#38 朝の光の中に……脱出します
朝の光が、届く。
トクトクと刻む鼓動の音。
身体に残る熱の名残。
腰に回された温かい腕。
耳元に落とされる、甘い声。
「おはようございます、王女殿下。」
バスチアンの腕の中で、くるりと向かい合い、セシルはゆっくりと瞬きをする。
「ん……。」
まだ眠い。
頬を彼の素肌に摺り寄せる。
「もうちょっと……。」
眠らせて?
「………おねがい、ティアン……。」
「………………承知しました。……では少しだけ、ですよ。」
ええ、少しだけ………。
瞬間、頬に落とされるやさしいキス。
彼の体温を感じながら、まどろみの中へ沈んでいく。
「……ん……すごく、幸せ……。」
気持ちいい………このまま……眠り、たい。
身体を包み込む彼の指先から、少しだけ、温かな魔力がセシルの身体に移される。
「んっ………!?」
ぴくん……と、胸の先が震える。
眠いのに………夢の中が……熱い。
彼の首に手を回す。
「王女殿下のご希望は、すべて叶えて差し上げたいのですが……。」
耳元に落とされる言葉は、まるで愛を囁いているみたい。
「……ええ、そうして……?」
もっと……ちかくに、いてね。
身体の熱を冷ますように、そっと身体をすりよせる。
すると耳元で、少し困ったような、小さな、吐息が聞こえた。
「でも本当に、あまり時間がないのですよ……。」
抱き寄せられたまま、胸の上に温かな唇が、優しく落ちる。
「あ……んっ……? ティアン……?」
何してるの?
眠りの扉の中にいるセシルの身体の奥が、疼く。
こうやって……夢の中でも……愛し合えるなんて……。
抱き寄せられ、唇を塞がれて……息が苦しいほどに……
………え……え………っ?
「………ティア、ン……?」
もしかして、夢、じゃない……?
おそるおそる目を見開いたセシルから、バスチアンが唇を離し……甘い眼差しを落とした。
「…………っ!?」
「お静かに、王女殿下。護衛騎士が外にいます。」
両手で口を押えて、溢れ出る吐息を抑える。
バスチアンは軽く彼女の身体を抱きしめてから、ベッドからさらりと抜け出す。
直後、トントン、とドアが叩かれる音がした。
バスチアンは、一瞬で部屋に魔法を散らし、すべてを整えた。
まだ熱く震えているセシルの身体が、ブランケットの下に丁寧に隠される。
ローブを羽織ったバスチアンが、扉へと向かった。
「ああ、開けて。」
ゆったりとした口調で彼が言うと、扉が外から薄く開かれた。
*****
「悪いな。助かったよ。」
「兄さん……こんなこと……もし誰かに知られたら……。」
外にいるのは、エミールのようだ。
「お前が黙ってれば、問題ない。」
「……………。」
「それから、朝食はここで召し上がるから。」
「…………ええっ……!?」
「そうクロエに伝えて。」
「………………はい、兄さん。」
パタン、と扉が閉まる。
戻ってきたバスチアンの手には、星の形の鍵が二つ。
そのうちのひとつを、セシルに渡す。
「はい。こちらが王女殿下の部屋の鍵です。今度はなくされませんよう。」
言いながら、バスチアンは手早く身支度を整える。
彼が身に纏う空気が、すっかり変わっていた。
こうなると、もう彼の頭の中は、これからの予定でいっぱいなのだ。
「恋人たちの時間は、もう終わりみたいね……。」
ふっと呟きながら、セシルもナイトドレスを手繰り寄せ、もぞもぞと上からかぶる。
彼が、そうするならわたくしだって!
セシルはぴんと背筋を伸ばした。
「フレアベリー卿。……今日のわたくしの予定は?」
頼りないナイトドレス姿では、あまり威厳は保てないけれど。
「本日は、王室主催のお茶会に御参加されます。
その後御随意に親善外交を行っていただき、明日、明後日は非公式での王都御視察……となっております。」
「つまり、お茶会が終われば、自由時間っていうことね? あなたは?」
「私は、本日よりしばらく諸外国との事務方の調整を行わなくてはなりません。
このように近隣諸国の皆様がお集まりになる機会は、大変貴重ですので。
お側に控えることができず申し訳ありませんが……。」
「いいのよ。それが仕事ですもの。よろしくお願いしますね。」
そういたわると、バスチアンはふっとセシルを見て、小さく微笑んだ。
「はい。この命を賭けましても。」
「そんな……大袈裟でしょ。
それじゃあ……その……夕方には、また会えるかしら?」
ちらりと、彼の様子をうかがう。
けれどバスチアンは、すでに完全に仕事モードに入っている。
思案するように視線を僅かに彷徨わせた後、残念そうに首を横に振った。
「こちらは飲食を伴う会合を予定しておりまして、戻りは遅くなります。
ですから今宵は王女殿下をお慰めすることが難しいと思います。」
――っ!!
あのっ……っ!
どうしてそんなことまでわざわざ言うの?
「…………え……ええ、そ、その………気にしないでください!」
「しかし、もしお休みになれずにお困りの際は、どうぞ表の扉からお越しください。」
「………………。」
ああああああっもう、やめて! そんなにいろいろはっきり言わないで頂戴!
一緒に眠りたくなっても、バルコニーからは来るなということでしょう?
ああもう、恥ずかしいったら!
「ご朝食は、まもなくこちらに運ばれますので……。」
「いいえっ! もうわたくし、今すぐ部屋に戻りたいわ!」
「え………ああ、そうですか。……お望みの通りに…。」
バスチアンの頭の中はもういろいろとこれからの計画が練られているようで、心ここにあらずといった風情だった。
名残惜しさを見せるでもなく、扉を開ける。
周囲に誰もいないことを確認して、上の階に向かう階段へセシルを導く。
ひやりとする石の階段を、ナイトドレスの裾を持ち上げ、裸足で一気に駆け上がる。
セシルの部屋の扉は、渡された鍵をかざすと簡単に開く。
ほっとして部屋に滑り込んだ瞬間、下の階からクロエの声が聞こえた。
「ご朝食をお持ちしました。」
まだ扉のところにいたバスチアンが、答える。
「クロエ殿。王女殿下のお部屋はもう一階上の階ですよ。」
「え? でもエミール卿が……。」
「エミールが何か?」
「………いえ……では上の階のお部屋にお運びしますね。」
銀のお盆に乗せたふわふわのワッフルを運んできたクロエは、セシルの上気した顔と、使った様子のないベッドをちらりと見て、明らかに何かを察したようだったが、何も言わなかった。
完璧な侍女のクロエは、いつも通り上品な笑みを浮かべる。
「おはようございます。セシル王女殿下。よい夢は見られましたか?」
と、鳥が歌うような声で、朝の挨拶をしたのだった。