#27 初めての朝……セシィって誰?
朝のやわらかな日差しが、カーテン越しに優しく透ける。
ふんわりとした温もりに包まれて、セシルはゆっくりと目を開けた。
目の前には、バスチアンの顔。
白く上品なカーブを描いた頬、通った鼻筋。
淡くきらめく金の髪が光を受けて、伏せた睫毛の影が頬に落ちている。
まだ夢の中なのか、彼は穏やかな寝息を立てていた。
……綺麗。
こんなにも近くで彼の顔を見つめるのは、初めてかもしれない。
整った唇がすぐそこにあって、まるでセシルを誘うように見えた。
その吐息が、頬をそっと撫でるたびに、胸の奥で心臓が跳ねる。
……キス、したい。
そうっとそうっと……。
起こさないように、セシルは顔を近づけて、唇を触れ合わせる。
ふれるだけの、淡いキス。
けれど……。
うう……っ、たまらない……!
昨夜の記憶が、胸の奥をふわりと満たす。
わたくし、昨夜……彼と、愛し合ったのよね。
思い出した途端、身体の奥がじんわりと熱くなる。
その熱は、今も柔らかな痕跡となって内側に残っていた。
少しだるい身体全体が、彼のことを大好きだと教えてくれる。
……もう一度だけ。
セシルは、再びそっと唇を重ねた。
今度は少しだけ長く、彼の唇の形をなぞるように。
こっそりと、口づけを深くしようとして……
………!
彼が、応えた。
眠っているはずの彼が、確かにキスを返してきたのだ。
夢中になってしまう。
バスチアンの温もり、唇の感触。
昨夜の甘やかな記憶がゆっくりと蘇ってくる。
そのとき、ふと。
お腹に、とん、と何かが触れた。
「……え?」
おそるおそる目を開けると、赤い瞳がまっすぐに……セシルを見ていた。
「おはよう、リア。」
バスチアンは低く、甘く囁く。
「また俺を襲うの?」
「きゃっ!」
反射的に身を起こし、慌ててブランケットの中に潜り込む。
けれどその中にあったのは……彼の素肌。
距離が近すぎて、セシルの吐息がふっと触れた瞬間……
バスチアンの腹筋がぴくりと震えた。
「……っ!」
セシルは慌てて顔を出し、逃げるように距離を取る。
そんな彼女を見て、バスチアンは愉しげに笑った。
「かくれんぼしてるの?」
「も、もうっ! ティアン……!」
ブランケットを胸元でぎゅっと抱きしめながら、セシルは小さく尋ねた。
「……あの……『愛し合う』って、あれで……よかったのよね?」
頬が熱くて、視線を合わせられない。
けれど、どうしても確かめたくて。
バスチアンは微笑み、優しくうなずいた。
「まあ……そうだね。リアは満足した?」
そのひと言で、セシルの頬がぱっと染まる。
たまらず背を向け、こぼれるように呟いた。
「……ええ……そ、そうね……。」
バスチアンは、背を向けた彼女をそっと抱きしめる。
その腕の中には、愛おしいぬくもりが満ちていた。
「でもリア。」
耳元で、低く、優しく声がくすぐる。
「俺は……まだ、君が足りない。」
「え……?」
「もう一度、今すぐ愛し合わないと……君が欲しすぎて、苦しすぎて……このまま死んでしまうかも……。」
「ええっ!?」
「……協力してくれる?」
……結局。
お昼近くになって、バスチアンはようやくセシルを解放してくれた。
「一回って言ったのに……。」
疲れ切ったセシルの抗議には、どこか甘えるような響きが宿ってしまう。
「ごめん。でも君も楽しんでいただろう?」
******
昼食は、ベッドサイドの小さなワゴンに並べられた。
香ばしい焼きたてのパンに、熟成されたチーズとハム。
瑞々しい野菜が彩りを添え、ワインのような香りを持つ葡萄のジュースが、セシルの喉をすっきりと潤してくれる。
「……おいしい………」
しみじみとした声がこぼれる。
空腹のせいか、あるいは幸せの余韻か。
どちらにせよ、心にも胃にもじんわり染み入るような味だった。
バスチアンはそんなセシルの様子を、微笑ましげに眺めながら、ゆっくりとナイフを動かす。
切り分けたチーズをパンにのせ、それを彼女の唇へとそっと運んだ。
「リア……口、開けて?」
そのひと言に、セシルの胸がきゅんと跳ねる。
もしやこれは……恋愛小説に出てくる『愛を交わした翌朝に、恋人に食事を食べさせてもらう』というシチュエーションでは!?
リストの件数が多すぎて、候補から泣く泣く外した項目のひとつだったのに!
嬉しさで胸がいっぱいになりながら、セシルはにこにこと口を開け、ふわりとパンを口に含む。
チーズの濃厚な香りが舌の上に広がり、思わず頬が緩む。
「ふふっ……」
彼女の笑みに釣られるように、バスチアンも穏やかに微笑む。
バターの残る彼の指先を、小鳥のようにセシルが唇でふれて拭った。
その指がそのまま彼女の唇をなぞり、軽やかな口づけが落ちる。
ああっ……素敵素敵素敵! 恋人って感じがするわ……!
心の中で叫びながら、幸せすぎて頬が熱くなる。
そんなセシルを見ながら、バスチアンが満足そうに微笑む。
「……ねえ、ティアン……?」
「ん、どうかした?」
「昨夜……『セシィ』って呼んでいたわね?」
その言葉に、バスチアンの動きがぴたりと止まる。
けれどすぐに、何でもない風を装って視線を逸らし、少し距離をとった。
「……気のせいでは?」
「ええ、確かに聞こえたわ。……誰か、違う令嬢の名前なの?」
軽く咎めるように言うと、バスチアンは小さく息をつき、首を振った。
「まさか。そんなこと、絶対にない。」
彼の指先が、そっと握られて小さく震えた。
「じゃあ、どうして?」
まっすぐに問いかけると、バスチアンは少し困ったように目を伏せ、呟いた。
「……夢の中で、いつもあなたをそう呼んでいました。」
静かな声が、胸の奥を温かく打つ。
「わたくしの夢を……見ていたの? いつから?」
囁くように問うと、バスチアンは目を伏せ、小さく微笑んだ。
「ずっと………ずっと前からです。」
そう言って、彼は黙り込んでしまった。
これ以上何も聞いてほしくないという風に。
「でも……それなら最初から、リアじゃなくてセシィにすればよかったのに。」
ぽつりと呟くと、バスチアンの瞳がわずかに見開かれた。
そしてすぐに緩やかに細められ、自嘲するように微笑んだ。
「それでは……理性が保てなくなります。」
言って、再びバスチアンの指先が、震えながらセシルの頬に触れた。
そのまま、優しく、けれど少し熱を含んだ口づけが落ちてくる。
セシルはふわりと目を閉じた。
優しくて、温かくて、けれどほんのりと熱を帯びたキス。
まるで心の中まで陽の光に温められるように、セシルの心が甘く満たされていく。
唇が離れたあと、ふたりの間を、窓からの柔らかな午後の風がくすぐるように通り抜けた。
「ね。……セシィって、呼んでもいいわよ?」
そして今度は、セシルのほうから、そっと唇を重ねる。
「……湖は、明日でも構わないわ。」
ありがとうございます☆