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#10 バルコニーの恋人たち

  

 幾度となく踊り、セシルが少し息を整えようとしたそのとき、バスチアンが人に呼び止められたのだ。

 呼びに来たのは、実はジェラールだったが、その表情にはただならぬものがあり、きっと職務に関わる要件なのだろう。

 そう思ったセシルは、深くは問いたださなかった。

 そしてそのまま、彼らが舞踏会場へ戻ってくることはなかった。


 けれど、セシルは不思議と満ち足りていた。


 まるで本当の恋人であるかのように、優しく、真摯に、彼はセシルに接してくれた。


 手のひらをそっと見つめる。

 そこにはまだ、バスチアンの温もりが宿っているように思えた。

 しっかりと握られ、優しく導かれた感触が、指先にやわらかく残っていた。


 部屋へ戻ったセシルは、侍女の手を借りて浴室へと向かい、湯気に満ちた温かな湯に身を沈める。

 目を閉じれば、あのダンスのひとときがすぐそこに蘇ってきた。


 彼の瞳に映る自分。

 耳元に届いた低く優しい声。

 包み込むような手の温もり。

 彼と何曲も踊ったワルツ。


 『恋人』としての意味を持った、特別な時間。

 彼の手に引かれ、優しく支えられながら踊ったあの一瞬一瞬が、今も心を優しく満たしている。


 今宵、バスチアンが与えてくれた幸福は、何にも代えがたい宝物だった。


 ナイトドレスに着替えたあとも、その余韻が胸の内にふくらみ、どうしても眠ることができなかった。


 侍女たちを下がらせたセシルは、そっとベッドから身を起こし、滑らかな絹のガウンを羽織る。

 バルコニーへと続く窓を開けて外へ出ると、夜空に浮かぶ満月が、まるで待っていたかのように彼女を迎えた。


 夜の空気が、ほんの少しだけ肌を刺す。

 セシルはゆっくりと深呼吸をし、胸いっぱいにその冷気を吸い込んだ。


 そしてそっと瞼を閉じる。


 低く甘く、耳元に囁かれた言葉。

 まなざしのやさしさ。

 導いてくれた手の確かさ。

 ドレス越しに触れた、彼のしなやかな存在。


 どれもが、胸を締めつけるような心地で、身体の中を満たしていた。


「バスチアン……。」


 名前をそっと呼んでみると、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 それは静かな幸福感のようなもので、セシルの心を満たしていた。


「お呼びでしょうか、王女殿下。」


 聞き違いかと思った。

 そんなはずはない、と思いながらも、セシルは小さく身を乗り出してバルコニーから下を覗く。


 すると、月明かりの中に浮かぶように、バスチアンの姿があった。

 彼は柔らかな微笑みを浮かべながら、まっすぐにセシルを見上げていた。


「どうして……そこに?」


「お約束しましたから。庭園を、散歩しましょうと。」


 まるで当然のことのように言う彼の口調に、セシルの胸が小さく跳ねる。

 けれど同時に、不安も顔をのぞかせた。


「ええ……でも……」


 彼はいつからそこにいたのだろう?

 ここは立ち入り禁止の区域。

 誰かに見つかれば、きっとただでは済まない。

 もしもそんなことになったら……


「だれかに見られたら……。」


 不安げに漏らしたその声に、バスチアンはふっと笑みをこぼした。


「それは困りますね。……では、そちらへ伺っても?」


 彼の提案に、セシルはすぐに頷いた。

 誰にも見つからないうちに、早く。


「ええ。」


 その短い返答に、バスチアンは微笑む。

 次の瞬間、彼の全身が淡い光に包まれ……ふっとその場から消えてしまった。


「え……?」


 驚いたセシルはバルコニーの柵に手をかけ、身を乗り出して下を覗き込む。

 けれど、薄闇の中に彼の姿はもう見えなかった。


「危ないですよ。王女殿下。」


 耳元で、聞きなれた低い声が響く。

 同時に、柵に置いたセシルの手の上を、温かな大きな手がそっと包み込んだ。


 振り返ると、そこには彼女をそっと支えるように立つバスチアンの姿があった。

 月明かりに照らされた彼の顔は端整で、微笑みが優しく彼女を見つめている。

 その瞬間、セシルの胸が早鐘のように鳴り出した。


 そうだ。

 彼が無詠唱で転移魔法を使えることを、すっかり忘れていた。


「びっくりするじゃないの……!」


 震える声でそう訴えると、バスチアンはまるで子どもをあやすように、穏やかに笑った。


「申し訳ありません。けれど、招いてくださったのは……王女殿下ご自身ですよ?」


 低く甘い声で囁きながら、片眉を上げて肩をすくめる。


「私は、ただ散歩にお誘いしに来ただけですのに。」


 その余裕ある態度に、セシルはくすりと笑って口を閉じた。


「……ああ、でも……。」


 バスチアンの視線がふと、彼女の胸元へと下がる。

 ナイトドレスの薄いレースが月明かりに照らされて、淡く透けていた。


「この装いですと、たしかに誰かに見られるのは困りますね。」


 彼の手が、セシルの襟元へと伸びる。

 レースの縁を、指先でなぞるように触れていく。

 肌に触れそうで触れない、絶妙な距離。


「………っ!」


 セシルは咄嗟にガウンをきゅっと掴み、視線を逸らす。

 顔が熱く火照り、睨もうとしても彼の余裕に気圧される。

 そっと後ずさると、背に冷たい柵が触れた。


 バスチアンは微笑みを深め、その手を彼女の背へとまわす。

 わずかに引き寄せ、そっと支えた。

 

 その仕草はあまりにも自然で、セシルは抵抗する間もなく、彼の腕の中にいた。


 胸が高鳴り、呼吸も浅くなる。

 思わず開いた唇から漏れる息が、自分でも驚くほど無防備で、どこか儚げだった。


「王女殿下。」


 低く、甘い声が静かに響く。

 その響きだけで、セシルの鼓動はさらに激しくなる。


「では……次の講義に進んでもよろしいですか?」


「……次?」


 浅く息を吸いながら問い返すと、バスチアンは静かに頷いた。

 深い瞳がまっすぐに彼女を見つめ、静かな問いかけがそこに込められている。


 目を逸らしたくなるほどのまなざし。

 けれどセシルは、頬を紅潮させながらも、小さく頷いた。


「いいわ。」


 その一言が告げられた瞬間、バスチアンの瞳がさらに深い赤に染まる。

 月明かりに揺れるその瞳は、どこか幻想的で、吸い込まれそうな美しさを放っていた。


 冷たい夜風がセシルの髪をそっと撫で、頬の熱をさらに際立たせる。

 押し寄せる高揚感と甘い緊張に、セシルは立ち尽くすしかなかった。


 バスチアンの顔がゆっくりと近づき、そっと何かを囁く。

 そして……彼の唇が、セシルの額に優しく触れた。


 羽のように軽いその口づけは、慈しみに満ちていて、胸の奥に熱を灯す。

 額から滑るように移動した唇が、頬に触れ、そこで少しだけ長く留まった。


 優しい熱が、そこに刻まれていく。


 彼の手がセシルの頬に触れ、そっと顔を上向かせる。


「……キスしてもいいですか?」


 唇のすぐそばで囁かれたその声は、深く、静かに、どこまでも優しく響いた。

 それは、許しを求める声でありながら、すべてを委ねるような誠実な問いだった。


 恥ずかしさと胸の震えに迷いながらも……

 セシルは、ほんのわずかに頷いた。


「ええ……。」


 その言葉に、バスチアンの喉元がかすかに動く。


 そして……。

 彼の唇が、そっと彼女の唇に重なった。


 触れた瞬間、思わず目を閉じる。

 その柔らかさと、静かな温もりに、心がふわりと浮かぶようだった。

 彼の唇がやさしく動いて、セシルをそっと誘う。

 自然と引き寄せられ、彼女もまた、その優しさに身を委ねた。


 甘く、静かな時間が、二人の間を満たしていく。

 まるで世界が、その瞬間だけそっと止まったようだった。


 やがて、バスチアンがゆっくりと唇を離す。

 セシルは小さく息をついて、まだ速く打つ胸を抱いたまま、彼を見上げた。


 彼の静かな微笑みが、月明かりの中でさらに優美に見えた。


「セシル……王女殿下。」


 その名を呼ばれるだけで、胸の奥が甘く疼く。

 セシルは恥ずかしさに視線を逸らし、そっと目を伏せた。


 バスチアンは彼女の仕草をじっと見つめ……そして囁く。


「あなたを……私のものにしてしまいたい。」


 低く響いたその言葉に、セシルの心が大きく揺れる。


 けれど。


 『恋人たちのワルツ』も、『バルコニーの語らい』も、『初めてのキス』も、すべてをたった一晩のうちに起こってしまった。


 胸が高鳴りすぎて、もうこれ以上は耐えられそうになかった。

 セシルはバスチアンの揺らめく瞳を見上げ、小さく震える。


 バスチアンはほんの一瞬、動きを止めたが……

 すぐに柔らかく微笑んだ。

 そっと彼女から手を離し、気持ちを整えるように肩の力を抜く。


「では、王女殿下。」


 彼は少し距離をとり、朗らかに言った。


「今日の授業は、これでおしまいです」


 微笑むバスチアンの顔には、上品なユーモアとさりげない配慮が漂っていた。


 セシルは思わずくすりと笑った。

 張りつめていた緊張が、その言い方にそっと溶かされていく。

 それを見て、バスチアンも小さく微笑み返した。


「よい夢を、王女殿下。」


 低く、やわらかな声が甘く心に響いて、セシルの胸の奥をそっと温める。


「ええ。あなたもね、バスチアン。」


 バスチアンはふっと笑うと、一歩下がり、月明かりの中で優雅に礼をした。

 次の瞬間、その姿は夜の静けさの中にすっと溶けて消えた。


 セシルはその場に立ち尽くし、瞼を閉じる。

 指先が、自分の唇に触れる。

 彼の最後の言葉が、じんわりと胸の奥に染みわたっていく。


 やがて彼女は部屋に入り、バルコニーの扉にそっと鍵をかけた。

 ベッドに身を沈め、クッションをぎゅっと抱きしめる。

 思い浮かぶのは、月明かりの中で自分を見つめた彼の瞳。

 心に灯った熱が消えなくて、どうしようもなくなって……。


 セシルは、クッションに顔を埋めたまま、こっそりじたばたと身をよじる。


 嬉しくて、恥ずかしくて、夢みたいで。

 まるで恋そのものに包まれているようだった。


  

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