#15 風に歌う麦の畑へ
結局、セシルはそれ以上問い詰めることなく、朝早くからバスチアンと共に、王都から少し離れた風麦を栽培する農村を訪問した。
いつもの外交と同じように、バスチアンは巧みに状況を判断しながら、自然にセシルを導いてくれる。
村人たちの温かな歓迎に包まれながら、セシルは安心して言葉を紡ぎ、心からの激励を贈ることができた。
村長の家での質素な昼食——とはいえ、村としては最大限のもてなしだったのだろう——を終えると、二人を乗せた馬車は、再び穏やかな田園風景の中をゆったりと進み始めた。
無事に公務を終えた安堵感と、窓の外に広がる風麦畑のやさしい風景が、セシルの胸を自然と弾ませる。
「こうして広々とした景色を見ると、気分が上がるわね」
思わず漏れた呟きに、バスチアンは目を細めて微笑んだ。
「風麦畑は、収穫前のこの季節が一番美しいですからね」
彼の言葉に頷きながら、セシルは馬車の窓から揺れる風麦の穂を見つめた。
柔らかな風が吹くたびに、まだ青みを帯びた穂が波打ち、軽やかな魔法の音楽を奏でている。
風とともに歌い、踊るように揺れるその景色が、セシルの心を穏やかに、そしてほのかに甘く満たしていく。
ふと、手の甲にやわらかな感触を覚え、セシルは驚いて視線を落とした。
バスチアンの手が、そっと彼女の手に触れていたのだ。
「……?」
目を丸くした彼女に、バスチアンは口元に微笑みを浮かべて、言った。
「『4.馬車の中で手を繋ぐ』……叶えてもいいでしょう?」
そう言いながら、彼はセシルの手を優しく包み込む。
力を込めるわけでもなく、ただ自然な仕草で。
けれど、そこには抗いがたい親密さが宿っている。
彼の手の温もりが伝わるたび、セシルの胸は甘く高鳴っていった。
しばらくの間、二人は言葉を交わさなかった。
馬車の中に響くのは、麦畑を吹き抜ける風の音と、車輪が小石を弾く柔らかな音だけ。
けれど、つないだ手から伝わる静かな熱が、セシルの全身をやさしく包み込んでいた。
ふいに、バスチアンの指が、セシルの指先をすくうようにそっと動いた。
その動きが意図的なのか、ただの偶然なのか……けれど、そのかすかな感触に、セシルは小さく震えてしまう。
「少し揺れますね。」
バスチアンはそう言いながら、軽く腰を浮かせてセシルの隣へと移動する。
ぴたりと寄り添う彼の体温と、肩が触れ合う感触に、セシルの心はざわめいた。
すぐそばで感じる彼の息遣いに、自分の鼓動が早まっていくのがはっきりとわかる。
つないだ手のひらの内側で、彼の指がほんのわずかに動くたび、温もりが静かに、けれど確かに広がっていく。
やがて彼の指先が、くすぐるように大きく動いたとき、甘い感覚が胸に押し寄せ、セシルは思わず息を呑んだ。
「……ティアン……?」
勇気を振り絞って、恋人としての名で彼を呼ぶ。
彼にもっと近づきたい。触れたい。
そんな思いが胸の奥から湧き上がってくる。
このまま、自分からキスをしたらどうなるだろう……。
慎みを忘れた妄想が、胸の中で静かに渦巻く。
熱のこもった視線で彼を見上げると、バスチアンは静かに笑って、囁いた。
「まだだよ……少し待って、リア。」
囁きとともに、バスチアンはセシルの指を軽く握り直した。
そのさりげない仕草さえ、彼女の中で高まりゆく熱を煽るようだった。
胸の奥でとろけるような甘い戸惑いと、ゆっくりと広がる熱の中で、セシルは彼の横顔をそっと盗み見る。
彼の表情は穏やかだが、どこか余裕を含んだ計算された美しさがあった。
気がつけば、馬車は行きとは違う道を、少し遠回りしていたようだった。
そのとき、馬車が静かに停車し、外から扉をノックする音が響く。
バスチアンが立ち上がり、扉を開けて馬車を降り、御者と短く言葉を交わす。
小さな包みを御者に手渡し、深々と頭を下げるその姿を見届けると、彼は微笑んでセシルを振り返った。
「何があったの?」
「彼の母親の家が近くてね。病気で寝ているらしいから……薬を渡して、少しだけ会う時間をあげたんだ」
セシルは驚きつつも、思わず頷いた。
バスチアンらしい、細やかな気配りだった。
彼はいつも周囲の状況を正確に把握している。
そして仕える者にもさりげなく思いやりを示す彼の姿勢には、尊敬を感じていた。
馬車を降りたバスチアンは、護衛騎士のエミールに合図を送る。
「ここで待ってろ、エミール。
好きなだけ絵を描いていていいが、馬車と馬はちゃんと見張っていろよ。」
エミールは素直にうなずき、すぐにスケッチブックを取り出した。
どうやら絵を描くのが趣味らしい。
「さぁ、王女殿下。風麦畑の視察に参りましょうか。」
バスチアンは優雅な所作で、セシルに手を差し出す。
まるで舞踏会でエスコートするかのような、洗練された仕草だった。
「『7.風麦畑で愛を交わす』……試してみたくは、ありませんか?」
その低く甘い声が耳元で囁かれ、セシルの心に静かな波紋を広げる。
その声には、抑えきれない想いが微かに滲んでいた。
戸惑いながらも、セシルはそっとその手を取る。
彼の指先から伝わるぬくもりが、不思議な安心感となって胸に染み渡っていった。
馬車を降りると、目の前に広がるのは、風麦畑の蒼い波。
風に揺れる穂が奏でる静かな音色が、二人の世界を優しく満たしていた。
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