#3 宮廷外務官バスチアン・フレアベリー
翌朝、登城してきたバスチアン・フレアベリーに、離宮のセシルのサロンへ赴くようにとの指示が届けられた。
その準備に先立ち、セシルは鏡の前で念入りに自分を整えていた。
いつもより丁寧に化粧を施し、髪は侍女たちの手で完璧に仕上げられる。
選んだドレスは、上品さのなかに華やかさを織り交ぜたもの。
アクセサリーは午前の光にふさわしい控えめな輝きで、セシルの美しさを引き立てるよう計算され尽くしていた。
いま必要なのは、最高の自分。
鏡に映る姿を見つめながら、セシルはそっと息を吐いた。
「大丈夫よ、セシル。上手く行くに決まってるわ。」
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥がどこかざわついていた。
「王女殿下。宮廷外務官、バスチアン・フレアベリーがお見えです。」
扉が開かれ、彼が姿を現す。
その瞬間、セシルの視線は自然と彼に向けられた。
濃い金色のウェーブがかった髪は朝の光を受けてやわらかく輝き、長い睫毛がフレアベリー家特有の赤い瞳を縁取っている。
引き締まった頬、端正な鼻梁、整った唇……計算され尽くしたような美貌。
けれど彼の魅力は、それだけではなかった。
控えめな微笑みとともにまとう柔らかな空気が、見る者を自然と惹きつける。
礼装に飾られた勲章の数々は彼の実績を語るものだが、それすら彼の気品に溶け込んでいて、派手すぎる印象を与えない。
その姿を前に、セシルは思わず見とれていた。
まるで……部屋に光が差し込んだみたい。
今まで気づかなかったけれど、彼、実際、かなり……素敵じゃない?
そう心の中で呟いたとたん、胸がわずかに高鳴った。
噂に聞いた『恋の魔術師』という言葉が頭をよぎる。
この容姿にあの知性と話術、そして……。
多くの令嬢が惹かれるのも無理はない。
……そのとき、ふいに彼がこちらを見返していることに気づいた。
ルビーのように赤い瞳がセシルの視線を真正面からとらえる。
そこには、ほんのりと戸惑いの色があった。
まるで、セシルにそんな目で見つめられるとは思いもしなかった、とでも言いたげに。
「王女殿下……?」
少し怪訝そうな声に、わずかな困惑がにじむ。
その響きに、セシルは我に返り、慌てて表情を整えた。
「ええ、入ってちょうだい。」
努めて平静にそう告げながら、セシルは優雅な仕草で彼をソファへと促す。
侍女に茶を用意させたあと、セシルはおもむろに人払いを命じた。
侍女長クロエが一瞬だけ訝しげな表情を見せたが、セシルの真剣な眼差しを見て静かに退出する。
扉がかちりと閉まると、サロンには二人だけが残された。
バスチアンの眉がわずかに動く。
公務とはいえ、王女が男性とふたりきりで扉を閉ざすことなど、通常ではありえない。
「何か……お困りのことが?」
真摯な眼差しが、まっすぐにセシルを捉える。
外交上の深刻な問題が起きたのでは……。
そんな懸念が、その瞳に宿っていた。
もちろんそうではない。
けれど……ある意味それよりもずっと切実な問題だ。
「ねえ、バスチアン?」
あえて、ファーストネームで呼ぶ。
その瞬間、彼の目がわずかに見開かれた。
「あなたの意見を聞きたいの。」
バスチアンは姿勢を正し、丁寧に頷く。
「もちろんです。どのようなことでしょうか、王女殿下?」
セシルは視線を一瞬だけ落とし、胸の奥に渦巻く不安と期待を押しとどめるように、そっと息を吸い込んだ。
「わたくし……恋をしてみたいと思うの。」
その一言に、バスチアンの表情が固まる。
まるで、何かの冗談かと思ったように、ほんの刹那、思考が停止したような顔だった。
「ね、どうかしら?」
セシルが言葉を重ねても、彼はしばし沈黙を保ったまま動かない。
数秒……いや、十数秒の静けさののち、ようやくはっとしたようにいつもの冷静さを取り戻したバスチアンは、控えめな微笑を浮かべた。
けれどその瞳の奥には、ごくかすかな動揺が、拭いきれずに揺れていた。
「王女殿下。どなたか……すでにお心に留めておられる方がいらっしゃるのですか?」
「どうして、そう思うの?」
「……誰でもよい、というわけではないでしょう?」
その返答に、セシルはそっと唇を引き結んだ。
彼の真意を探るように、赤い瞳をじっと見つめ返す。
「そうね。ほんとうは……夫となる人と、恋をすべきだとは思っているの。」
バスチアンはその言葉に、ふっとやさしい笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「もちろんです。それが、最も理想的な形でしょう。」
「でも……それは難しいんじゃないかしら、って思うの。」
彼の眉がわずかに動いた。
「と仰られますのは?」
「だって……わたくしが降嫁できる方って……今、この国に思い当たる?」
セシルの声は、ほんのわずかに震えていたかもしれない。
けれどその問いは、まるで彼を試すような、静かで重い響きを持っていた。
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