#16 風麦の歌に囲まれて
目の前には、人の背丈ほどもある風麦畑が、どこまでも果てしなく広がっている。
風に揺れる穂が奏でる魔力を帯びた旋律が、二人を優しく包み込んでいた。
セシルの胸の中が、ふわりと温かくなる。
彼に手を引かれるまま、軽やかな足取りで歩き出した。
しばらく歩いた先の小さな草地に着くと、バスチアンはふわりと自分のマントを敷き、優雅な動作で手を差し伸べる。
「どうぞ。座って?」
「ありがとう。」
セシルが腰を下ろすと、草の上は思ったよりもふんわりと柔らかかった。
もしかすると、バスチアンの魔法がかかっているのかもしれない。
隣に腰を下ろした彼の存在を意識しながら、セシルは目の前に広がる風麦の波に目を奪われる。
見上げれば、真っ青な空がどこまでも広がり、鳶が優雅に旋回していた。
自然の美しさに囲まれながらも、セシルの胸は隣にいる彼の存在でさらに高鳴っていた。
これから『愛を交わす』の意味を、実際に教えてもらえるのね。
そんな考えが頭をよぎり、胸のときめきが止まらない。
小説の中では、いつだって夢のようにロマンチックな場面で語られる言葉。
だからきっと、これから素敵なことが起きるに違いない。
彼女の期待に満ちた視線を感じ取ったのか、バスチアンの指先が、そっと彼女の手に触れた。
その触れ方は、風がすり抜けるほどに軽く、優しい。
セシルの胸が甘く震える。
「そんなに、期待して見ないでください」
バスチアンの低い声が耳元で響いた。
その囁きには、微かな笑みと、抑えきれない情熱の気配が込められている。
「私が考えていることは、あなたが思っているのとは、少し違うかもしれませんよ」
セシルは少し肩をすくめたものの、視線を外すことができなかった。
その声の響きや、手の温もりが、彼女の心を静かに揺さぶり続けていた。
「……だって、教えてくれるって、そう言ったじゃない……?」
セシルの声には、小さな戸惑いと、それを上回る期待が滲んでいた。
頬はほんのりと赤く染まり、瞳には純粋な好奇心と高揚が宿っている。
バスチアンは、彼女の名をそっと呼ぶ。
「リア……」
その声が静かに響き、指先がセシルの手をやわらかく撫でた。
その動きは、まるで何かを語りかけるように優しく、彼女を誘っている。
セシルの胸が高鳴り、彼の指が手のひらをなぞるたびに、温かくてざわめく感覚が押し寄せた。
風麦が歌を奏でる音が遠くで聞こえる中、彼の穏やかな息遣いがセシルを包み込んでいく。
セシルはそっと瞼を閉じた。
視界からの情報が遮られ、周囲の音と風の感触がいっそう鮮明になる。
風麦が揺れる音、鳥のさえずり、すぐ近くで聞こえる彼の呼吸。
そのすべてが、セシルを不思議な緊張感と高揚で満たしていく。
彼の指先が再びそっと自分の手のひらを撫でる。
そして、唇が、セシルの耳に軽く触れた。
それは羽のように柔らかな感触。
すぐに彼の唇は首筋へと移動し、そこに熱が、しばらくとどまる。
彼の指先は手のひらから手首へ、そして腕の内側へとゆっくり滑る。
その動きは軽やかで、触れるたびに熱が残り、セシルの感覚は彼の指の動きに支配されていく。
彼の息遣いが耳元で響くたびに、胸の奥から甘い痺れが湧き上がり、身体全体が熱くなる。
その熱に耐えきれず、セシルは小さく震えながら息を漏らした。
「んっ……。」
そのかすかな音に、バスチアンの指が一瞬だけ動きを止める。
だが彼の手の温もりは肌にとどまり、甘い余韻がじんわりと残る。
「………っ……ティアン……!」
気づけば、セシルは彼の名前を呼び、無意識のうちにその手をぎゅっと握りしめていた。
その行動に、バスチアンが微かに息を詰める気配が伝わってくる。
彼はわずかに伏せ、次の瞬間には、指先をそっと離した。
まるで自分を制するかのように、一度大きく息を吐き出し、顔を上げる。
「……ああ、リア。……君はとても……可愛すぎる。だから……。」
その言葉は穏やかで、麦畑を抜ける風に溶け込むようだった。
だがその瞳の奥には、抑えきれない何かが燃えていて、彼の自制心によって辛うじて留められているのがセシルには見えた。
彼女は、何か新しい感覚を教えられつつあったのに、急にそこから手を離されたような気がして、少し戸惑う。
「……教えて、くれないの?」
セシルが小さく囁くように言うと、バスチアンは微笑みながら彼女を見つめた。
その微笑には、優しさと、わずかな戸惑いが滲んでいた。
「でも……なにか、感じたでしょう?」
低く掠れた声が、彼の胸の内に秘めた危うさを覗かせる。
「ええ……でも……」
……まだ、続きがあるような気がする。
セシルのまなざしを見つめ返しながら、バスチアンはほんの一瞬、瞳を閉じた。
そして、再び目を開けたとき、そこには深い熱が宿っていた。
「本当のことを言うと、これ以上君に触れてしまうと……途中では止められなくなってしまって……」
その静かな声が、麦畑を吹き抜ける風の音に溶けていく。
その言葉に、セシルの胸がきゅっと締めつけられるように小さく震えた。
「……引き返せなくなります。」
「………っ。」
セシルは目を大きく見開いたが、その驚きには恐れではなく、彼の言葉に触れた高揚と戸惑いが混じっている。
バスチアンは、そんな彼女をそっと見つめた。
「この美しい魔法の歌の中では、リア、君には優しい想い出だけを残してほしい。」
その声は深く、低く響いた。
言葉に込められた優しさと不安を受け止めながら、セシルは彼の赤い瞳をじっと見上げる。
その奥には、熱とためらいが交錯する感情が揺れていた。
セシルは、自分の心臓の音が耳に響く中、小さく首を振る。
「いいえ……。わたくしは、7番の秘密を、教えてほしいわ。」
ありがとうございます☆緩やかに進みます☆