#4 わたくしに恋を教えて
セシルは一度まぶたを閉じ、心を整えるように深く息を吐く。
そして次の言葉を、静かに、けれど確かに告げた。
「……ええ、そうだったわね。シャルトリューズ卿がいたわ」
開いた瞳が、まっすぐにバスチアンへと向けられる。
「……彼なら、わたくしの恋のお相手になってくれるかしら?」
視線が交差した刹那、バスチアンの喉がわずかに上下する。
けれどその瞳には、まるで感情を封じ込めたかのような静けさが宿っていた。
何を考えているの? バスチアン・フレアベリー。
セシルはティーカップをそっとソーサーに戻し、さらに言葉を重ねる。
「それとも、これから陛下にお目通りして、シャルトリューズ公爵に降嫁したいってお願いしてみても、いいかもしれないわね?」
その一言に、バスチアンは静かに立ち上がった。
そして扉へと歩みかけたセシルの前に、迷いなく歩を進めて立ちはだかる。
「王女殿下。」
穏やかに放たれたその声の奥には、抑えきれぬ何か……確かな意思のようなものが潜んでいた。
「シャルトリューズ公爵と私の妹の婚約の件を、お聞き及びなのですね。」
セシルは彼を見上げた。
けれど、そのまま何も答えなかった。
「……大変申し訳ございません。
王女殿下のお心を傷つけてしまったこと、心よりお詫び申し上げます。」
その丁寧な謝罪に、セシルの拳が、ぎゅっと握られる。
胸の奥から、怒りとも悔しさともつかぬ感情がじわじわと湧き上がってくる。
「お詫びなんて聞きたくありません。」
バスチアンの瞳が、ほんの一瞬、驚きに揺れた。
「アリシア嬢とシャルトリューズ卿の縁談には、あなたが……ずいぶん尽力されたとか。そう聞いておりますわ。」
突き放すようなその声の奥には、かすかな震えが潜んでいた。
「おかげで、わたくし……もう、降嫁の先がなくなってしまったではありませんか……。」
毅然とした態度で言い切るはずだった言葉は、最後の一節だけ、まるで息に紛れるように消えていった。
バスチアンはしばし黙ってセシルを見つめると、静かに一歩踏み出し、彼女の前でその長身を傾けた。
その姿はまるで、彼女のすべてを受け止めようとするようだった。
「王女殿下……。」
その声は、謝罪でも、同情でもなかった。
けれど確かに、別の何か……言葉にできない感情を含んでいた。
「……麗しき王女殿下には、もっと良きご縁が、数多くおありかと存じます。」
その一言が届いた瞬間、セシルは思わず息を呑んだ。
「本当に? では、具体的に挙げてみて?」
バスチアンの赤い瞳が、静かにセシルを見つめ返す。
「リュミエール国内には、もう対象となる者はいないわ。
今まで幾度も外遊で他国に赴いてきたけれど、そのどこでも、わたくしに興味を持った殿方なんて一人もいなかったじゃない。
……それは随行していたあなたが、一番よく知っているのではなくて?」
自分の口から出た言葉が、自らの胸を突き刺す。
羞恥と悔しさが入り混じり、心がきしむように痛んだ。
冷静を装おうとするたび、指先がかすかに震えた。
足元からじわじわと広がる冷たい感覚。
視界の端がにじんで見える。
セシルは拳を握り、唇を噛みしめた。
沈黙のなか、バスチアンの瞳が、ふと揺らぐ。
まるで、何かを悟ったかのように。
「王女殿下……。」
その呼び声は、驚くほど静かで、けれど深いぬくもりと、壊れそうな優しさを含んでいた。
彼の指が一瞬だけ動いたが、それはすぐに元の位置へと戻された。
……まるで、自らを戒めるように。
「……あなたほどに、美しく、気高く……素晴らしい姫君を、私は他には知りません。」
それは、ただの礼節。形式的な賛辞のはずだった。
けれどなぜだろう。
心が、熱を帯びて疼く。
その声には、抑えきれない何かが、確かに宿っていた。
まるで、感情の深い井戸の底に、小さな灯が揺れているような。
セシルは息を詰め、小さく顔を伏せた。
「そうしていつも口先ばっかりね、フレアベリーは。」
それでも気持ちを抑え込み、セシルは顔を上げる。
軽やかに放ったその言葉には、揺れる感情がかすかに滲んでいた。
「でも、それはもういいの。
もうわたくしは……結婚は諦めましたわ。」
その瞬間、バスチアンの表情がわずかに緩んだ。
ほんの一瞬の安堵。
それを、セシルは見逃さなかった。
なぜ?
どうして、そんなに簡単にほっとした顔をするの……?
胸の奥に、どうしようもない苛立ちがこみ上げる。
「でもね。言ったでしょう?」
セシルはバスチアンを見据え、その瞳の奥に問いかけるように声を潜める。
「わたくし……恋を知りたいの。本物の、恋を」
バスチアンの瞳が、ふたたび揺らいだ。
彼女の言葉の真意を探ろうとするように。
「ですから……あなたが、責任を取りなさい」
「責任……?」
「ええ。わたくしに恋を教えなさい。
子どものお遊びではなくて……情熱的で、実践的な、本物の恋をね。」
ありがとうございます☆