレールが泣きそうな顔で、ぎゅっとハンカチを握りしめる。
その時。
セシルは、ふと ひらめいた。
「……もしかして、わたくしたち、トライン殿下とリリス様が『失敗する』と決めつけてはいませんこと?」
沈黙が落ちる。
「え……?」
「そういえば……。」
ワインのグラスを持つ手が、止まる。
「それって……失礼すぎますわね……。」
アステリスが、くすっと微笑む。
「確かに。要は――おふたりが、ちゃんとその……できれば、いいわけですわね?」
「………ま、まあ、そういうことになりますわね。」
ワインのグラスをくるくると回しながら、アステリスが言う。
「何か……わたくしたちでしてあげられること、ないかしら?」
「つまり……ふたりがちゃんと『証』を立てられれば、わたくしたちの出番はないわけですものね。」
「そうよ……それに………その………。」
セシルは、小さな声で告白する。
「わたくし、できれば、その……本当に愛する人以外と、身を重ねたくないわ。」
「ええ、それはまったく同感ですわ。」
アステリスが、ため息混じりに頷く。
誰もが、グラスの中の液面を見つめながら、静かに考えを巡らせていた。
アステリスが唇を開く。
「……なら、手を打ちましょうか。」
「ええ、そうですわね。」
三人の視線が、静かに交わる。
誰からともなく、そっとグラスが掲げられる。
赤いワインが、ゆるりと揺れた。
——カチン。
微かな音が、静寂の中に溶ける。
そして、三人は、そろって小さく微笑んだ。
「今までの王子たちは、本来愛しているはずの新妃様とではなく、偽の求婚相手となら……うまくいったのよね?」
「………代妃には、特別に祈りがささげられて、何か不思議な魔法がかけられてから、閨に通されるとおっしゃってたわよ?」
「つまり、その『魔法』って……なにかこう……、情熱を高めるような何か、なわけね?」
「でもリリス様にはその魔法はかけられない。なぜならそれがトライン殿下の『試練』だから。」
甘い香りが、かすかに立ちのぼる。
パイの中で、夜喰が小さく囀る。
「……でも、もし、最初からリリス様にもその魔法がかけられていたら?」
三人はふっと視線を交わす。
小さな沈黙が落ちる。
ワインを傾け、タルトをひと口。
芳醇な香りが広がるが、誰も味を意識している様子はない。
静かな思考の時間が流れる。
誰もが、静かに考えを巡らせていた。
けれど、それを言葉にするには、ほんの少しの勇気が必要だった。
やがて……最初に、フレールが、おずおずと口を開いた。
「………わたくし……実は……。
『真実の想いが伝わる護符』を持っておりますの。」
「護符?」
「一度きりしか使えませんの。わたくしは、まだ使ったことはございませんわ。」
「どういうもの?」
フレールは、頬を染めながら、小さく囁く。
「護符を小さく折り畳んで、胸の間に入れるそうなのですわ。
気づかれないようにお相手にそれに触れさせることができれば………その……想いが叶うのですわ。」
言葉が静かに落ちる。
部屋の中の時間が、一瞬止まったような気がした。
星の果実のタルトが、手の中で小さく揺れる。
グラスを持つ指先が、静かに力を込める。
「お二人の想いは、既に通い合っていますわよ?」
「ち……違いますわ。つまり、その……」
フレールは、ワインのグラスをぎゅっと握りしめ、顔をさらに赤くする。
「深く……触れ合いたくなる……ということですの。」
「………。」
部屋に、沈黙が落ちる。
セシルとアステリスはグラスを持ったまま、じっとフレールを見つめた。
「護符が発動したら、すぐに消えてしまうので、痕跡は何も残らないそうですわ。」
真っ赤になってフレールが説明する。
彼女は、これをレアリー王太子に試そうとして持ってきていたに違いない。
「それを……リリス王女様に、こっそりお届けしようかしら。」
「まぁ……。」
セシルは同意の印に頷いて見せた。
「そうね……実はわたくしも 『心を解き放つ聖水』 を持ってきているわ。」
一瞬、二人がセシルを見つめる。
彼女は 目を伏せながら、そっとグラスを指でなぞった。
「……飲み物にほんの数滴たらして、お相手と一緒に飲むだけ……ですのよ。」
「………。」
しばしの沈黙。
「セシル様……?」
アステリスが 優雅に微笑みながら、意味深な視線を流す。
「聖水……? 媚薬なのではなくて?」
フレールが、頬に手を添えて目を瞬かせる。
「まぁ……セシル様ってば、意外と……?」
「違うのよ! これは……その……偶然手に入っただけで……!」
セシルが慌てて弁解するが、すでに二人の視線は楽しげに細められていた。
「その………なぜ持っているかはどうぞお聞きにならないで。でも、かなりの効き目よ。保証するわ。」
セシルは早口で言った。
アステリスは、くすりと微笑むと、グラスを傾ける。
「では、わたくしも。」
優雅に指を立て、アステリスは続ける。
「本を一冊持ってきているの。
その……殿方がお好きな技術のあれこれが書いてある本よ。
初心者向けのことや、その……うまくいかない場合にやり直す方法など、いろいろ書いてあったと思うわ。」
「……なんてご用意のいいこと……。」
「それと、不思議な香りのする練香もあるわ。」
「練香?」
「ええ、それをちょっとだけ……大切なところに塗ると……
花に誘われる蝶のように殿方が寄ってくるのよ。」
「………。」
再び、静寂。
誰からともなく、魔獣のカナッペに手を伸ばす。
一度口にしてみれば、驚くほど滋味深い味わいが広がった。
三人は微笑みあって、夜喰がさえずるパイに、ずぶりとフォークを突き差した。
「全部、いっぺんに使っても大丈夫かしら?」
「そのあたりは、リリス王女のご判断では?」
「エクリプスの『試練』はどうなるの?」
「女には秘密も必要よ。」
こうして、王女たちの秘密作戦が決定された。
その後、三人はそのままアステリス公女の部屋に泊まり、夜じゅう『贈り物』について話し合った。
――いかにしてトライン殿下にバレずに、リリス王女がそれを使うか。
秘密の夜は、長く、そして賑やかに更けていった。
やがて、窓の外に白い光が差し始めても、話は尽きることがなかった。