#19 司祭が祝福する恋の聖水
バスチアンがセシルを訪れたのは、それからさらに数日後のことだった。
公務のためにやってきた彼は、宮廷外務官としての品格と洗練をまとい、どこかよそよそしいほどの落ち着きを漂わせていた。
まるで、風麦畑でのあのひとときが、夢だったかのように。
セシルがじっと彼を見つめると、ほんのわずかに動揺した気配を見せ、微妙に視線を逸らされる。
けれど、彼は終始、丁寧で公的な態度を崩さなかった。
「王女殿下。エクリプス王国のトライン王子殿下より、結婚式への招待状が届いております」
その穏やかで整った言葉遣いが、かえってセシルに距離を感じさせた。
彼が今、公務としてここにいることは理解している。
けれど、そのよそよそしさが切なくて、胸が少し痛んだ。
「そう……トライン殿下、ご結婚されるのね」
書類を受け取りながら微笑んでみせたが、胸の内では別の感情が渦巻いていた。
……どうして、そんなに遠いの?
そんな思いを抱く自分が少し恥ずかしい。
それでも、彼が目の前にいるだけで、どうしようもなく嬉しいと思ってしまうのだった。
ふと、侍女クロエが用意してくれたお茶に目を向けたとき、セシルは机の引き出しに隠していた小瓶のことを思い出した。
ペレル司祭から授かった、あの小瓶。
「互いの心をより深く理解し、愛を育む祝福をもたらす」……恋人と共に口にするように、と渡された祝福された聖水。
試してみても……いいかもしれない。
セシルはそっと小瓶を取り出し、バスチアンの視線を盗み見ながら、ポットの中へ数滴を垂らした。
透明な液体が静かに紅茶に溶け込んでいく。
すぐに蓋を閉めて、何気ないふりを装った。
クロエが少し眉を寄せたが、セシルは気づかないふりをした。
努めて平然としたまま、紅茶を注ぎ、彼にカップを差し出す。
けれど、内心では鼓動が高鳴り、静かな期待が胸を満たしていった。
バスチアンは微笑みながらカップを受け取ったが、すぐには飲まず、そっと横に置く。
そして書類に視線を落としながら話を始めた。
「エクリプス王国との外交関係を考えると、今回の結婚式は非常に重要な機会となります。」
「そうね……。」
セシルは頷きながら、ちらりと彼のカップに目を向けた。
だが彼は、紅茶にまったく手をつける気配を見せない。
彼はまるで何事もなかったかのように、結婚式の日程や外交上の意義について語り続けた。
セシルが黙っていると、バスチアンが控えめな声で言った。
「もし気が進まないようでしたら、ご辞退されても構いません。」
その言葉に、セシルは一瞬驚いた。
どうしてそんなことを言うのだろう?
けれどすぐに気づく。
彼は、あのときの言葉を覚えていてくれたのだ。
「降嫁先がないのよ」と、つい弱音を吐いたあの日を。
彼はそれを気にかけてくれているのだろう。
「いいえ。大丈夫よ、出席するわ。」
トライン王子は、かつてリュミエールの王立学園に留学していたことがある。
同じ王族同士として、セシルも親しくしていた。
彼の結婚式は、素直にお祝いしたいと思えるものだった。
それに……。
バスチアンと、また一緒に外国に行ける。
たとえ公務でも、それがどれほど嬉しいことか。
けれど、今はそのことよりも……。
セシルの視線は、そっと置かれたままのカップに向かう。
このままでは彼が紅茶を飲まないまま、部屋を出ていってしまうかもしれない。
聖水の祝福を受けるためには、二人で飲まなくてはならないのだ。
……そう司祭は言っていた。
胸の奥に焦る気持ちがじわじわと広がり、セシルは意を決した。
もしかして、まだ自分が口をつけていないから、彼も飲めないのかもしれない。
背筋を伸ばし、できるだけ自然に見えるよう心がけながら、セシルはゆっくりとカップを手に取った。
温かな紅茶を口元に運び、そっと飲み込む。
その瞬間、胸の奥にかすかなざわめきが走る。
……けれど、それが聖水の力なのか、ただの緊張かは、わからなかった。
セシルがカップを置くと、バスチアンがふと顔を上げ、穏やかに尋ねた。
「王女殿下、何か気になる点でも?」
一瞬、言葉を失ったが、すぐに美しい微笑を浮かべて答える。
「い、いいえ。特に……」
彼が紅茶に口をつけないことが、もどかしくてたまらない。
けれど、セシルは懸命に平静を装った。
バスチアンは書類を手早くまとめながら、静かに言った。
「この件については、後日またご説明に伺います。
これから私は王宮図書館へ向かい、エクリプス王国の風習を確認しておこうかと。」
「図書館に……?」
セシルはとっさに言葉を返した。
彼がこのまま部屋を出て行ってしまう。
そう思うと、背中を見送ることなどできなかった。
「図書館なら、わたくしもご一緒するわ。
エクリプス王国について知っておくのは、わたくしにとっても大切なことですもの。」
彼は一瞬だけ驚いたようだったが、すぐに表情をやわらげて微笑んだ。
「かしこまりました。それでは、ご一緒に。」
セシルは立ち上がる前に、再びカップを取り、最後のひと口を飲んだ。
その動作を、さりげなく彼の目に映るようにしながら、ふと上目遣いで言う。
「……ねえ。わたくしがいれたお茶、飲んでくれないの?」
その一言に、バスチアンは少し目を見開いた。
けれど、すぐに静かな笑みを浮かべ、そっとカップに手を伸ばす。
「失礼いたしました。」
紅茶を丁寧に口にし、静かに飲み干す。
その様子を見つめながら、セシルの胸には、淡く温かな喜びが広がっていった。
……これで、きっと。
ふたりの心は、ほんの少しでも……。
カップを置く静かな音が響き、セシルは自然と、柔らかな笑みを浮かべた。
ありがとうございます☆