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#20 特別閲覧室は森の香り

 公務としての用事だと分かっていても、彼とこうして一緒に過ごせる時間が、セシルにとっては特別だった。

 彼が少し近く歩いているような気がして、それだけで胸がふわふわと温かくなる。


 ……これが、司祭様がくださった聖水の効果なのかしら?


 そんな思いが胸をよぎり、セシルはそっと微笑んだ。

 隣を歩く心地よさに包まれながら、少しだけ顔が熱くなるのを隠すように、視線を前に向ける。


 図書館の扉を抜けると、壮麗な吹き抜けが目に飛び込んでくる。

 壁一面を埋め尽くす書棚には、国や時代を超えて集められた書物がずらりと並び、ここが国の歴史や知識の宝庫であることを物語っている。


 セシルは幼いころから、この場所によく足を運んでいた。

 知識を得る喜びに夢中になり、手に収まりきらないほど本を抱えて歩いたことも一度や二度ではない。

 その記憶がふと胸を温かくする。


 エクリプス王国の風習についての資料も、きっとこの場所のどこかに眠っている。


 二人は並んで、外国文化に関する書架へ向かい、慣れた手つきで資料を探し始めた。

 背中を向けて黙々と本を選ぶバスチアンの姿を見つめながら、セシルの胸には、彼とこうして何かを共有しているという喜びがふんわり広がっていく。


 自分も手が届く範囲で本を探してみるものの、つい彼の方に視線が吸い寄せられてしまう。

 そんな自分をごまかすようにして、セシルは棚の高い位置に目を向け、そこに並ぶ本を探すふりをした。


「王女殿下、これでしょうか?」


 低く穏やかな声が耳元で響き、セシルは小さく息を呑む。

 気づけば彼がすぐ隣に立っていて、すっと腕を伸ばし、『エクリプス――光と影の国』という本を高い棚から取り出して差し出していた。


「……ありがとう。」


 セシルは頬をほんのり染めながら本を受け取る。

 たまたまそこに適切な本があってよかった――そんな思いが胸をよぎる。


 学園時代の記憶がふと蘇る。

 図書館でよくバスチアンとすれ違った。

 偶然同じ棚で隣り合うたびに、彼は自然に高い場所の本を取ってくれた。

 「ありがとう」と言うたび、彼は少し困ったように微笑み、「気にしないで」と言葉を返してくれた。

 その少し眩しそうな表情が、今でもセシルの胸に鮮やかに残っている。

 セシルはまたその言葉を聞きたくて、さりげなく何度も同じ棚を訪れたものだった。


 あの頃の彼は、優しくて素敵な上級生だった。

 いつも丁寧で、セシルとの距離をきちんと守りながらも、ふとした瞬間に見せる微笑みが印象的だった。

 本当はもう少し親しくなりたいと願ったけれど、そんな機会もなく彼は卒業してしまった。


 卒業してからは、さらに距離ができてしまった。

 再会した彼は、官僚となっていて、セシルを完全に「王女殿下」として扱うようになった。

 そのことが少しだけ寂しかったけれど、彼の誠実さと支えに、セシルは深い信頼を寄せるようになっていた。

 けれど、今……こうして恋を教えてもらうという名目ではあっても、また少し、親しくなれたのだ。

 せっかくのこの機会に、もっと親しくなっておきたかった。



 たくさんの本を選んだ二人は、それらを一度、特別閲覧室へ運び込むことにした。

 王族や高位官僚だけが使える特別閲覧室は、格調高い静けさに包まれ、知識を深める場として申し分ない空間だ。


 重厚な扉を開けると、北側の大きな窓から柔らかな光が差し込み、美しく彫刻の施された家具が目に入った。

 中央には上質なソファとテーブルが置かれている。

 部屋全体に深い森の中にいるような香りがほんのりと漂い、心を落ち着かせる。


「王女殿下、こちらへどうぞ。」


 バスチアンが振り返り、穏やかな声でセシルを促す。

 その声に導かれるように、セシルはソファに腰を下ろした。


 普段、セシルは図書館で見つけた本を自室に持ち帰って読むことがほとんどだった。

 けれど、こうして特別閲覧室で調べものをするのも、悪くない。

 特に、バスチアンと一緒なら。


 目を上げると、机に本を積み重ねたバスチアンが、一冊ずつ丁寧にページをめくっている。

 窓から差し込む柔らかな陽光が、彼の横顔を繊細に際立たせていた。

 額から鼻筋にかけての整ったライン。

 視線を落とし、真剣に文字を追う瞳。

 その何気ない仕草が、まるで静謐な空間に色彩を加えるようで、セシルは胸がどきどきと鼓動を速めるのを感じていた。


 こみ上げる思いが胸をくすぐり、セシルは慌てて目をそらした。

 けれど、視線を戻した本の文字は、なぜか一向に頭に入ってこない。

 気づけば、また彼の方を見てしまう自分がいる。


 真剣に調べものをしているだけのはずの彼が、どうしてこんなにも魅力的に見えるのだろう。

 彼の横顔は、静謐な部屋の中でひときわ輝きを放っているようで、目が離せなかった。


 ふいにバスチアンがページをめくる手を止め、セシルの方に視線を向けた。

 その動きがあまりに自然で急だったので、セシルは視線を外す間もなく、ばっちりと目が合ってしまう。


「トライン王子は、現国王の孫ですから、次期王太子として伝統的な結婚式をなさるでしょう。

 エクリプス王国の王族の結婚式では、特徴的な舞踏会が行われることがあるようです。」


 低く穏やかなバスチアンの声が、静かな部屋に柔らかく響いた。

 その声を聞くたび、セシルの胸の奥にふわふわとした浮遊感が広がる。

 どうしてこんなにも、彼の言葉ひとつひとつが心にしみるのだろう。


「それって、どんな舞踏会かしら?」


 セシルは自分の高鳴る鼓動を隠すように、会話を繋げるために問いかけた。

 バスチアンはわずかに微笑み、開いていた本のページを彼女に示した。

 自然と二人の距離が近づき、肩が軽く触れ合う。

 そのわずかな触れ合いさえも、セシルの胸はトクトクと高鳴った。


「仮面舞踏会です。」


「仮面舞踏会?」


 その言葉に、セシルの頭に『恋のリスト』が浮かんだ。

 確か、あのリストのどこかに……。


 セシルはふいに顔を上げ、バスチアンを見つめた。

 すると、彼もセシルを見つめ返していた。

 彼の穏やかな微笑みが、セシルの胸に柔らかな温もりを灯す。


「『11.仮面舞踏会に参加する』が叶いそうですね、王女殿下。」


 その一言に、セシルの胸がぱっと温かくなった。

 彼は、セシルのために、できるだけリストを実現しようとしてくれている。

 心の奥に優しい光が満ちていくような感覚に包まれる。


「素敵だわ……。」


 セシルはページに目を落としながら、声にほんのり期待を滲ませて言った。


「エクリプス王国の風習には、ロマンティックなものが多いのね。」


「ええ。仮面舞踏会にもいろいろな種類がございますが、

 こちらでしたら、王女殿下にも安心してご参加いただけます。」


 バスチアンの穏やかな声が、部屋の静けさをさらに心地よくする。


「仮面をつけているたくさんの招待客の中で、王子が新妃を見つけ出して求婚できるか、というところが、この舞踏会の中心となっています。

 最初に、王子殿下はわざと違う女性に声をかけるでしょう。

 そして何人目かで無事に新妃を見つけ、その後に、結婚の儀式が行われるようです。」


 バスチアンの説明を耳にしながら、セシルはその舞踏会で仮面をつけた自分を想像した。


 もし、仮面をつけた自分を、バスチアンが見つけてくれるのだとしたら?


 そんな甘くありえない幻想が胸をくすぐるようで、セシルの頬は自然と赤みを帯びる。


 ふと、部屋に漂う本の香りがいつもより深く鼻腔を満たすように感じられた。

 柔らかな陽光が、バスチアンの横顔を静かに照らし、窓際で揺れるカーテンが小さなささやきを立てる。

 その全てが、まるで鮮やかに生き生きと彼女の目の前に広がるようだった。


 セシルは胸の奥にじわりと広がる心地よいざわめきを感じた。

 けれど同時にそのざわめきが次第に何か別の熱を孕んでいくように思えた。

 なんだか、少し……変な気分。


 軽く息をつきながら、セシルは本を閉じて立ち上がった。

 けれど、その瞬間……くらり、と視界が揺れた。


 

ありがとうございます☆

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