#11 恋のリストを検討します
澄み渡る青空の下、離宮の薔薇園には、ほんのりと甘やかな香りが漂っていた。
優雅に整えられた庭園では、色とりどりの薔薇が咲き誇り、その花びらが陽光を浴びてきらきらと輝いている。
庭の中央には小さな噴水があり、涼やかな水音が静かに響いていた。
柔らかな風が木々をそよがせ、花の香りをそっと運んでゆく。
その香りと水音が混じり合い、静けさの中にひとつの優雅な調べを奏でているかのようだった。
白いパラソルの下、しつらえられたティーテーブルには、香り立つ紅茶と焼きたてのスコーンが並んでいる。
ティーポットから立ちのぼる湯気は、まるで薔薇の香気と混ざり合い、午後の陽射しにふんわりと溶け込んでいた。
セシル王女の隣には、まだ伏せられたままの書類が置かれていた。
その斜め向かいに座るのは、宮廷外務官バスチアン・フレアベリー。
彼は穏やかな微笑みを浮かべながら、上品な所作で静かに紅茶を口にしている。
薔薇の茂みに隠れるように控える侍女たちは、声が届かない距離まで下がっている。
二人の会話には、重要な外交案件や宮廷の機密事項が含まれることが多いため、不用意に聞かれることは避けねばならないのだ。
「それでは……見せていただいても?」
バスチアンの柔らかな声が、午後の空気の中に心地よく響く。
伏せられた書類に視線を向けられると、セシルはほんの少しためらい、テーブルに添えた指先が小さく丸くなるのを感じた。
深く息をついて書類を手に取ると、そっと差し出した。
そのとき、彼の指がかすかに自分の手元に触れる。
その小さな接触に、心臓が跳ねる。
慌てて手を引っ込めると、指先がティーカップの縁に触れて、軽い音が響いた。
すぐさまバスチアンがそっと手を添え、セシルの手の上からティーカップを安定させる。
その動きはあくまで自然で、何気ない仕草だったはずなのに。
セシルには、それだけで胸の鼓動がさらに速くなる気がした。
昨夜の甘やかな時間がふと蘇る。
彼の手に導かれて、何曲も何曲も踊ったワルツの記憶。
セシルは紅茶のカップをソーサーごと慎重に持ち上げ、そっと視線を落とした。
陽の光を映す紅茶の表面が、微かな波紋を描いている。
頬が熱を帯びてゆくのを感じながら、紅茶を一口含む。けれど、その味はまるで、夢の中のようにあやふやだった。
一方のバスチアンは、ちらりと彼女に視線を向けたものの、表情を変えることなく書類に目を落としたままだ。
こんなにも意識しているのは、きっとわたくしだけなのね。
静かな薔薇園に、自分の息遣いが聞こえてしまいそうだった。
今、バスチアンが手にしている書類は、王室外交とはまるで無縁のものだった。
それはセシルの『恋人としてみたい18のリスト』。
彼女の純粋な憧れと好奇心が便箋二枚に渡って、美しい筆記体で丁寧に綴られているものだった。
バスチアンは、一枚目に目を通す。
1.特別な名前で呼びあう
2.恋人のワルツ
3.バルコニーの語らい
4.馬車の中で手を繋ぐ
5.湖で舟遊びをする
6.ラブレターを交換する
7.風麦畑で愛を交わす
8.薔薇園でキスをする
9.平民の服を着て街でデートする
10.お互いの瞳の色のアクセサリーを交換する
バスチアンはひとつひとつ、丁寧に目で追いながら、ふっと笑みを浮かべた。
その瞳には、どこか楽しげで、やわらかな光が宿っている。
昨夜すでに実現したこともいくつか含まれていた。
中盤で一瞬だけ視線が止まり、わずかに眉を上げたが、特に何かを口にすることはなかった。
「素敵な恋ですね……。」
リストから目を離し、遠くに視線をやったまま、彼は静かに呟いた。
その声音には、夢見るような響きがあった。
セシルは、その言葉に胸が甘く疼くのを感じた。
バスチアンの穏やかな表情が、彼女の淡い憧れを肯定しているようで、胸の内に小さな照れがそっと芽吹いた。
バスチアンは次に、紙をめくり、二枚目に視線を移した。
そこには、セシルが読んだ小説で憧れた、より情熱的な項目が並んでいた。
11.仮面舞踏会に参加する
12.媚薬の夜を楽しむ
13.沈みゆく船の中で愛し合う
14.閉じ込められた塔から脱出する
15.権力者の手を逃れて駆け落ちする
16.牢獄の中で永遠の愛を誓う
17.魔獣に襲われて死にかける
18.忘却の魔法にかかった恋人を呼び戻す
項目を追うにつれて、バスチアンの表情がわずかに変わっていく。
ときおり喉が小さく動き、唇がほんのわずかに引き結ばれた。
そして最後の項目を読み終えた瞬間、バスチアンは片手で口元を軽く覆い、しばらくの間黙り込んだ。
めったに感情を外に出さない彼が動きを止めるその姿は、セシルにとってとても珍しいものに映った。
彼女はそっとカップを取り、陽光に揺れる液面を見つめる。
だが、手元に落とした視線の先、指先がわずかに震えているのが、自分でもわかる。
ふと、バスチアンの手元に目を戻す。
昨夜の記憶が、胸の奥に淡くよみがえる。
彼の手のぬくもり、耳元で囁かれた低い声……そして、彼の唇が、自分の唇に触れたあの瞬間。
その思い出が霞のように甘く心を包み、胸の高鳴りを抑えきれない。
バスチアンが顔を上げたと同時に、セシルはその高鳴りを隠すように微笑みを浮かべた。
「本当はもっとあったの。でも……少し我慢して減らしたのよ。」
それから……バスチアンにはとても頼めないような内容もあった。
それは便箋三枚目に記され、いまは彼女の寝室の引き出しに、大切にしまわれている。
その言葉に、バスチアンはリストから視線を外し、小さく息をつく。
「そうですか……。」
その慎重な声色には、彼なりの配慮が滲んでいる。
「……少し難しい項目も入っているようですね。例えば……」
そう言って、バスチアンは二枚目の『17.魔獣に襲われて死にかける』という項目を、指先で軽くとんとんと叩いた。
「申し訳ありませんが、死にかけるのは、もちろん私だけとさせていただきます。王女殿下を危険にさらすわけには参りませんので。」
「えっ……。」
セシルはその項目を見返し、彼の言葉を反芻した。
物語に登場するそのシーン。
森の中で魔獣に襲われ、令嬢が負傷し、それを守ろうとした騎士が瀕死の重傷を負いながらも愛を誓う……。
読み物としては胸が高鳴る展開だったが、いざ自分たちに置き換えてみると……?
バスチアンが傷つき、命を危険にさらす姿を想像するだけで胸が痛む。
「……考え直すわ。これは、やっぱり……なくていいわ。」
そう言いながら、セシルは身を乗り出して『魔獣に襲われて死にかける』の項目にペンを走らせて消した。
バスチアンはその様子を静かに見届け、小さく息をつく。
そして、安堵の笑みを浮かべたが、その目元にはどこか楽しげな色が宿っている。
「ありがとうございます。これで少し安心しました。」
セシルは消した跡を見つめながら、心の中に残るロマンチックな憧れと、現実の厳しさのあいだで揺れる思いを抱えていた。
「……残念だけれど、確かに現実には難しいのね。」
その言葉に、バスチアンは穏やかに頷いた。
「王女殿下が命懸けの恋をお望みであることは、十分に理解いたしました。
それ自体に問題はございません。
ですが、それが王女殿下ご自身の安全や健康を脅かすものであれば、私のすべきことは……そのすべてからお守りすることでございます」
落ち着いたその声に、セシルはわずかな期待を込めて問いかける。
「じゃあ……他の項目は大丈夫かしら?」
バスチアンは二枚の紙を手に取り、視線を走らせる。
「そうですね……。多少、警備面での検討は必要かもしれませんが……
できる限り、王女殿下のご希望に沿えるよう努力いたします。」
そう言いつつも、彼の耳がじわじわと赤く染まっていくのをセシルは見逃さなかった。
思わず唇を引き結びながら、胸の奥がくすぐったくなる。
……もしかして、『仮面舞踏会』や『媚薬の夜』のせいかしら?
物語では、そのあたりから雰囲気が退廃的に、そして濃密になっていくのが常だった。
しかも、たいていの男主人公は、ヒロインにそれを「経験させたがらない」のだ。
しかし、バスチアンが口にしたのは、まったく別の項目だった。
「その……7番の『風麦畑で愛を交わす』……についてなのですが……。」
彼は言いにくそうに視線をさまよわせる。
どうしてだろう、とセシルは不思議に思った。
風に吹かれて魔法の音楽を奏でるという風麦に囲まれて、恋人と愛を語り合う……。
危険もなく、むしろ平和そのものではないだろうか。
「王女殿下は……その……どうしても風麦畑をご希望で……?」
まさか、バスチアンは風麦の音色が嫌いなのだろうか。
セシルは首を傾げ、やや困惑しながら代案を出す。
「風麦畑でなくてもいいわよ。
月麦畑でも……ううん、別に麦畑じゃなくてもいいの。
夢恋草の野原でも、氷水晶草の草原でも、どこでも。」
バスチアンは少し間を置き、視線を落としたまま、静かに息を吐く。
「いえ……その、少し開放的な場所でしたので………。」
目を伏せたまま、言葉を選ぶようにして口を開く。
「王女殿下……こういったことは……やはり、屋根のある場所のほうがよろしいのではと……。」
「屋根? いやよ。」
セシルは即座に首を振り、小さく笑った。
「わたくし、青空の下で、恋人に愛されてみたいの。」
「青空……。」
バスチアンはしばし絶句し、喉をひとつ鳴らすと、静かに頷いた。
「…………では、ご希望に添えるよう……準備致します。」
その言葉に、セシルは思わず微笑んだ
いつでも彼は、彼女の希望を叶えようとしてくれる。
その優しさが、胸の中に温かく広がっていく。
一方で、バスチアンは書類を手元に戻しながら、一瞬だけ目を閉じ、静かに息を吐いた。
そして、ふと何かを思い出したように、セシルに向き直る。
「王女殿下?」
その顔には、慎重な色合いがにじんでいる。
「あの……念のため、確認させていただきたいのですが……。」
「ええ、なに?」
小首を傾げるセシルに、バスチアンは真剣な眼差しを向けた。
「王女殿下は、『愛を誓う』『愛し合う』『愛を交わす』という表現を……どのように使い分けていらっしゃいますか?」
その問いに、セシルは一瞬固まり、そして頬をほんのり赤らめて目を伏せた。
しばらく考えた後、小さく微笑む。
「実は………そこがよくわからないの。」
恥ずかしさを隠すように目をそらし、頬に手を添えながら、そっと微笑む。
その返答に、バスチアンはゆっくりと息を吐き、どこかほっとしたような顔を見せた。
「……了解しました。それで十分でございます。」
その言葉には、冷たさや批判の欠片もなかった。
むしろ、彼の声色には穏やかな温かみが滲んでいる。
セシルは彼のその姿に安堵しながらも、ふと込み上げてきた好奇心を抑えきれず、問いかける。
「でも……バスチアンなら、全部教えてくれるでしょう?」
少し上目遣いでそう告げると、彼は驚いたように目を見開いたが、すぐにその表情はほどけ、優しい微笑みが浮かんだ。
「そうですね……お任せいただけるのでしたら、それぞれの意味も、そこに宿る恋のかたちも……できる限り、お教えいたします。」
その声は静かで温かく、頼もしさを含んでいる。
セシルはその言葉に胸をほのかに染めながら、紅茶をもう一口含んだ。
甘い香りがふわりと広がり、彼の言葉が心の奥にゆっくりと溶けていく。
陽光を浴びた薔薇園は、二人だけの世界をそっと包み込むように静まり、穏やかなひとときが流れていった。