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プロローグ

「人間」という存在を目にし、耳にし、この肉体で感じ、知る度──己は、彼奴等を根絶やしにするために生まれてきたのだということを、痛いほどに思い知らされる。

 この世界に生きとし生ける人類を、跡形もなく皆殺しにする。それこそが、己の魂の深奥にまで刷り込まれた使命であり、宿命なのだと。

 既に人間の諸国をいくつも滅ぼし尽くした男は、それを信じて疑うことなどなかった。


 男は、人間ではない。


 グリフォン。

 ()の異種族は、獣の王「獅子」の強靭な体躯と尾を持ち、鳥の王「鷲」の万里を見通す眼と剣の如き鉤爪、自由に空を翔る大翼を持って生まれると云う。

 男は今やこの世界でたった一人しか存在しない、人間たちが駆逐したはずであるグリフォンの最後の生き残りであった。

 グリフォンである男は、己の同族を絶滅まで追いやった人間という存在を魂で拒絶し、嫌悪し、何よりも憎悪している。人間への殺戮衝動無くして生きてはいけない男は無論、このラムヌス大陸における全ての人類の天敵とされ、「ラムヌス最悪の災禍」と恐れられており、こう呼ばれていた──「鷲獅子王(じゅじしおう)」と。


 ◇◇◇


 鷲獅子王(じゅじしおう)は、己の両手の鷲の鉤爪にこびりついた人肉と血を鋭く振り払って、鼻から細く息を吐き出す。

 微かに視線を下に向けると、地面には鷲獅子王を討伐せんと無謀にも挑んできた人間の兵たちが尽く肉塊と成り果て、血の海を造り出していた。鷲獅子王自身も、大量の返り血を浴びた血濡れの状態であったが、鷲獅子王はもう、血の色がどんな色だったかさえ永く思い出せないでいる。

「遍く人類を一匹残らず殺し尽くさなければならない」という衝動に駆られるようになった時から、鷲獅子王の目に映る世界は、黒か、白か、灰色。


 いつだったか、遥か遠い日。初めて大空へと飛び立った日には、視界いっぱいを染め上げる暁の(そら)の燃えるような色に「世界はなんて美しいんだ」と、柄にもなく胸を熱くした記憶もおぼろげにあるが、今やその記憶も無彩色に塗りつぶされてしまっていた。


「うわああああ! か、怪物だ、こんなもの……ラムヌスの終わりだあ!」

「い、いやだ、いやだ……あんな風に、死にたくねえ!」


 鷲獅子王を討伐しに来たのであろう人間の兵たちは、鷲獅子王が(ふる)った、たった一撃だけで深い恐怖と狂乱に呑み込まれ、みっともない悲鳴を上げながら逃げ惑っている。

 人間の悲鳴など、少しでも耳にするだけで吐き気を催すほどに、不快だ。さっさと、この地の人間共も皆殺しにしてしまおう。

 鷲獅子王は即座にそう思い至って、視線を肉塊と血の海で汚れた大地に縫い留めたまま、ゆっくりと歩を進める。


「全軍、撤退せよ」


 ふと、耳によく通る凛とした声が響いた。その声を合図に、大軍を率いてきた人間共が遠ざかる気配がする。


「そんな顔、しなくていいよ。私がもう、ここから先は誰一人として死なせはしない」


 おそらく、退いていく無数の人間共への声掛けだろう。また、あの声が柔らかに鼓膜を撫でた。人間の声だ──そう頭では理解しているはずだというのに、あの声にだけは何故か不快感を覚えないことに、無性の焦りが微かに胸を燻る。

 そんなことを考えているうちに、いつの間にか鷲獅子王は無意識にその場で立ち止まって、身体を固くしていた。


 妙な、気配だと思った。


 本能が「顔を上げるな。決して、()()を目にしてはならない」と、これでもかと警鐘を打ち鳴らしてくる。

 それでも、あの声と妙な気配の持ち主に、視線を向けずにはいられなかった。

 鷲獅子王はおもむろに顔を上げて、前方を真っ直ぐに凝視する。

 思わず鷲獅子王は大きく目を瞠って、知らず知らずのうちに呼吸までも止めていた。


 無彩色の世界に、一滴。

 暁の宙から染み出た鮮烈な雫が、滴り落ちたのかと思った。


 鷲獅子王はそこでようやく、永い間忘れ去ってしまっていたはずの色の一つ——燃える暁の宙の色「真紅」を思い出す。

 撤退していく人間兵の大軍を背に、こちらを静かに見据えてくるのはたった一人の少女であった。

 鷲獅子王は一目見ただけで、確信する。あの少女は己の知る「人間」などではないと。


 少女は、風によって軽やかに靡く左側頭部を編み込んだ長い髪も、こちらを見つめてくる凪いだ瞳の色も、暁の宙と同じ真紅の色をしている。あの少女が纏う真紅だけは、この色の無い世界で唯一鮮烈な「色」だと認識できた。

 成熟しきった人間の兵たちであっても、鷲獅子王を前に恐れおののいて正気すら保っていられなかったというのに、あの真紅の少女のひどく大人びた顔は、穏やかともいえるほどに落ち着いている。

 真紅の少女の瞳と、目が合った。少女が、口を開く。


「私はメリア王国第一王女、及び征禍(せいか)大将軍(だいしょうぐん)——アルヴィア・シンドラ・メリア」


 少女——アルヴィアが深く腰を落とし、長大な戦鎚(せんつい)を構える。アルヴィアが手にしている、少女のか細い体躯には不釣り合いな戦鎚からは、この胸を搔きむしり、堪え切らずに叫びだしたくなるような。そんな、途轍もなく懐かしく感じる音が確かに聞こえた。


「きみを、殺す」


 アルヴィアがそう宣告したかと思えば、目にも留まらぬ疾さでいつの間にか眼前へと迫って来ていた。

 鷲獅子王は忘れていた呼吸を瞬時に取り戻し、短く息を吸いながら脊髄反射の勢いでアルヴィアへと風をも上回る疾さを以て襲い掛かる。瞬間的に力強く踏みしめた大地が、バキリと音を立てて大きく割れた。

 一切の躊躇もなく、真っ先に鷲獅子王は己の鷲の鉤爪で刺突を繰り出し、アルヴィアの心臓を一突きで貫こうとした。

 しかし、アルヴィアは己の薄い胸の肉が抉られるのにも構わず、暁の眼光をきらめかせて、鷲獅子王の脳天へと渾身の力を込めた戦鎚を振り下ろしてくる。


 取り憑かれたように鷲獅子王を片時も目を離さず見つめてくるアルヴィアは、何よりも無邪気な、されど己の翼の羽根が総じて逆立ってしまうほどに恐ろしく、ひどく美しい微笑みを湛えていた。

 アルヴィアの微笑みを前にした鷲獅子王は、アルヴィアの胸の肉に埋まった己の片手を素早く引き抜き、眼前に迫る戦鎚を軽々と躱す。

 鷲獅子王はこの刹那、無意識に唇を吊り上げて小さく笑っていた。



 今思えば、あの瞬間から既に。

 心臓を貫かれていたのは、己の方だったのかもしれない。



 こうして、東方ラムヌスに位置するメリア王国北西部ハールバルズ辺境伯領「迅雷の台地」にて、メリア王国第一王女アルヴィアとラムヌス大陸最悪の災禍である鷲獅子王の、地形をも変化させてしまうほどの激しい死闘は、十年に(わた)って続いた。

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