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#12 王女殿下と呼ばないで

 

 薔薇園に漂う甘い空気が、陽光の中で二人を包んでいる。

 セシルの心は、この穏やかなひとときの中で、これからの日々への期待に満ちていた。


「王女殿下。準備が必要なものと、すぐにできそうなものがありますね。」


 リストを前に、バスチアンが穏やかに告げる。


「バスチアン……あの、わたくし、ここから始めたいの」


 セシルは少しだけ身を乗り出し、リストの一番上をペンの羽先でそっと示した。


 『1.特別な名前で呼び合う』という項目だ。


 頬をわずかに染めながら、彼女は言う。


「わたくし、恋人には『王女殿下(ユアハイネス)』ではなくて愛称で呼んでほしいの。

 それから……もっと親しい話し方をしてもらえたら、嬉しいわ」


 幼い頃から、セシルは常に最上級の敬語で敬われてきた。

 だからこそ、恋人との間では敬語を控えた、親しみのある温かな会話に憧れている。

 従兄サフィールが王妃に向ける、親しげで自然な呼び方に、羨望を覚えたこともある。


「ねえ、覚えている?

 学園時代は、わたくしの方があなたに敬語を使っていたでしょう?」


 セシルが王立学園に入学した頃、バスチアンは最上級生だった。

 廊下ですれ違うたびに、彼は異国の言葉で挨拶をしてくれて……その姿は、下級生の彼女にとって、眩しい存在だった。


 これは秘密のことだが、幼い頃から異国に憧れていたセシルは、彼に触発され、さまざまな言語を学びたいという思いを強くしたのだ。

 そのおかげで今では、どの国を訪れても言葉に困ることはない。


 バスチアンは少し黙って思案し、慎重に言葉を選ぶ。


「……では、差し支えのない範囲で、敬語を控えてみましょう。」


「ええ。……それと、愛称のことだけど……。」


「はい。」


「……バスチアンの愛称は……『バス』か『ティアン』が短縮形よね?

 誰か、そう呼んでいる人は?」


「……おりません。」


「なら、わたくし、あなたのことを『ティアン』って呼んでもいいかしら?」


 バスチアンは、うっすらと耳元を赤らめた。


「……光栄です。ぜひ、お好きに。」


 その答えに、セシルの胸がじんわりと温かくなった。

 ひとつ、小さな願いが叶ったのだ。


「じゃあ、わたくしのことも……名前で呼んでくれる?」


 その言葉に、バスチアンは少し表情を引き締める。


「……畏れながら、王女殿下の御名を気安く呼ぶことに、ためらいがありますが……。」


 バスチアンは小さく咳払いをして、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「……セ……セシ……ル王女殿下……。」


「王女殿下はいらないわよ。それに……セシルって……それ、陛下もお呼びになるわ。」


「それは……別の意味で特別な呼び方ですね。」


「……そうね。」


 少し考えてから、彼が控えめに提案した。


「では、ミドルネームをお借りしても……よろしいでしょうか?」


「もちろん!」


「……リア、様……?」


「様、もいらないわよ。今は、ふたりきりなんだもの」


 セシルはにっこりと微笑んだ。


「はい……リア。」


 初めてその名で呼ばれた瞬間、セシルの胸がきゅっと高鳴った。


「ふふ……最高ね。」


 セシルの声に満たされた喜びが滲み出る。

 『セシル王女殿下』ではなく、恋人に愛される『リア』としての自分。

 それは、ずっと憧れていた夢そのものだった。


 バスチアンもまた、かすかに微笑む。


「では、これから、ふたりだけのときは……そのように。」


「ええ。ふたりだけの、秘密の呼び方ね」


 セシルはうっとりとしながら「リア、ティアン」と何度も小声で呟き、彼女自身で二人のカップに紅茶を注いだ。

 魔法がかけられたティーポットは、まだ十分に温かさを保っている。


「幸せそうですね、リア。」


 バスチアンの言葉には、ほんのわずかに敬意を和らげた、やさしい響きがあった。


「……そんなに喜んでくれるなら、これからふたりきりのときだけ、少し言葉を砕いて話すようにします。」


 セシルは頬をほころばせながら、楽しげにティーカップを傾ける。


「ありがとう、ティアン。きっと、すぐ慣れるわ。」

 セシルは、こみ上げる嬉しさを胸に、そっと頷いた。


 バスチアンはそんな彼女の笑顔をじっと見つめていたが、ふと、服の下から首にかけていた何かを外した。

 それを見つめる彼の表情に、一瞬だけ、強い決意の影が過った。


「それと、リストの『10.お互いの瞳の色のアクセサリーを交換する』についてですが……。」


 そう言って彼は、セシルの手の中にそれをそっと置いた。


「もし、よろしければ……これを受け取っていただけますか?」


 それは、繊細な金の鎖に通された、鮮やかな赤い宝石が輝く指輪だった。

 宝石の深い赤は光に透けて、複雑な輝きを放っている。

 まるで、彼の瞳の奥に秘められた情熱と、彼が常に向けてくれる穏やかな眼差しをそのまま映し取ったかのようだった。

 そして指輪の表面から伝わる微かな熱が、まるで彼の鼓動のように感じられた。


「生まれたときから身につけていたもので……少し、私の魔力が宿っています。

 お守りくらいにはなるかと思います。」


 その言葉に込められた意味に、セシルは息を飲んだ。

 目の前の小さな指輪が、特別な意味を持つものであることを感じる。


「そんなに大切なものを、わたくしがもらってしまっていいの?」


 セシルが問いかけると、バスチアンは静かに首を横に振り、彼女を真っ直ぐに見つめた。


「ええ、これなら長めの鎖でドレスの下に隠せます。

 もしそうしてくれるなら……嬉しいです。」


 その控えめな申し出に、セシルは胸をきゅっと締めつけられたような気持ちになる。

 指輪を握る手に、そっと力がこもった。


「ありがとう……大切にします。」


 手の中にある指輪からは、まだ彼の温もりが優しく伝わってくる。

 それはまるで、彼と自分を繋ぐ小さな証のようだった。


 

読んでくださってありがとうございます。

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