#28 沈みゆく船の中で
目の前に広がるのは、午後の陽射しを受けて、金色にきらめく湖の水面。
そよ風が撫でるたび、光の粒がさざ波に揺れて、美しい煌めきを描いていた。
遠くから、鳥のさえずりが静かに響く。
湖畔の桟橋には、一際目を引く白いボートが浮かんでいた。
繊細な彫刻が施された船体は、優雅な曲線を描いており、中にはふんわりと柔らかなビロードのクッションが敷かれている。
「まぁ……!」
セシルは思わず声を上げた。
バスチアンが先に乗り込み、手を差し出す。
セシルは片手でふわりとスカートを持ち上げ、慎重に足を踏み出す。
その瞬間……。
「あ……っ」
ボートはわずかに桟橋から離れており、踏み出した拍子にバランスを崩しかける。
すかさずバスチアンの腕が伸び、しっかりと彼女を抱きとめた。
「ありがとう……」
バスチアンは微笑み、彼女の腰を支えながら、優しくクッションの上に座らせる。
頬を少し染めながら見上げたセシルと、彼の視線が静かに絡んだ。
セシルは少し頬を染めながら、彼を見上げた。
ふたりの視線が絡み、湖面に映る光が静かに揺れる。
ロープを外すと、ボートは魔力の流れに沿って、ゆっくりと湖面を滑り始める。
セシルは感嘆を込めて縁に手をかけ、水面を覗き込んだ。
「まるで夢の中みたい……」
葉が色濃く茂り始めた木々の間から、傾きかけた陽の光がこぼれ落ちる。
水面に跳ね返る光の破片が、ふたりのまわりで静かに舞い踊っていた。
バスチアンは両手を後ろについて空を仰ぐ。
濃い金の髪が光を反射してきらきらと輝き、その姿はまるで……。
……彼の背中には、翼が生えているんじゃないかしら。
そんな幻想に囚われるほど、彼は風景に溶け込んでいた。
ルビーのように深い赤い瞳が、セシルを優しく見つめる。
こんなに素敵な人が、いま私の恋人だなんて。
セシルはそっと彼の肩に頭を預けた。
その瞬間、彼の腕が伸びて、彼女の手を優しく包み込む。
指先から伝わる温もりが、胸いっぱいに広がった。
王都では、常に人の目があった。
セシルは常に王女として振る舞わなければならず、バスチアンもまた、宮廷外務官として冷静でなければならなかった。
けれど、今はふたりきり。
誰にも縛られず、誰の目にも晒されない。
ただ、風と水と陽射しだけが、優しくふたりを包んでいた。
セシルはそっと目を閉じ、湖の空気を胸いっぱいに吸い込む。
まるで、時が止まり、世界にふたりだけが残されたような感覚だった。
「リア……?」
甘やかに呼ばれて、セシルはくすぐったそうに微笑む。
陽の光が跳ねて、淡くきらめく波紋が静かに広がっていく。
バスチアンが、唇が触れ合う合間に、ふっと微笑んだ。
その笑みがあまりにも余裕たっぷりで、セシルは思わず瞬きをする。
あ、この顔、どこかで……。
それは、外交の場で、何か秘策を思いついたときに見せる、計算された笑み。
まるで、これから何か仕掛けようとしているかのような。
「リア、このボートは『船』に含まれると思う?」
「そうね? 小さくても水に浮かんでいるのだもの。分類としては……船、よね?」
「君と意見が合ってよかったよ。」
にこりと微笑んだバスチアンは、やっぱり何かを企んでいるような顔をしている。
「どうしたの?」
セシルは、警戒して背筋を伸ばす。
その瞬間……。
「じゃあ、始めようか?」
「え、何を?」
「君の素敵なリストの『13.沈みゆく船の中で愛し合う』だよ。」
「……えっ!?」
唐突すぎる言葉に、セシルの思考が停止する。
バスチアンはそんな彼女の動揺をよそに、指先から軽く魔力を弾く。
パチッ。
ボートの喫水線あたりに、鮮やかな火花が散る。
「この船、30分後に沈むからね。」
「えええええええっ!?!?」
「ほらリア、早くして? 君の希望通りにしていいから。任せるよ?」
「ちょっ……えっ? ちょ、待って待って!? 何をどうするというの!?」
驚きに目を丸くするセシルをよそに、バスチアンは軽々と彼女の腰を持ち上げ、ぽんっと自分の上に乗せた。
「ティ、ティアン!? い、今ここで!?」
「うん、リスト通りにね。」
「ちょっと待って! リストって、確かにそんな項目もあったけれど、これはその……あのときは、意味がまだよくわかっていなくて……っ!」
「今なら意味が分かるよね?」
「だ、だめよ! 船が沈むのよ!? 逃げないと!」
「あと29分もあるよ?」
「沈むなんて、嘘よねっ?!?!」
「俺は君に、嘘はつかない。」
「ええええええっ~~~っ?!?!」
むしろ、こういう時は嘘をついてほしい!!!
セシルは、とりあえず無我夢中で、バスチアンの唇に唇を押し付けてみる。
彼は喜んで口を開く。
すぐにそれは深く、官能的なキスに……?
……って、だめだめだめ!!! まったく身が入らない!!
冷たい感触に、思考が一瞬止まる。
見下ろすと、足元に水がじわじわと広がっていた。
……水!?!?!?
「ま、まって、ティアン! もう水が……!」
「うん、いい感じに沈んできたね。」
「よくないわよっ!!!」
確か……舟って、水が入り始めると、途中で一気に沈むのよね?
そう……学園の授業で習ったわ。
って、授業どころではないわ!!!
水の入り方が、少し、早くなってきた気がする!!!!!
「ああもうっ……!」
パニックになったセシルは、思考を放棄し、強引にバスチアンのシャツを脱がせにかかる。
彼は楽しそうにそれを眺めながら、セシルの手の動きに合わせて、上半身を浮かせた。
「ちょっと、ティアン!! 笑ってないで手伝って!?」
「いいよ。それが君の望みなら。」
バスチアンがセシルをぐっと抱き寄せ、再び深いキスを落とした。
同時にセシルのドレスの上を、彼の手が軽やかに彷徨い始める。
彼の指先が滑るようにセシルの胸へと移動し、そっと鼓動を包み込んだ。
「ああ……すごくドキドキしてるね、リア。」
バスチアンが、くすっと微笑む。
「この設定に、興奮してるんだね。」
「ち、違う意味でだわ!!!」
「じゃあどんな意味で?」
艶やかに微笑んだバスチアンが、セシルの胸にドレスの上から口づける。
「んん~~~~~っ!!!」
ボートの底にたまった湖水に、セシルのドレスの裾が浮いている。
「ん、あと15分。」
そう言って彼はセシルにもう一度キスをしてから、おもむろにドレスの裾をかき分けた。
セシルの脚に沿わせて、腿に手を滑らせる。
「ああリア………君、やっぱりこういうの、好きなんだね。すごく……濡れてる。」
「ちょっと、何言ってるの! ……湖水のせいじゃない!」
バスチアンはそのまま、楽し気にセシルを探っていく。
心臓が壊れそうなほどに高鳴る。
「うーん、でも、もうあと7分しかないな……。」
彼がそうつぶやいて、自分のズボンに手をかける。
まってまってまってまってっ!!!!
ちょっと、こんなとこで、ほんとに何してるのっ!?
気前良く脱ぎ去ると、彼はセシルを自分の上に乗せなおす。
「こっちは準備できたよ。君、上は、得意だよね?」
やだ、もう本当に…何、言ってるのよっ!
頭も体もすっかり混乱していて、どうしていいか、わからない。
「ああ、時間なくなるよ…? あと2分……。」
きゃーーーーっ!!!!!!
船底からじわじわと入り込んでいた水が、加速し始める。
湖の水が、徐々に渦を巻いて流れ込み、ボートの縁がゆっくりと沈んでいく。
「しょうがないなぁ…。じゃ、行くよ?」
その瞬間、セシルの身体はぎゅっと抱きしめられ、そして唇が塞がれた。
「んっ………っ!!!」
呼吸を分け合うような深い……キス。
直後、船体が大きく傾ぎ、冷たい水がふたりの足元を飲み込む。
水が一気に流れ込み、ボートはゆっくりと沈み始めた。
冷たい湖が、まるで待ち構えていたかのように、ふたりを優しく、けれど容赦なく引き込んでいく。
抱き合ったまま沈んでいくふたりの周りで、水の波紋が揺らめき、光がきらめく。
そして、次の瞬間。
沈みゆく水の中で、ふたりの周りに眩い光が舞い散る。
やがて、それがすべてを包み込み……
ふたりの姿は、湖の中からふっと消えた。




