#18 王宮司祭は秘密の恋を応援する
風麦畑の視察のあと、セシルはしばらくバスチアンと会う機会を持てなかった。
王女として命じれば、彼はすぐにでも駆けつけてくれるだろう。
けれど、それではただの「命令」になってしまう。
それがどうしても、嫌だった。
セシルはそっとライティングデスクの引き出しを開け、そっと『恋のリスト』を取り出してみる。
これを書いたときは、ただリストを見ているだけで夢が広がり、胸が高鳴ったのに。
今は、指先で触れただけで、どこか切なさが滲んでしまう。
このリストを書いた頃の自分は、ただ夢を描いていた。
物語のような恋に憧れて、わくわくしながら、あれもこれもと願いを詰め込んだ。
でも……風麦畑の中で、彼に抱かれて知ったあの気持ちは、そんな夢物語とは違っていた。
たとえば、『12.媚薬の夜を楽しむ』。
いまの自分には、とてもじゃないけれど耐えられそうにない。
あれ以上に身体が熱くなるなんて……想像しただけで、もう、どうしていいかわからなくなる。
その次の、『13.沈みゆく船の中で愛し合う』も、スリルとロマンスの象徴のように思っていたのに……
今では、沈むことにさえ気づかず彼に夢中になっている自分を想像してしまって……それが、少し怖かった。
もう、魔獣に襲われたり、権力者から逃れたり、死にかけるような冒険をする必要なんてない。
今はただ……バスチアンと一緒にいられれば、それだけでいい。
恋の教授としてではなくて。
ただ会いたい。彼の声が聞きたい。
ただ、彼に会いたい。
彼の声を聞きたい。
その気持ちが、胸の奥からふいにあふれてきて……セシルは、胸を押さえた。
でも同時に、ふと不安がよぎる。
バスチアンはこのリストに忠実に、着実にいくつもの項目を叶えてくれてきた。
それは嬉しかった。
嬉しいはずだったのに……。
もしかしたら……。
彼はリストを全てこなせば、それで約束が果たせると思っているのではないだろうか?
任務のように、淡々と。
それが終われば、もう自分のそばにいる理由はないと……。
いや、きっとそうに違いないのだ。
バスチアンが恋の教授をしてくれているのは、もとはといえばセシルが脅迫してそれを迫ったからなのだから。
「ああ、もうっ……!」
思わず声を上げてしまった自分に気づき、セシルは軽く顔を伏せた。
そんなタイミングで、侍女のクロエが音もなく部屋に入ってきた。
香り高いお茶のトレイをセシルの前にそっと置いた。
「王女殿下、お疲れのようですね。」
優しい声に顔を上げると、クロエが心配そうに微笑んでいた。
「王宮担当の新しい司祭様が参られました。ご挨拶をお受けになられますか?」
「……司祭様?」
セシルは眉を寄せる。
公務とわかっていても、今はどうにも気が乗らない。
けれど、一瞬でも逡巡した自分に気づき、心の中で背筋を正す。
恋に溺れて王女の務めをおろそかにするなんて、そんなの恥ずかしすぎる。
「……いいわ。お通しして。」
セシルは、背筋を正すように椅子に座り直し、努めて落ち着いた声で答えた。
着任の挨拶にしては急な訪問ではあったが、それを断るほどの理由もない。
扉が開かれると、司祭服を上品にまとった一人の男性が恭しく歩み入る。
その立ち居振る舞いは優美で、華やかさが零れ落ちるような風貌。
そして……その顔立ちには、なぜか見覚えがあった。
「王女殿下。ご無沙汰いたしております。」
明るく穏やかな声が響いた瞬間、セシルの記憶がぱっと開いた。
「えっ……あなた、セドリック・ド・ラ・モンテ卿!?」
驚きに声をあげる。
忘れるはずがない。
この麗しい微笑み。
リュミエールの社交界を華やかに彩っていた、モンテ侯爵家の若き貴公子……セドリック卿。
舞踏会でワルツの相手がいなくて困っていたとき、そっと手を差し伸べてくれたのも彼だった。
その記憶が不意に胸に蘇り、セシルの表情にわずかな懐かしさが浮かぶ。
「はい。今は、ペレルとお呼びください。
神に仕える身となった今、新たに頂いた名でございます。」
セドリック……いや、ペレル司祭は、柔らかな笑みとともに恭しく頭を下げた。
「いろいろとありまして……このように、静かな生き方を選ぶことにいたしました。
王女殿下におかれましては、何もお変わりなく……いえ、むしろ一層お美しくなられましたね。」
その褒め言葉は、かつての華やかな社交界を思わせる洗練された響きを持っている。
「……まあ。相変わらず、お上手なのね」
セシルは微笑みながら、記憶の中のセドリックを思い浮かべる。
リュミエールの社交界では、彼は常に注目の的だった。
誰にでも優しく、華やかで、そして……どこか危うさを感じさせる存在。
その言葉や振る舞いは、意図せずとも人を惹きつけ、とりわけ女性たちの心を騒がせていた。
けれど、いま彼は司祭として、礼装に身を包み目の前に立っている。
かつての華やかさを残しつつも、そこに加わった敬虔さ。
その静謐な雰囲気がどこか新鮮で、セシルは思わず目を奪われた。
「ああ……ペレル司祭様。少しお話していらっしゃいませんか?
……クロエ。司祭様にお茶をお出しして。」
椅子を勧めると、彼は優雅な所作で腰を下ろし、柔らかな微笑みとともにセシルを見つめた。
その視線には、過去の煌びやかさと、今の穏やかさとが同居している。
「王女殿下。」
「はい?」
「失礼ながら……何かお悩みではありませんか?」
「まあ……どうしてそう思うの?」
「ほんのわずかに、遠い想いを見つめておられるようなお顔をなさっておられましたので。」
ペレル司祭の声は低く、柔らかく、そして心の奥にまで静かに染み入るような穏やかさを帯びていた。
「ですが……お美しい。その輝きの中に、なにか……ひとしずくの憂いが、宿っているように見えるのです」
「……まあ」
セシルは少し戸惑いながらも、彼の優しい視線を受け止める。
そのまなざしは、まるで心の深い場所をそっと覗き込んでくるようで……どこか、抗いがたい温もりがあった。
「もしかして、恋をなさっていらっしゃるのでは?」
その言葉に、セシルの身体がかすかにこわばる。
ペレル司祭は微笑を崩さぬまま、ゆったりとした口調で続けた。
「どうぞご心配なさらないでください。
この場で語られることは、神の僕として決して外には漏らしません。」
「……。」
「もし王女殿下が、お気持ちを打ち明けてくだされば、ほんの少しでも、お心を軽くするお手伝いができるかもしれません。
……恥ずかしながら、私もこの名に変わる前は、多くの恋を重ねてまいりましたので。」
その言葉には、経験を隠そうとしない率直さがあった。
セシルは思わず、小さく息を吐いた。
「そう……。」
司祭の穏やかな促しに導かれるように、セシルはぽつりと語り始める。
相手の名は伏せたまま、誰にも言えなかった想いを、ほんの少しだけ口にした。
迷い、切なさ、甘さと痛み。
それらが入り混じる秘密の恋を、ひとつひとつ紡ぐように……。
ペレル司祭は、決して口を挟まず、ただ深く頷きながら耳を傾けていた。
その静かな姿勢が、セシルの言葉を引き出していく。
「なるほど……王女殿下のお気持ちは、とても純粋で、美しいものですね。」
優しく微笑むと、彼はふと表情を引き締める。
「ですが……そのお気持ちがあまりに真剣だからこそ、ときにご自身を苦しめることもあるのではありませんか?」
「ええ……そうかもしれませんわ……」
セシルは胸元のネックレスにそっと指を伸ばす。
それは、バスチアンが彼女に託した、彼の瞳の色を写した指輪。
そっと弄ぶように指で触れながら、小さく息をついた。
ペレル司祭の目が、その指輪にほんの一瞬だけ止まる。
だが彼はすぐに視線を逸らし、静かに笑みを浮かべた。
「神は、王女殿下を決してお見捨てにはなりません。
心を開き、真実の想いを受け入れるとき……道は自然と見えてくるでしょう。」
セシルはその言葉に、そっと頷いた。
けれど、司祭の言葉の裏に隠された響きまでは、感じ取れなかった。
ペレル司祭はゆっくりと革袋を開き、小さなガラス瓶を取り出す。
透明な液体が光を受けて、ゆらめくように輝いた。
「王女殿下、もしよろしければ、こちらを差し上げましょう。」
セシルは首をかしげて、瓶に目を向ける。
「それは……?」
「これは聖なる祈りを込めた聖水でございます。」
まるで宝石でも扱うように、司祭は瓶を差し出す。
その瞳には信仰の光が宿っているように見えたが、その口元には、わずかに含みのある笑みが浮かんでいた。
「聖水……?」
「はい。この聖水には、心を解き放ち、真実の想いを受け入れる力がございます。
お互いの心をより深く理解し、愛を育むために必要な祝福をもたらすものです。」
セシルは驚いたように目を見開いた。
「そんなことが本当に……?」
「神の御心が共にあれば、可能です。
もしよろしければ、これをお茶に少しだけ垂らして、愛する方と共にお飲みください。」
その声音は優しく、まるで心の奥をくすぐるように穏やかだった。
セシルは誘われるように、そっと瓶を手に取る。
その液体は、神聖な光を宿しているかのように、きらきらと輝いていた。
「神は恋するふたりを祝福されます。
王女殿下がその方と真実の想いを交わされるとき、この聖水が、その一助となるでしょう。」
ペレル司祭の声には深い安らぎがあり、その場の空気さえも柔らかに包み込むようだった。
けれども、セシルはその奥に、どこか説明しがたい何かを感じ取った。
セシルは、手のひらに乗せた小瓶をじっと見つめた。
「司祭様は……わたくしに、これが必要だと?」
不安げに問いかけるセシルに、ペレル司祭は柔らかな微笑みで答える。
「王女殿下のお心が、そう望まれるならば。
選ぶのは、あくまで王女殿下ご自身でございます。」
その言葉に、セシルは心をほぐされるような感覚を覚え、小さく頷いた。
「……わかったわ。ありがとう、ペレル司祭様。」
ペレル司祭は静かに立ち上がり、深く一礼をして部屋を後にする。
「またいつでも、お呼びくださいませ。
……どうか、神の祝福が王女殿下と……愛する方にありますように。」
その去り際、彼の横顔には、満足げな色がうっすらと浮かんでいたことに、セシルは気づかなかった。
まるで、静かに仕組まれた計画が……今、音もなく動き始めたかのように。
ありがとうございます☆
※セドリック卿の「いろいろとございました」の内容についてもし気になる方は、『氷雷の騎士、王命により結婚せよ!』https://ncode.syosetu.com/n9498js/ を見てね。
#18愛は星の彼方へ~#23そして、偽りの微笑 のあたりです。