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#1 セシル王女の誰にも知られてはならない秘密

 

 リュミエール王国の王女セシルは、常に完璧であることを求められてきた。

 公務の席では、微笑み一つすら計算されたものでなくてはならない。

 礼儀、教養、そして立ち居振る舞い。

 そのすべてが王国の「光」としての役割を果たすべく磨かれていた。


 しかし、彼女には誰にも知られてはならない秘密があった。


 目の前の机には、何枚もの手紙が散らばっている。

 それは、貴族令嬢たちがこぞって読んでいる恋愛小説『愛は星の彼方に』の読者から届いた感想だった。

 そして、その小説の作者こそが、セシル王女……彼女自身だったのだ。


 *****


「王女殿下、少しお疲れではありませんか?」


 侍女のクロエが心配そうに声をかける。

 セシルは慌てて手紙を束ね、机の引き出しに押し込んだ。


「ええ、大丈夫よ。少し考え事をしていただけ」


 穏やかな微笑みを浮かべて答えるが、その心の内はざわついていた。

 先ほど読んだ感想の中に、特に気になる一文があったからだ。


「ラブシーンにリアリティが欠けていて、そこだけが少し残念です。」


 たったそれだけの言葉が、セシルのプライドを鋭くえぐった。


 ――リアリティがない。


 その指摘は、読者がセシルの物語に深く向き合っている証でもあった。

 だが同時に、それは彼女の未熟さを突きつける冷酷な真実だった。


「王女であるわたくしが、恋愛を描くのに未熟だと言われるなんて……。」


 セシルはため息をつき、窓の外を見つめた。

 そこには、手入れの行き届いた離宮の庭園が広がり、薔薇が咲き誇っている。

 どんなに完璧に見える花でも、誰かが丹精込めて手入れをしているからこそ美しい。

 小説も同じだ。ただ書くだけでは足りない。

 欠けているものを補い、磨き上げる努力が必要なのだ――そう悟った彼女の心に、言葉が浮かんだ。


「わたくしに足りないのは、恋の経験……」


 自分で言葉にした途端、顔が羞恥で赤く染まる。

 王女という立場で恋愛経験を積むなど、到底簡単なことではない。

 それでも、このままでは物語が読者の心に届かない――その現実だけは否定できなかった。


「クロエ、少し散歩に出るわ。」


 突然立ち上がったセシルに、クロエは一瞬驚いたが、すぐに微笑み、黙ってその後をついてきた。


 *****


 王城の廊下を歩きながら、セシルは心の中で静かに決意を固めた。


「わたくしが目指すのは、誰もが胸を熱くする恋愛小説。」


 そんな作品を書くためには、恋の真実を知る必要がある――たとえそれがどれほど困難であっても。


 だが、問題はどうやって経験を積むかだった。

 王女という身分ゆえ、自由に恋愛を楽しむなど許されるはずもない。

 それどころか、周囲の目をかいくぐることさえ、一筋縄ではいかないだろう。


 廊下の曲がり角を曲がると、王宮に仕える侍女たちの立ち話がひそひそとと聞こえてきた。

 目立たないように息を潜めながら、会話に耳を傾けた。


 こうした噂話は、小説の材料として最適なのだ。

 どんなに些細な情報でも、読者を惹きつける要素になるかもしれない。

 そして今の話題も、その一つだと直感した――名前を聞くまでは。


「そう言えば、氷雷の騎士のシャルトリューズ公爵のことなのだけれど……。」


 その名が耳に届いた瞬間、セシルの胸に鋭い緊張が走った。

 ジェラール・シャルトリューズ公爵。

 彼はセシルにとって特別な意味を持つ人物だった。

 端整な顔立ち、鍛え抜かれた体躯、冷静で誇り高い振る舞い。

 その存在感は誰よりも際立ち、貴族たちが憧れる英雄とまで称されている。


 彼が『理想の結婚相手』として令嬢たちの間で噂になっていることは承知していたし、セシル自身、彼のことは、それなりに好感をもって接しようと心掛けていた人物だった。

 公務では彼と顔を合わせる機会も多く、非公式な場ではお互いにファーストネームで呼びあうことのできる気安い関係でもあった。

 

 眉をひそめながら、セシルは柱の陰で身じろぎもせず耳を澄ませた。


「ああ、あのストイックな魅力が本当にたまらないわね。

 見習いにきたばかりの子爵令嬢が廊下でぶつかりそうになったとき、彼に冷たく「失礼」って一言言われただけで失神したって聞いたわ。」

「それで、咄嗟にシャルトリューズ卿は彼女を抱き止めたんですって!」

「きゃー! なんて羨ましいこと!」


 抑えた歓声が廊下に響く。

 セシルは聞き流そうとしたが、心の奥でざわつく感情を抑えきれない。


 彼は冷静で合理的な性格だ。

 単にその令嬢を抱き留めたのは、行き掛かり上仕方なかっただけに過ぎないのだろう。


「ええ、そのシャルトリューズ公爵が、ついにご結婚されるのではないかという噂を聞いたのよ。」


 その言葉に、セシルの鼓動が一瞬止まったように感じた。


「えっ、それってまた根拠のない噂話じゃなくて?」

「いいえ、今回は違うわ。かなり信憑性が高いんですって。」


 会話が一瞬途切れる。廊下に漂う侍女たちの緊張感が、さらにセシルの不安を煽った。


「この間、丘の上にできた人気のカフェで、とある令嬢とお食事をされているところを見かけた人がいるの。それも、ただの同席じゃなくて……なんでも、とても親しそうな雰囲気だったんですって。」

「親しそうって?」

「あのシャルトリューズ公爵が、穏やかな微笑みを浮かべながら、その令嬢にサンドイッチをお分けしていたそうよ!」

「信じられない……氷雷の騎士がそんな優しい表情を見せたですって?」


 セシルの胸がぎゅっと締めつけられる。

 無表情で冷徹。

 それがシャルトリューズ公爵が周囲に抱かせる印象だった。

 だが、セシルは知っている。彼がごく限られた相手にだけ、心を開いて穏やかな笑みを見せることを。

 しかしそれは、セシル自身や国王サフィールといった、ほんの少数の者たちに限られていた。

 彼が他の女性にそんな柔らかな表情を向けるなど、考えたこともなかった。


「その上ね……なんと、その令嬢の髪には、公爵様の瞳の色の宝石で作られた紫雷鳥(シルリオン)の形の髪飾りが輝いていたらしいのよ。」

「まあ! ご自身の瞳の色の髪飾りを贈られるなんて……!

 しかも、紫雷鳥(シルリオン)って、シャルトリューズ公爵の象徴とされている鳥でしょう?

 それはもう確実に真剣なお相手ということじゃない!」


 その瞬間、セシルは全身の力が抜け落ちそうになる気持ちを必死に抑えた。


 ジェラール・シャルトリューズ公爵。

 彼こそ、セシルが自分の降嫁先として当然だと思っていた人物だった。


 リュミエール王国の伝統では、王女の降嫁は貴族間の均衡を保つための重要な手段とされてきた。

 現在、王国に3つある公爵家のうち、ひとつは爵位返上状態にあり、もうひとつの公爵家には、すでに他の王女が降嫁している。

 必然的に筆頭公爵家であり、若き英雄とも称されるジェラール・シャルトリューズ公爵が、セシルの降嫁先として最も有力だとされていたのだ。


 それ以外の選択肢は、事実上存在しない。

 侯爵家の嫡子は既婚者や婚約者がいる者ばかりで、残りは年齢があまりにも釣り合わない。

 さらに、王国法で伯爵以下の家柄に王女が嫁ぐことは禁じられている。

 そう、ジェラール以外に道はないのだ。


 実際、彼は、セシルにとって最後の希望だった。

 23歳にして未婚であるジェラールが、あえて結婚を先延ばしにしているのも、セシルの降嫁の命を待っているからだと、今まで何の疑いもなく信じていた。


 それなのに!


 唇を噛み締めたセシルの横で、クロエがひそかに動き出そうとした。

 噂話をする者たちを咎めようとするのだろうか。

 その動きを察知したセシルは、片手を上げて制止の合図を送った。


 胸の中がざわめき、波立つ思いを抑えきれないまま、再び耳を傾ける。


「それで……今まで誰にもなびかなかった氷雷の騎士のシャルトリューズ公爵が、

 ついにその氷を溶かしてしまったお相手というのは?」


 そう。それよ!

 わたくしを選ばなかったジェラールが選んだという相手は、一体誰なの!?


「それがね。あの魔術師団長のフレアベリー侯爵の御令嬢、アリシア様らしいのよ。」


 その名を聞いた瞬間、セシルの中で何かが音を立てて崩れるのを感じた。


 

完結済の『氷雷の騎士団長、王命により結婚せよ!』に登場するバスチアンお兄様とセシル王女のお話です☆

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