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30/65

#30 近くても駆け落ちです

 

 まばゆい光に包まれ……二人は、ふたたび転移した。


 ふわりと柔らかな感触に包まれながら、セシルはふかふかのベッドの上に無事着地する。


「……ここは?」


 はっとして周囲を見回すと、見覚えのある天蓋、淡い色のカーテン、馴染みのある調度品が目に飛び込んできた。


「えっ……?」


 ここは、フェルモント侯爵邸の、自分の寝室……?

 バスチアンの部屋とはさほど離れていない。

 しかし、国王から命がけで逃れたはずの転移先が、同じ屋敷の中だったとは……!


 セシルは思わず息をひそめる。けれど、その瞬間……

 彼女の腕の中で、バスチアンが微かに唇を動かした。


「……情けないけど……もう……魔力が足りなくて……ちょっと……近すぎたけど……」


 途切れがちな声に、セシルの胸がぎゅっと痛んだ。


「でも………これで、リストの……15番…は………」


 最後まで言い終えることなく、彼の瞼が静かに閉じられる。


「ティアン……!?」


 セシルは慌てて彼の頬に手を添える。

 その肌は氷のように冷たく、魔力の枯渇が深刻であることを物語っていた。

 けれど、寝息は静かで、表情も穏やかだった。


 ただ眠っている。それだけのことに、涙が出そうになるほど安堵する。


「……よかった……」


 そのとき、窓の外から風を切る羽ばたきの音が聞こえた。

 見ると、白銀の翼を広げたペガサスが、ゆるやかに旋回しながら遠ざかっていく。


 セシルはそっと息をつく。

 サフィール陛下は、この屋敷を去ったのだ。

 今のところ、記憶を奪われることもなくなった……それだけは、心から安堵できる。


 ******


 バスチアンは、そのまま二日間、目を覚まさなかった。


 セシルは、最初こそ平気だと思っていた。

 魔力を使い果たしたのなら、眠れば回復するはず、と。


 けれど、一日が過ぎ、二日が過ぎても、彼はまったく目を覚まさない。


 今まで、彼が魔力切れを起こす姿など見たことがなかった。

 どんな任務でも、どれほど疲れていても、彼が倒れることなど一度も……。


 ……それほどまでに、サフィールとの対峙は、過酷だったのだ。


 セシルは、不安を抑えきれなかった。

 けれど、彼の寝顔が穏やかだったことだけが、唯一の救いだった。


 彼の身体が冷えないように、セシルは何枚もブランケットを重ね、夜も昼もそばに寄り添い続けた。


 そして、二日目の午後。

 ようやく、彼のまつげが微かに震え、ゆっくりと瞼が開かれた。


「……セシル……王女殿下?」


 その眠たげな声が耳に届いた瞬間、抑えていた涙がぽろりとこぼれた。


「ティアン……! 本当に、心配……したのよ……」


 セシルがそう言って顔を伏せると、バスチアンはまだ完全には覚醒していないまま、ふわりと笑った。


「魔力切れのときは……キスで、少し早く回復する……。

 ……魔法回復学の授業で、習ったはずだけど……」


「……っ!!」


 セシルは息を呑む。

 そんな話、確かに聞いたことがあった。

 けれど、そのときはまさか、こんな形で実践する機会が来るとは思いもしなかった。


 今までのどの試験よりも、これほど勉強不足を悔いたことはなかった。


 *******


 目覚めたバスチアンは、まず食事をとった。

 セシルも、緊張と疲れでほとんど喉を通らなかったが、ようやく一緒に食べることができた。


 そして、食事を終えるなり、彼はさらりと言った。


「そろそろ『15.権力者の手を逃れて駆け落ちする』は終わらせないとね。

 もうここにはいられないし。」


「でも……どこに逃げるの?」


 セシルは、少し身を乗り出しながら問いかける。

 不謹慎かもしれないけれど、彼と一緒にどこかへ逃げるというのは、少しだけワクワクしてしまう。


 しかし、バスチアンの答えは予想外だった。


「君は王宮の自分の部屋だよ。」

「えっ……? サフィールがそばにいるじゃない!」


 当然の反応だった。

 国王サフィールがセシルを追ってこないはずがない。

 そんな状況で王宮に戻るなんて、自ら敵陣に飛び込むようなものでは……?


 けれど、バスチアンは軽く肩をすくめた。


「あ~たぶん、陛下はいま王都にいらっしゃらない。もしいらしても……君は大丈夫だ……と思う。」

「思う……?」

「いや、……正直、わからないな。とりあえず、陛下に会わないように気をつけて。」

「えぇ……っ?」


 不安しかない。

 セシルは思わずため息をついた。


「一緒にいられないの? じゃあ、ティアンはどこに行くの?」


 バスチアンは、ふっと微笑む。


「俺は……エルセリア王妃陛下を探しに行かないと。」

「王妃様を?」

「ああ。たぶん……陛下が探していたの、王妃陛下だと思うんだよね。」

「えっ!?」


 セシルの目が大きく見開かれる。


「陛下が、『リア』って呼んだの、覚えてる? あれ……エルセリア王妃のことだと思うよ。」

「……あっ。」


 言われてみれば……そうだ。

 サフィールが 自分のことを「リア」と呼ぶはずがない。

 それなのに、なぜ気づかなかったのだろう?


 つまり……サフィールは、セシルの不品行を咎めていたのではなく、あの部屋にいたのがエルセリア王妃だと誤解していた?

 だから、あの渾身の攻撃を仕掛けてきたということ!?


 驚いているセシルを横目に、バスチアンは 「たぶんね。」 と頷く。


「君を『リア』って呼ぶのは命懸けだってことがよくわかったよ。

 君の許可も出たことだし……これからは『セシィ』って呼ぶことにするよ。」


「わたくしの許可……?」


 セシルは一瞬意味が分からずに、首を傾げる。

 あっ……もしかして、あの『理性を保っていられなくなる愛称』発言のことかしら。

 ああでも 身の危険を感じる相手に間違えられるのは、もっと困るわ。


「それがいいわ。」


 セシルは こくこく と頷いた。


 バスチアンはふっと笑ってから、静かに言葉を紡ぐ。


「とにかく。

 エルセリア王妃に戻ってもらえれば、陛下の……その……御懸念も払拭されるはずだし、

 ちょっと打算的なんだけど、俺が彼女を見つけることができれば……?

 今回の件……つまり、王女の君を攫ったという疑いと、国王に刃向かったという件についてのお咎めも……少しは軽くなるかもしれない。」


「そ……そうね。」


 セシルは、ふと唇を噛む。

 それに、サフィールだって、あのとき王妃様とセシルの声を聞き分けられなかったのだ。

 それは彼にとって「王妃様に絶対に知られたくないこと」なのでは?

 つまり、それは逆手に取れるかもしれない。


 そんなことを考えていると……。


「仮にそこまでうまくいかなかったとしても、その時は、君のリストの『16.牢獄の中で永遠の愛を誓う』をやってあげる。」


 さらりと、そんなことを言ってのける。


「ちょ、ちょっと!?」


 セシルは 息を詰めて 彼を見つめた。

 けれど、バスチアンは さらりと微笑む と、椅子を引いてすっと立ち上がる。


「じゃあ悪いけど、俺はここからすぐに行くよ。

 王都までは、クロエと一緒に帰って。エミールにちゃんと守らせるから心配しないで。」


 エミールは、バスチアンの弟であり、セシルの護衛騎士。

 彼の名を聞き、セシルは少しだけ安心する。


「できるだけ早く解決するから。

 君は、エクリプス王国の結婚式参列のための準備を進めていて。」


「ティアン……!」


 思わず名前を呼ぶ。

 けれど、彼はすでに出発の準備を始めようとしていた。


 それはまるで、今まで数々の外交の場で苦境を乗り越えてきたときのような、余裕と自信に満ちた軽やかさ。

 追い詰められているはずなのに、危機に直面しても動じるどころか、まるで腕の見せどころが来たとでも言わんばかり。


 ……なんでそんなに楽しそうなの?


 セシルはふぅっとため息をついた。

 

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