#30 近くても駆け落ちです
まばゆい光に包まれ……二人は、ふたたび転移した。
ふわりと柔らかな感触に包まれながら、セシルはふかふかのベッドの上に無事着地する。
「……ここは?」
はっとして周囲を見回すと、見覚えのある天蓋、淡い色のカーテン、馴染みのある調度品が目に飛び込んできた。
「えっ……?」
ここは、フェルモント侯爵邸の、自分の寝室……?
バスチアンの部屋とはさほど離れていない。
しかし、国王から命がけで逃れたはずの転移先が、同じ屋敷の中だったとは……!
セシルは思わず息をひそめる。けれど、その瞬間……
彼女の腕の中で、バスチアンが微かに唇を動かした。
「……情けないけど……もう……魔力が足りなくて……ちょっと……近すぎたけど……」
途切れがちな声に、セシルの胸がぎゅっと痛んだ。
「でも………これで、リストの……15番…は………」
最後まで言い終えることなく、彼の瞼が静かに閉じられる。
「ティアン……!?」
セシルは慌てて彼の頬に手を添える。
その肌は氷のように冷たく、魔力の枯渇が深刻であることを物語っていた。
けれど、寝息は静かで、表情も穏やかだった。
ただ眠っている。それだけのことに、涙が出そうになるほど安堵する。
「……よかった……」
そのとき、窓の外から風を切る羽ばたきの音が聞こえた。
見ると、白銀の翼を広げたペガサスが、ゆるやかに旋回しながら遠ざかっていく。
セシルはそっと息をつく。
サフィール陛下は、この屋敷を去ったのだ。
今のところ、記憶を奪われることもなくなった……それだけは、心から安堵できる。
******
バスチアンは、そのまま二日間、目を覚まさなかった。
セシルは、最初こそ平気だと思っていた。
魔力を使い果たしたのなら、眠れば回復するはず、と。
けれど、一日が過ぎ、二日が過ぎても、彼はまったく目を覚まさない。
今まで、彼が魔力切れを起こす姿など見たことがなかった。
どんな任務でも、どれほど疲れていても、彼が倒れることなど一度も……。
……それほどまでに、サフィールとの対峙は、過酷だったのだ。
セシルは、不安を抑えきれなかった。
けれど、彼の寝顔が穏やかだったことだけが、唯一の救いだった。
彼の身体が冷えないように、セシルは何枚もブランケットを重ね、夜も昼もそばに寄り添い続けた。
そして、二日目の午後。
ようやく、彼のまつげが微かに震え、ゆっくりと瞼が開かれた。
「……セシル……王女殿下?」
その眠たげな声が耳に届いた瞬間、抑えていた涙がぽろりとこぼれた。
「ティアン……! 本当に、心配……したのよ……」
セシルがそう言って顔を伏せると、バスチアンはまだ完全には覚醒していないまま、ふわりと笑った。
「魔力切れのときは……キスで、少し早く回復する……。
……魔法回復学の授業で、習ったはずだけど……」
「……っ!!」
セシルは息を呑む。
そんな話、確かに聞いたことがあった。
けれど、そのときはまさか、こんな形で実践する機会が来るとは思いもしなかった。
今までのどの試験よりも、これほど勉強不足を悔いたことはなかった。
*******
目覚めたバスチアンは、まず食事をとった。
セシルも、緊張と疲れでほとんど喉を通らなかったが、ようやく一緒に食べることができた。
そして、食事を終えるなり、彼はさらりと言った。
「そろそろ『15.権力者の手を逃れて駆け落ちする』は終わらせないとね。
もうここにはいられないし。」
「でも……どこに逃げるの?」
セシルは、少し身を乗り出しながら問いかける。
不謹慎かもしれないけれど、彼と一緒にどこかへ逃げるというのは、少しだけワクワクしてしまう。
しかし、バスチアンの答えは予想外だった。
「君は王宮の自分の部屋だよ。」
「えっ……? サフィールがそばにいるじゃない!」
当然の反応だった。
国王サフィールがセシルを追ってこないはずがない。
そんな状況で王宮に戻るなんて、自ら敵陣に飛び込むようなものでは……?
けれど、バスチアンは軽く肩をすくめた。
「あ~たぶん、陛下はいま王都にいらっしゃらない。もしいらしても……君は大丈夫だ……と思う。」
「思う……?」
「いや、……正直、わからないな。とりあえず、陛下に会わないように気をつけて。」
「えぇ……っ?」
不安しかない。
セシルは思わずため息をついた。
「一緒にいられないの? じゃあ、ティアンはどこに行くの?」
バスチアンは、ふっと微笑む。
「俺は……エルセリア王妃陛下を探しに行かないと。」
「王妃様を?」
「ああ。たぶん……陛下が探していたの、王妃陛下だと思うんだよね。」
「えっ!?」
セシルの目が大きく見開かれる。
「陛下が、『リア』って呼んだの、覚えてる? あれ……エルセリア王妃のことだと思うよ。」
「……あっ。」
言われてみれば……そうだ。
サフィールが 自分のことを「リア」と呼ぶはずがない。
それなのに、なぜ気づかなかったのだろう?
つまり……サフィールは、セシルの不品行を咎めていたのではなく、あの部屋にいたのがエルセリア王妃だと誤解していた?
だから、あの渾身の攻撃を仕掛けてきたということ!?
驚いているセシルを横目に、バスチアンは 「たぶんね。」 と頷く。
「君を『リア』って呼ぶのは命懸けだってことがよくわかったよ。
君の許可も出たことだし……これからは『セシィ』って呼ぶことにするよ。」
「わたくしの許可……?」
セシルは一瞬意味が分からずに、首を傾げる。
あっ……もしかして、あの『理性を保っていられなくなる愛称』発言のことかしら。
ああでも 身の危険を感じる相手に間違えられるのは、もっと困るわ。
「それがいいわ。」
セシルは こくこく と頷いた。
バスチアンはふっと笑ってから、静かに言葉を紡ぐ。
「とにかく。
エルセリア王妃に戻ってもらえれば、陛下の……その……御懸念も払拭されるはずだし、
ちょっと打算的なんだけど、俺が彼女を見つけることができれば……?
今回の件……つまり、王女の君を攫ったという疑いと、国王に刃向かったという件についてのお咎めも……少しは軽くなるかもしれない。」
「そ……そうね。」
セシルは、ふと唇を噛む。
それに、サフィールだって、あのとき王妃様とセシルの声を聞き分けられなかったのだ。
それは彼にとって「王妃様に絶対に知られたくないこと」なのでは?
つまり、それは逆手に取れるかもしれない。
そんなことを考えていると……。
「仮にそこまでうまくいかなかったとしても、その時は、君のリストの『16.牢獄の中で永遠の愛を誓う』をやってあげる。」
さらりと、そんなことを言ってのける。
「ちょ、ちょっと!?」
セシルは 息を詰めて 彼を見つめた。
けれど、バスチアンは さらりと微笑む と、椅子を引いてすっと立ち上がる。
「じゃあ悪いけど、俺はここからすぐに行くよ。
王都までは、クロエと一緒に帰って。エミールにちゃんと守らせるから心配しないで。」
エミールは、バスチアンの弟であり、セシルの護衛騎士。
彼の名を聞き、セシルは少しだけ安心する。
「できるだけ早く解決するから。
君は、エクリプス王国の結婚式参列のための準備を進めていて。」
「ティアン……!」
思わず名前を呼ぶ。
けれど、彼はすでに出発の準備を始めようとしていた。
それはまるで、今まで数々の外交の場で苦境を乗り越えてきたときのような、余裕と自信に満ちた軽やかさ。
追い詰められているはずなのに、危機に直面しても動じるどころか、まるで腕の見せどころが来たとでも言わんばかり。
……なんでそんなに楽しそうなの?
セシルはふぅっとため息をついた。




