#24 王妃陛下の御命令
バスチアン視点です。
二時間後、俺は王妃陛下の私室を訪れた。
窓辺に立つエルセリア王妃の姿は、柔らかな陽光に照らされ、気品と可憐さを兼ね備えている。
だが、その可憐な外見に反して、王宮で彼女に逆らえる者などいない。
国王陛下からもその聡明さを認められ、深く寵愛されている。
王妃の一言が、国の命運を左右することもあるだろう。
このリュミエール王国の真の権力者、それは彼女なのかもしれない。
「フレアベリー卿。」
明るい声に呼ばれ、俺は頭を下げた。
窓辺から振り返った彼女の瞳は、何やら愉快そうに輝いている。
「お呼び立ていただき、光栄です。」
「ええ、ちょっと話したいことがあったの。立ったままでは疲れるでしょう? どうぞ座って。」
軽く手を振ると、そばに控えていた侍女が静かにティーセットを整える。
王妃が微笑みながら正面に腰を下ろしたのを確かめて、俺も席に着いた。
「ねえ、フレアベリー卿。」
彼女は優しい声で切り出したが、その眼差しはどこかたしなめるような光を帯びている。
「あなた、ご自分が『夜の宮廷外務官』って呼ばれているの、ご存じ?」
思わぬ一言に、俺は思わず息を呑んだ。
『夜の宮廷外務官』……?
聞き覚えのないその異名が、不名誉な響きをもって胸に突き刺さる。
「い……いえ、初耳でございます。」
「あら、そう? かなりの噂よ。わたくしの耳に届くくらいだもの。
バスチアン・フレアベリー宮廷外務官が……毎晩、軽やかに夜を楽しんでおられるとか……ね?」
「き……恐縮です。」
曖昧な返事しかできない俺を見て、王妃陛下はくすりと笑った。
だがその声色は、やがて核心に触れる。
「でもね、今はまだ昼よ?
それに、王宮内の図書館は人目につきやすい場所。
しかも、相手は……王女なのよ?」
俺は平静を装いながらも、背中を冷たい汗が伝うのを感じた。
その穏やかな笑みに隠された鋭さが、容赦なく突き刺さる。
「……誤解です、王妃陛下。」
「そうかしら?」
扇で口元を隠しながら、彼女は小さく首をかしげる。
その仕草には、こちらの言葉をまったく信じていない意思が滲んでいた。
「まあいいわ。そういうことにしておきましょう。
どちらにしても、あなたは少し休暇を取る必要があると思うの。」
「……休暇、でございますか?」
意外な提案に眉を寄せたが、王妃の表情を見る限り、それが冗談でないことは明らかだった。
「ええ、きっとお忙しすぎて、少しおかしな判断をなさったのでしょう?
ですから、あなたには休養が必要だと思うの。」
胸の奥に、嫌な予感が広がる。
これは「謹慎」や「左遷」……あるいは、宮廷からの「追放」を意味するのではないか?
冷や汗を拭う間もなく、頭が警鐘を鳴らす。
「しかし、私は……」
「いいえ、これは命令よ。」
王妃はにっこりと微笑む。
その清らかな表情の裏に「逆らう余地はない」と告げる無言の圧力が隠れている。
「あのね。わたくし、常々王宮内の風紀について思うところがあったの。」
軽く眉をひそめながら、小さくため息をつく。
「殿方って、どうしてこう……見境がないのかしらね。」
ふっと視線を遠くへ向ける仕草に、俺は言葉を飲み込んだ。
その視線の先には、おそらく『とある殿方』の姿が浮かんでいるのだろう。
だが、その具体的な人物について想像するのは、不敬だ。
宮廷で生きる者として、ここでは沈黙するのが正しい選択だろう。
「そういうことはね、きちんと時間をつくって、雰囲気のある場所で行うべきだと思うのよ?」
王妃が眉をひそめ、扇を軽く動かす。
正論に見せかけながら、どこか可愛らしい個人的不満が滲むその言葉に、俺はただうなずくしかなかった。
「仰せのとおりでございます。」
「そうでしょう?
それでね、ちょうどいい場所があるの。わたくしの実家……フェルモント侯爵領。
今は誰も住んでいないけれど、管理人や使用人が最低限いるから、何とかなるはずよ?」
顔から血の気が引いていくのが自分でもわかる。
失職の上に追放!?
しかも行き先まで決められている。
準備を理由に出発を引き延ばす余地すらない、見事な布陣だ。
いずれにせよ、命令となれば即座に出立しなければならない。
セシル王女殿下に、別れの挨拶くらいは、許されるのか?
そして……いつまで王都を離れていなければならないのか?
次々と頭に浮かぶ不安を整理しきれないまま、俺はただ王妃陛下の次の言葉を待った。
すると彼女は、楽し気な声で続けた。
「もちろん、恋人も連れて行ってね。」
思考が止まる。
「……陛下、それは……?」
「ええ、セシル王女よ。きまってるじゃない。
『夜の宮廷外務官』のお相手は、きちんと連れて行ってもらわなくちゃ困るわ。」
さらりと告げられたその一言に、再び言葉を失う。
セシル王女を、罰のような休暇に同行させる?
それは彼女にも処分が下されるようなもので……。
それだけは、だめだ!
セシル王女を巻き込むわけにはいかない。
なんとしても彼女だけは守らねば……!
「いえ……しかし……。」
口を開いたところで、王妃の扇が軽やかに振られ、俺の言葉を封じた。
「バスチアン・フレアベリー、繰り返しますが……これは命令です。」
ぱちり、と扇が小さな音を立てる。
その音とともに、彼女の瞳がまっすぐ俺を射抜いた。
逃げ場などなかった。
「……仰せのままに、承知いたしました。」
「それでいいのよ。」
満足そうに頷く王妃の顔を見て、俺はもうこの処分が覆ることはないのだと悟った。
「では、すぐにふたりとも出立しなさいね。
外務部にはわたくしから伝えておくわ。」
ここまで手回しが完璧とは……。
これまで積み上げてきた仕事の整理さえもできず、追放されるというのか?
「……王妃陛下のご配慮、痛み入ります。」
悄然と辞去しかけたそのとき、背後から軽やかな声が飛んできた。
「あ、言い忘れたわ。フレアベリー卿。」
まだあるのか。
絶望的な気持ちで振り返ると、彼女は明るい笑顔で俺を見つめていた。
「休暇の期間は……そうね、二週間としましょう。」
その一言で、張り詰めていた緊張が一気にほどけ、ぐらりと膝が揺らいだ。
瞬時にその意味を理解し、胸の奥で静かに歓喜が弾ける。
「は……はい。………ありがとうございます。王妃陛下。」
「それからね、ついでに領地の様子を見てきてもらえるかしら?
お休み中に申し訳ないけれど……報告書もお願いね。」
王妃のどこか弾んだ声音に、俺は思わず苦笑しそうになりながら、改めて深く頭を下げた。