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#21 紅茶に何を入れましたか?

「あ……」


 小さく漏れた声が、静かな部屋に溶ける。


「どうかなさいましたか、王女殿下?」


 バスチアンがさっと立ち上がって尋ねる。


「いえ……なんでもないの。ただ少し……変な感じがして……。」


 セシルの言葉は自分自身にも説明がつかない。

 胸の奥で高鳴る鼓動が熱となって広がり、全身を支配していく。

 息をするたび、肌が触れる空気さえも微かに熱を帯びているように感じる。


 彼が一歩近づいた気配に、セシルの視界がふわりと揺れる。

 それが自分の動揺によるものなのか、それとも身体が何かを訴えているのか、区別がつかない。


 目を落とすと、バスチアンの長い指が机に軽く触れているのが見えた。

 たったそれだけの、何気ない仕草。

 けれど、セシルの目はその指先から離れなかった。

 ふとそれが自分の肌に触れているところが脳裏をかすめ……ぞくり、とした感覚が身体を駆け抜けた。


 どうしてこんな……。


 セシルは無意識に唇を噛む。

 何が起きているのか理解しようとするものの、頭の中はぐるぐると回るばかりだ。


「ええ……大丈夫よ。」


 ようやく口から絞り出した言葉。

 けれど、その声が震えているのを、セシルは隠しきれなかった。


 視線をそらそうと窓の外に目を向ける。

 そこに映るのは、差し込む柔らかな光に照らされたバスチアンの髪。

 陽光を浴びた彼の髪はまるで絹のようにきらめき、肩越しの影が静かに際立つ。

 そのシルエットを見た瞬間、胸がぎゅっと締めつけられるような感覚がセシルを襲った。


 自然と、あの日の記憶が浮かんでくる。

 風麦畑に行った日のこと。

 逆光の中で、バスチアンの赤い瞳が艶やかにこちらを見つめ、彼の手がセシルに触れた。

 その瞬間の感覚が、いまここで起きているかのように鮮やかに蘇り、全身が熱く疼き始める。


「王女殿下、具合が優れないようであれば、少し休まれた方が……。」


 彼の低く柔らかな声が耳元に響くたび、セシルの中で熱がふくらみ、全身が敏感に反応してしまう。


 これが、聖水の……効果……?


 ペレル司祭の言葉が脳裏をよぎる。

 『恋の種を芽吹かせ、解き放ち、真実の想いを受け入れる力がある』というあの言葉。

 今になって、何か別の意味を含んでいるように感じられた。


 セシルの胸が波打つように鼓動を刻み、頬は熱を帯びて紅潮している。


「……ティアン……。」


 震える声で彼の名前を呼ぶと、バスチアンの眉が微かに動いた。

 その瞳が揺らぎ、彼は何かを感じ取ったようだった。


「王女殿下、失礼します。」


 バスチアンが身を乗り出し、慎重にセシルの手に触れる。

 その瞬間、柔らかな熱が彼の指先から伝わり、セシルの全身に甘い痺れが駆け抜けた。


「あっ……ティアン……。」


 思わず声を漏らしたセシル。

 その震える声にバスチアンの瞳が反応し、何かを悟ったように静かに目を伏せた。


 だめ……身体が勝手に反応してしまう……。


 セシルは必死で視線を逸らす。

 だが、身体の反応は抑えきれず、触れている指先から熱がじんじんと広がり、全身を支配していく。


 耳に届くのは、自分の早まる心臓の音と、近くにいるバスチアンの静かな呼吸音だけ。

 その距離がいつもより近く感じられ、全身が彼に引き寄せられるようだった。 


 そんなセシルの様子をじっと見つめていたバスチアンが、静かに口を開いた。


「王女殿下、部屋に戻りましょう。お送りいたします。」


 その言葉に、セシルは小さく頷いた。

 けれど、ただの言葉のはずなのに、それが胸の奥に響き、さらなる熱を生み出す。

 彼の声がまるで触れてきたかのように感じてしまう。


 不意にバスチアンの眉がかすかに動いた。

 彼の視線が一瞬、セシルの手に触れている自分の指先へと向けられる。

 そして、その瞳が揺らぎ、彼の表情がわずかに引き締まる。


「ティアン……?」


 セシルが戸惑いながら小さく名前を呼ぶと、彼はもう片方の手で胸元を押さえ、わずかに眉を寄せた。

 その瞳が薄く伏せられ、彼自身も何かを耐えるような表情をしている。


 まさか……ティアンも?


 セシルの中で湧き上がる熱が、彼にも伝わっているのだろうか。

 そんな疑念がよぎった瞬間、彼の低い呼吸音が耳元に届き、セシルの胸が大きく跳ねた。


「王女殿下……。」


 彼の声は普段よりも低く、どこか熱を含んでいるように聞こえる。

 その声に答えようとしたものの、セシルの喉は渇き、声が出ない。

 指先が小さく震え、目を逸らすこともできない。

 彼の真剣な表情に引き込まれてしまう。


「もしかして、紅茶に何かを入れましたか?」


 突然の言葉に、セシルの目が大きく見開かれる。

 鋭い問いと真剣な眼差しに、胸がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。


「……え?」


「王女殿下、紅茶に、何か入れたのですね?」


 バスチアンは再び問いを重ね、じっとセシルを見つめる。

 その真剣さに押されるようにして、セシルは慌てて視線を泳がせながら口を開いた。


「……はい。」


「何を入れたのです?」


「……司祭様に頂いた……聖水を……。」


「司祭?」


 バスチアンの声がわずかに強くなる。

 その低く鋭い声色は、普段の彼からは想像できないものだった。

 セシルは思わず身を引きそうになるが、彼の視線から目を逸らすことはできなかった。


「ええ……新しく王宮担当に着任されたペレル司祭様が、ご挨拶にお越しになって……聖水を下さったの。」


「ペレル司祭……。」


 その名前を呟いた瞬間、バスチアンの表情が明らかに変わった。

 いつもの穏やかな瞳に鋭い光が宿り、彼の口元がかすかに歪む。

 そして、何かを悟ったように小さく息を吐き、低く呟く。


「……やられたな。」


 彼は深く息をつき、視線をセシルに戻す。


「王女殿下、それは……おそらく致死性のある毒ではないでしょう。」


「……毒、ではない?」


 セシルの胸がどきりとする。

 安堵するべきか迷う中、バスチアンが穏やかに言葉を続ける。


「ですが……それよりもっと厄介なことになるかもしれません。」


 その言葉に、セシルはさらに動揺し、彼を見上げた。


「厄介なことって……?」


 バスチアンは苦笑を浮かべる。

 その笑みに呆れと諦め、そしてどこか皮肉めいた光が込められているのが分かった。


「王女殿下、どうぞお喜びください。」


「……え?」


「リストの『12.媚薬の夜を楽しむ』を実践する時が来たようです。」


 

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