#26 まだ夢から覚めないで
善は急げ。
今夜こそ、バスチアンに「愛を交わす」を最後まで教えてもらわなくては!
セシルは昔から、こうと決めたら迅速に行動するタイプの王女だった。
薔薇の香りを纏い、持ってきた中で一番薄手のナイトドレスを選ぶ。
柔らかなシフォンがふんわりと揺れる。
胸元はもうすぐ見えそうなほどギリギリのラインで、美しいリボンで結ばれている。
短めの裾からは繊細なレースが月明かりを受けて、きらきらと輝いていた。
そして、その下には……何も身に着けていない。
レースで透ける布地が、ほんのりとセシルの肌を透かせていた。
恋愛小説の研究によれば、こういうナイトドレスを纏えば、男性は理性を手放すものと決まっているのだ。
「……ふふっ。」
思わず、頬が緩む。
ただ待っているだけでは何も始まらない。
まるで、小さな冒険に出かける前のような心地だった。
セシルはそっとバスチアンの部屋の扉に手をかけ、慎重に押し開いた。
月明かりだけが静かに室内を照らし、ほのかに甘い香りが空気を満たしていた。
ひんやりとした寝室には、わずかな衣擦れの音すら響くほどの静けさがあった。
ベッドの天蓋の奥では、何かが微かに火花を散らしている。
……魔力?
思わず、足が止まる。
まだ、起きているの?
けれど、もう引き返すことなどできなかった。
セシルは小さく息を吸い込み、ゆっくりと歩み寄った。
けれど心臓の鼓動だけは抑えきれず、期待と緊張で高鳴るばかりだった。
ベッドのそばに立つと、静かな吐息が耳に届く。
眠っている……。
ほっと胸を撫で下ろしながら、そっと天蓋をくぐり、ベッドの上に膝をつく。
けれど、次の瞬間、妙な違和感が胸をよぎった。
少し、苦しそう……?
バスチアンの額には、うっすらと汗が滲んでいた。
かすかに乱れた息遣い……体調でも悪いのだろうか?
手を伸ばして、そっと額に触れようとした……そのときだった。
バスチアンの手が、ぴたりと彼女の手首を掴んだ。
「……っ!」
驚いて息を呑む。
その掌は驚くほど熱を帯びていて、火に触れたかのように熱かった。
「ティアン……?」
驚きに震える声が、静かな寝室に落ちる。
けれど、返ってきたのは、苦し気な、でも甘い吐息。
それはまるで、熱に浮かされた恋人のもののように……。
「……セシィ……」
バスチアンの低く掠れた声が、夜の静寂を震わせた。
彼の口からこぼれた言葉にドキリとした。
セシィ? わたくしのこと……?
セシルはそっと顔を覗き込む。
まつげが微かに震え、彼が夢を見ていることに気づく。
夢の中で、わたくしを呼んでいるの……?
その事実に気づいた瞬間、胸の奥がじんわりと熱を持った。
セシルはそっと身体を寄せた。
バスチアンは彼女を抱き込み、まるで本当に求めていたかのように、力強く腕を回す。
「ん……」
熱い吐息が、セシルの髪をくすぐる。
そのまま彼は、腕の力を緩めるどころか、さらにぎゅっと抱きしめて……
彼の唇が、そっと彼女のこめかみに触れた。
「あっ……ティアン……?」
息を呑むセシルに、彼は何も答えない。
ただ、髪をすくい上げ、頬、耳、首筋へと、唇をそっと這わせていく。
「……ああ……セシィ……。」
甘く掠れた声が、夜の静寂に溶ける。
セシルの心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。
驚きに震える吐息が、彼女の口からこぼれる。
彼の手が、迷いもためらいもなくナイトドレスの肩紐にかかる。
そして、滑らかに……優雅に、それを下ろしていく。
胸元のリボンに指が触れた瞬間、ぱちぱちと魔力の火花が弾けた。
結び目が解け、レースの縁までもが、ふわりとほどけていく。
セシルが驚いて上体を起こした瞬間、ナイトドレスがさらりと流れ落ち、月の光の中に、白い肌がそっと現れた。
「あっ……。」
何も隠せぬまま、夜の空気にさらされる。
思わず両腕を胸元で交差させる。
月明かりの中で、バスチアンがうっすらと目を開け、ぼんやりと、けれど優しく彼女を見つめた。
「……きれいだ……。」
陶酔の混じった囁きが落ちる。
「……たまらない……。」
彼は起き上がり、そっとセシルの手を胸元から外すと、そこへ噛みつくようなキスを落とした。
「……っ!」
息が詰まり、身体が震える。
バチバチと、バスチアンの指先から魔力が弾ける。
彼の指が、セシルの胸元にそっと触れ、微かな魔力が波紋のように広がっていく。
「あっ……んっ……」
セシルの吐息が震え、思わず指がベッドをつかむ。
熱が、柔らかな波紋のように広がっていく。
奥深く、花が内側から咲くような感覚に、セシルは思わず身をすくめた。
その仕草に彼は艶やかに微笑み……
天蓋の布へ向けて、指先から魔力を放ち、少しだけ焦がした。
こんなに激しい展開になるなんて、全く想像していなかった。
セシルは先の見えない展開に戸惑いながらも、身体の奥が小さく、熱く震えていた。
「ああ……今夜は……ずいぶん積極的なんだね、セシィ……」
うっとりとした笑みを浮かべながら、バスチアンはセシルを引き寄せ、自身の上に抱き寄せる。
「………もう、ずっと……目覚めたくない……。」
バスチアンの両手が、セシルの腰をしっかりと掴む。
「……っ!」
彼の腕に導かれるように、セシルはそっと彼に身を預けた。
温もりと心音が触れ合い、その瞬間、セシルの全身がびくりと震える。
彼の指先が、優しく、けれど逃さぬように腰をなぞった。
耳元に届く声は、甘く、熱を孕んでいた。
「震えてるね、セシィ。寒い? ……俺の熱で、温めてあげる。」
目を見開いて困惑しているセシルの前で、彼の瞼がぴくりと震え、唇がふわっと嬉しそうに微笑む。
まるで今はまだ目覚めない、と夢の中で決意しているかのようだった。
セシルも今、彼に夢から目覚めてほしくなかった。
次の瞬間、彼の身体が、熱を求めるようにそっと彼女へ寄り添ってきた。
「……っっ……!!」
セシルは必死に声を噛み殺す。
今までに感じたことのない熱と衝動が、波のように身体を駆け巡る。
驚きと戸惑いで、思わず身をよじらせる。
「……逃げないで、セシィ……」
バスチアンの囁きは、どこまでも甘く、けれども逃げ場のないほど深くて。
彼は彼女の身体を抱き寄せながら、再び小さく動こうとした……けれど。
そのとき、彼の動きが唐突に止まった。
閉じていた瞳がゆっくりと開かれ、月明かりの中に赤い光が浮かぶ。
数度の瞬きのあと、彼の目が、確かな意識を帯びてゆく。
彼は、自分の上で素肌を晒して震えるセシルを見上げた。
髪が乱れ、頬が紅潮し、唇を噛んでうつむく……そんな彼女の姿に、彼の顔色が見る間に変わっていく。
「………………………………まさか……。」
呟きが喉を震わせる。
彼の視線が、信じたくない現実を確認するようにセシルを見つめた。
セシルの身体が、まるで雷に打たれたかのように、ぴくりと跳ねる。
「………セシル……王女殿下……?」
この状況では、もう言い逃れはできない。
セシルは黙って彼を見つめ返し、涙に濡れた瞳のまま、小さく頷いた。
「……………はい。」
バスチアンの瞳が揺れ、困惑と動揺がそのまま声になる。
「………ここで……何をなさっているのですか……?」
セシルは顔を真っ赤に染めながら、か細い声で答える。
「ええと……。
よ……夜這い? かしら……?」
彼女の声が震え、視線が彷徨う。
バスチアンは、大きくひとつ息を吐き、寝台の周囲を見渡した。
ここが自分の部屋であることを確かめると、彼は拳を握りしめ、小さく呻く。
「セシル……君は……っ!」
その言葉の途中で、彼はセシルをそっと抱きしめる。
そして、ゆっくりと体勢を反転させ、彼女を下に寝かせた。
月光の中で、かつて見せたことのないほど真剣な眼差しが、まっすぐにセシルを捉える。
「優しくは、できない。」
「……優しくなくてもいいわ。」
「『責任は取る』なんてことも言えない。」
「ええ。」
彼は、夜着を脱ぎ落とすと、セシルの身体にそっと手を添え、慎重に保護の呪文を唱えた。
それから、ゆっくりと顔を近づけ、夜の扉を開くように……深く、柔らかく、唇を寄せた。