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#25 フェルモント侯爵領にて


 王妃陛下の命令に忠実に従い、セシルとバスチアンは翌朝すぐに王都を出発した。

 馬車で一日揺られて到着したフェルモント侯爵領は、王妃陛下が語っていた通り、本当に素敵な場所だった。


 穏やかな気候に恵まれ、広々とした草原や丘陵がどこまでも続いている。

 道の両側には緑が広がり、可愛らしいレンガ造りの家々が点在し、色とりどりの花々が窓辺に飾られていた。

 そんな景色を馬車の窓から眺めるたび、セシルの心は弾んだ。


 緑の丘の上に佇む公爵邸は、眼下に美しい湖を見下ろしていた。

 到着すると、管理人の老夫婦が温かく迎えてくれた。

 普段は使われていないため、すべてが完璧に整えられているわけではなかったが、セシルやバスチアンが使う客間やダイニングは清潔に保たれ、心地よく過ごせそうだった。


 朝と夕には、王妃陛下が手配してくれた料理人が通いで訪れ、至れり尽くせりの待遇だった。

 この領地は温暖な気候を活かした農業地域で、乳製品とワインが特産品。

 滞在中の食事に出されたチーズは濃厚で風味豊かで、葡萄畑から生まれたワインは香り高く、どれも思わず唸るほどの美味しさだった。

 お茶の時間には、濃厚なクリームとベリーのジャムをたっぷり添えたスコーンが出され、セシルは一口ごとに幸せそうに微笑んだ。


 *******


 休暇の前半、日中は侯爵邸を拠点に、セシルとバスチアンは領地内を丁寧に巡った。

 王妃様への報告書を早めに仕上げて、残りの時間を本当の休暇としてゆっくり過ごしたかったからだ。


 視察は身分を隠して行ったため、図らずも『9.平民の服を着て街でデートする』というリストの項目を何度も叶えることができた。

 とはいえ、実際に用意された「平民の服」は刺繍の施された可愛らしいドレスだったため、普段とさほど変わらなかった。

 バスチアンは「平民にもいろいろな階級がある」と言い張り、セシルに裾の短い服を着せる気はさらさらないようだった。


 パン屋では焼きたてのパンを買いながら人々と言葉を交わし、カフェのテラス席でランチを楽しみながら平民の食生活を知る。

 農村では、子どもたちが楽しそうに駆け回る様子を眺め、思わず笑みがこぼれた。

 すれ違う街や村の人々も素朴で温かく、親しげに挨拶を交わしてくれる。

 そんな「情報収集」のひとつひとつが新鮮で、セシルにとっては幸せなひとときだった。


 夜になると、二人は領地の実情を整理し、問題点を洗い出した。

 小規模な領地ではあったが、農業以外にも交易や産業の可能性はまだまだ埋もれているように思えた。

 ただ、国境に近いという地理的条件や、領主不在の影響からか、治安にはやや課題もあるようだった。


 二人は意見を交わしながら、それらの改善案を練り、レポートにまとめていく。

 休暇のはずが、結局いつもの公務旅行と変わらない日々だったが、不思議と嫌ではなかった。

 むしろ、バスチアンと一緒に作業する時間は、セシルにとってかけがえのないひとときだった。


 休暇が半分を過ぎた頃、王妃陛下に献上する報告書が完成した。


 *******


「ここ、本当に素敵な場所ね」


 テラスから見える湖の水面が夕日に照らされ、金色の波紋がきらきらと揺れていた。

 まるで、光そのものが水に溶け込んでいるかのような美しさだった。


「こんなところに住めればいいわ……」


 セシルがぽつりと呟くと、バスチアンは一瞬だけ目を伏せてから、やわらかく微笑んだ。


「まだ一週間、あります。明日は湖に行ってみましょう」

「湖?」

「ええ。リストにあった『湖で舟遊びをする』をしてみましょうか?」

「まあ、素敵! ぜひ……!」


 セシルの頬がぱっと明るくなる。


「では明日行きましょう。おやすみなさい。」


 バスチアンはそう言い、セシルを彼女の部屋まで送り届けた。

 扉の前で一礼し、そのまま静かに立ち去る。


 セシルは扉が閉まる音を聞きながら、ほうっと息をついた。


 明日からは本当の休暇が始まるわ。

 湖の舟遊びもできるなんて、本当に楽しみ。


 その余韻を抱えたまま、彼女はバスルームへと向かった。


 *******


 湯を張った大きめの浴槽にそっと身を沈めると、全身がじんわりと温かく包まれていく。

 麦畑を渡る風のような心地よさに、思わずふうっと息を漏らした。


 こんな素敵な場所で、バスチアンと一緒に過ごせるなんて。


 静かに目を閉じて、今日までの出来事を思い返す。

 市場を巡ったこと、美味しいパンを買ったこと。テラス席でワインを飲んだこと。

 丘の上まで遠乗りして、青々とした葡萄園を見下ろしたこと。

 そこで二人きりでサンドイッチを食べたこと。


 思い出すのは、どれも楽しくて幸せな時間ばかりだった。


 けれど、その余韻に浸るうち、ふと何かが引っかかる。


「……あっ。」


 思わず、小さな声が漏れる。


「今日、寝る前のキスをしてもらうのを、忘れてしまったわ。」


  バスチアンは、ちゃんとリストの項目を叶えてくれている。

 『9.平民の服を着て街でデートする』は楽しかった。

 『5.湖で舟遊びをする』も、彼が率先して提案してくれている。


 それは嬉しい。……本当に、嬉しいのだけれど。


 それだけでは、ちょっと物足りない。


 セシルは、ぷくっと頬を膨らませながら、湯の中で手を握った。


 バスチアンは、王妃様から与えられたこの「休暇」に対して、どこか警戒しているようだった。

 本当なら、もっと恋人らしいことができるはずなのに、彼はどうにも慎重すぎる。


 街では「危険だから」と手を繋ぐだけ。

 寝る前のキスも、額にそっと触れる程度……それもセシルがねだって、やっとだった。


「……これくらいなら、妹のアリシアにもしているんじゃないかしら。」


 ぽつりと零した言葉に、自分で驚く。

 そんなはずはないとすぐに打ち消そうとしたが、一度浮かんだ疑念は、そう簡単には消えてくれなかった。


 このままでは、残りの一週間も、バスチアンは慎重なまま過ごしてしまうのでは?

 そう思った瞬間、胸の奥がもやもやとした気持ちでいっぱいになる。


 せっかく王都から離れて、人目を気にせず恋人らしく過ごせるチャンスなのに。

 このままでは、あまりにも……もったいない。


 セシルは、ぽちゃんと頭まで湯の中に沈みこんで、考えた。


 バスチアンが踏み込んでこないのなら。

 セシルのほうから、頑張ってみてもいいのでは?


 彼には見せていない、『理想の恋のイベントリスト』の3枚目――セシルだけの秘密のリスト。

 試してみるには、今が絶好の機会かもしれない。


 セシルは、その最初の項目を思い出した。


 舞台は、もう完璧に整っている。


『19.夜這いをする』


 セシルの頬が、湯の熱とは違う理由でじんわりと染まる。

 このリストを書いたときには、まだ知らなかった。

 でも今なら……その言葉の意味を、ちゃんと理解している。


 ゆっくりと浴槽から立ち上がると、彼女の瞳はきらきらと輝く決意を宿していた。


 

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