ちょっと昔の昔話:蟻の托鉢
ちょっと昔の昔話:蟻の托鉢
蟻の托鉢
昔々といってもそれ程遠くない昔のお話です。
ある街に正坊と言う名の若いお坊さんが住んでおりました。正坊が住んでいる街は日本でも有数の古くから栄えている都会で朝と言わず昼と言わず夜と言わず休むことなく大勢の人々が活動しているところでした。
正坊はこの街で生まれ、この街で育ったお坊さんで実家は代々続くお寺でしたが近所には昔から住んでいる人も家も少なくなり檀家の数も年々少なくなってきていました。近頃では生活も儘ならなくなってきていましたがそれでも正坊は毎日、毎日朝早くからお経を上げておりました。
ある日の事、正坊はお経を唱えながら御仏にすがる思いで『御仏に仕える身ではありますが、この苦しい生活はなんとかならないものでしょうか』と考えていました。お坊さんとはいえやはり人の子、ましてや現代っ子と呼ばれた世代のこと、生活の苦しさ程みにこたえることはありません。
『これも煩悩というものか。それにしても腹が減った』
正坊はこう考えながらも読経を終えるといつものように境内の裏にあるお墓の掃除にでかけました。お墓にはあげられたばかりの線香の煙と蝋燭の炎がユラユラと揺れていました。その墓前には、美味しそうなお饅頭がお供えしてあります。正坊はそのお饅頭を見ただけでお腹がグウっと鳴りました。持っている箒の手を止め、思わずお饅頭に手を伸ばそうかと思うほど正坊は腹を空かせていたのです。
『いかん、いかん。幾ら腹が減っているとはいえ、御仏に仕える身。檀家の墓前のお供え物を頂戴しては罰があたる。南無南無……』
正坊はかろうじて、我慢することができました。
『このお寺を壊してマンションを建てる契約さえしてしまえば、大金が入ってくる。迷っている場合じゃないかもしれない。でも、ご先祖の残してくれたこのお寺をいくら生活に困っているからといってマンションにしてしまっていいものか……。我慢、我慢……』
実際、このお寺は都会の一等地にあるため土地の評価も高くこの土地を売ってしまえば正坊が一生遊んで暮らせるだけのお金は入って来ます。しかし、正坊は迷っていたのです。幾ら檀家の数が減っているとはいえ、まだまだ沢山のお墓があり、時々墓前に向かって手を合わせる檀家の姿も見かけるからです。自分の生活か、お坊さんとしての仕事か、どちらを優先させるべきかという問いかけを正坊は毎日のようにしておりました。
その日、お寺ではいくらでも、しなければならない仕事はあるのですが、正坊はお腹が空いてどうにも動く気にもなれませんでしたから、『起きて動いていては、腹が減り煩悩に負けてしまうだけだ。今日は夕げのお勤めまで寝ていることにしよう』と思い頭から布団を被って横になりました。しかし、寝ようにも被った布団の暗がりの中で、お腹がグウ、グウと音を立て、その音が木霊のように布団の中で響いて来ては寝ようにも寝られませんでした。正坊は仕方なく、起き上がり境内の本尊の前に座りまたお経を唱え始めました。
どれ位の時間が過ぎたでしょう。
正坊は熱心にお経を唱えながらも、朝と同じように
『仏様、この苦しい生活がなんとかならないものでしょうか』
と考えておりました。
その時でした。お経を唱える正坊の耳にどこかから微かに声が聞こえてきました。正坊は読経の声を止めると辺りを見回しました。その声は、一つではなく大勢の人が一緒になって何やら唱えているような声でしたが、とても小さな声でした。正坊は立ち上がると耳を立て声の聞こえてくる方向を探しました。ようく耳を澄ますとその声は境内の脇の方から聞こえてくるようでした。正坊がその声のする方へ歩いてゆくと声はお墓の方から聞こえていました。しかし、辺りを見回しても人の気配はありません。正坊は、お腹が空いていよいよおかしくなってしまったのではないかと思い頭を振って、それから耳の穴を指で掻いてみました。それでもやはり声は聞こえてきました。そして、正坊はその声のする方へとゆっくり歩いてゆきました。声に近づくにつれてだんだんとはっきり聞こえるようになりました。
どうやら、「信心だけでは、ご飯は食べれぬ。信心だけではご飯は食べれぬ」と言っているようでした。そして、その声は、先程のお饅頭のお供えしてあったお墓から聞こえていました。
正坊がそのお墓の前に行くと蟻の行列が、お饅頭を少しずつ切り取っては行進しながら叫んでいたのです。
「信心だけでは、ご飯は食べれぬ。信心だけではご飯は食べれぬ」
と小さな蟻達が口々に叫びながらお墓の隅にある巣穴に向かって列を成していました。正坊の姿が見えた時、一瞬蟻達は沈黙しましたが直ぐに正坊のことを気にかけない様子でまた一斉に「信心だけではご飯は食べれぬ」と唱えながらお饅頭をほんの僅か切り取っては次々に運び始めました。
正坊がようく見るとお饅頭の上には一匹の大きな蟻が乗っていました。蟻達は、お饅頭の前に来ると手を合わせるような仕草をしては、お饅頭を運べる大きさに噛み切っては運びます。その間にもそれを待っている蟻達が口々に叫んでいるのでした。
「信心だけでは、ご飯は食べれぬ、信心だけでは、……」
そして、お饅頭の上に載っている大きな蟻だけが、何やら「南無南無……」とお経のようなものを唱えています。
正坊は、お腹の空いたことも忘れその姿を感心したように眺めていました。
やがて、お供え物のお饅頭はすっかり蟻の行列に運ばれなくなってしまいました。するとお経を唱えていた大きな蟻がくるっと墓石に向き直ると手を合わせて呟きました。
「ありがたや、ありがたや」
すると蟻の行列からも一斉に
「ありがたや、ありがたや。蟻の托鉢、ありがたや……」
と声が上がりました。そして蟻達は列を成して巣穴へと戻っていってしまいました。最後の蟻が巣穴に入ってゆくと、それまで聞こえていた「信心だけでは、ご飯は食べれぬ。ありがたや、ありがたや……」と言う声も無くなり辺りはすっかり静かになりました。
正坊は暫く蟻のいなくなったお墓の前に立ち腕組みをしながら考えごとをしていました。
『信心だけではご飯は食べれぬ。確かにそうには違いない』
正坊は、考えていました。
『坊主とはいえ、生きていくためには何かしなくてはならない』
正坊は、迷いを吹っ切るように墓前に手を合わせるとくるっと踵を返し境内へ戻ってゆきました。それから、融資をすると言っていた銀行へ直ぐに電話を入れました。すると三十分程で担当者と支店長がお寺にやってきました。支店長は席に着くなり、
「ようやくご決心いただけましたか。この都会の一等地にこのお寺は正直もったいない。失礼ですが、ご経営状態を考えますとやはりマンションかオフィスビルを建てた方が、やはりよろしいかと思います。ここの土地でしたら担保価値も十二分にございますし……。それに、ご同業のどこそこのお寺も当行の融資でマンションに建て替えられます……」
とこれまでにも聞いた話を嬉しそうにし始めた。確かに、銀行の言う通りお寺を廃業したり、転地してマンションやビルを建てるところが増えているとは正坊も聞いていた。そうした同業者は急に羽振りがよくなって贅沢な生活をしていることも見ていた。しかし、正坊はそうすることに迷いを感じていた。足しげく通ってくる銀行マンの話を聞くたびに心が揺れていたのは間違いのないことであった。それに朝夕のお勤めをしながら、いつも生活のことを考えていた。正坊のお寺はそれ程に逼迫していた。そんな時あの蟻の声を聞き姿を見て決心し、銀行へ電話を入れたのであった。
そんな正坊の気持ちを和らげようという意図なのか、支店長は一人で話を続け、担当は鞄から書類を選びながら取り出しテーブルの上へと広げていった。
「建蔽率を考えますと二十階建のマンションが……」
と支店長が言いかけた時、正坊は支店長の言葉を遮るように
「そういう話でお呼びしたのではないんです」
と語気を強く話しました。
「そういう話ではないんです」
と正坊は今度は、柔らかく話し始めました。
「お笑いになるかもしれませんが、聞いていただけますか」
と正坊が言うと支店長と担当者は静かになり正坊の言葉を待ちました。
「正直、今日まではこの土地を活用してマンションなりオフィスビルなりを建ててと考えていました。ご存じの通りこのお寺の経営状態もよくありませんし、ご先祖さまや檀家の皆さんには申し訳ありませんが、お墓も郊外のお寺に移転させていただいてと思っておりました。……、でも、それも止めにしようと思います」
正坊が、そう言うと支店長と担当は慌てたように、もったいないとか一生に一度のチャンスだとか、なんとか融資を取り付けようと一生懸命に説得にかかりました。それでも正坊の気持ちが変わることはありませんでした。
「お笑いになるかもしれませんが、……」
正坊が、改めて話し始めました。
「今朝のことです。読経をしているとどこかからか声が聞こえてきたので。その声のするところを探して見ると蟻がいまして……」
と正坊が見た蟻の行列の話を切り出しました。
「信心だけではご飯は食べれぬ、ありがたや、ありがたや……」
と聞こえてきた声に、正坊は初め確かに信心だけではご飯は食べられないと思いこの土地を売ってどこかよそに移るか、マンション経営に乗り出そうかということかと決心しかけたことを話しました。しかし、蟻達の「ありがたや、ありがたや」といいながら手を合わせる仕草を見るにつけ、どうやらそういうことではないのかと思うようになったことをはなしました。実際、お勤めの際に、本尊の仏様にこの苦しい生活がなんとかならないものかと一心に願っていたことも事実だが、仏様が蟻のああした姿を見せてくれたのはそういうことではないんだろうなという考えに至ったことを話しました。
「そう、托鉢なんです。最近、我々の世界でもビジネス的な生存競争のようなもので檀家を沢山抱えていなければ生きていけないような風潮になっています。所謂、職業坊主とでもいうものでしょう。しかし、もともとお坊さんというものは生産的な仕事をするのではなくて御仏に祈りを捧げ人々のお供えの払い下げをありがたくいただくようになっているのだということに改めて気づいたのです。経営と言ってしまうとわからなくなってしまいますが、お寺は人々の祈りと善意で維持されるべき存在です。誰も墓参の来られなくなって荒れてしまったのならいざ知らず、こうしてお墓に足を運んでご先祖様に手を合わせに来られる方々がおられる内はやはりお寺としてきちんとなすべきことをしなくてはと蟻の姿に思い知らされました。ですから、この話はなかったことにさせていただきます」
正坊が、そう言っても支店長と担当はなんとか融資を取り付けようとどれ位の利益が上がるとか、その利益でもっといい場所に転地してはどうかとか話をしましたが、正坊の決心が揺らぐことはありませんでした。
「迷いは煩悩からのことでした。熱心にお誘いいただけるのは本当にありがたいことですが、それは銀行さんのお仕事のことで、私には僧侶としての仕事があります」
と言って正坊は、丁重に銀行の誘いを断りました。
正直言って、正坊の心に後悔が全くなかったという訳ではありませんでした。マンションを建てるか土地を売ってしまえば、かなり生活ができていた筈ですから。それからも正坊の生活は楽ではありませんでしたが、蟻の姿を見てご近所を托鉢して回ることを始めました。お金こそ中々思うようには得られませんでしたが、毎日、毎日托鉢して回っていると初めは怪訝な顔をしていたご近所でも知られるようになり食べ物には困るようなことは次第に無くなって行きました。周りのお寺が無くなってゆく中、正坊の托鉢の話は蟻の托鉢としていつの間にか知られるようになり、蟻達が一生懸命働いて豊かになり、どんどん増えてゆくように家運隆盛にご利益があると噂になり正坊のお寺も栄えてゆくようになりました。
おわり。