頂点に立ったものたち
「―――――あれ、テーピングどこに入れたっけ?」
いつもの救急箱に入っていたテーピングが底を突きそうなので、新品のものを入れたはずなのだが、それがどうにも見当たらない。
「昨日、確かにここに入れたはずなんだけどなぁ」
今日はインターハイに繋がる地方大会の予選だ。そんなに人数はいないが、今あるテーピングだけでは足りないはずだ。
「う~ん・・・・・・」
学校から持ってきたありとあらゆる持ち物の中を探し回るが、どこにも無い。
「はぁ、どうしよ・・・・・・」
と、溜息をつき途方に暮れていた時だった。
「何やってんだ柊?」
藤井君がまだ新しいテーピングを片手にやってきたのだった。
「あ・・・・・・」
「ん、どうした?」
「あんたが犯人かいっ!」
「ふべっ!」
華麗なるボディブロウが見事にヒットした。
「な、なんだよ、いきなり!?」
「もぅ、救急箱の中身を使う時はマネージャーに言ってよね」
「い、以後気をつけます」
「うむ、反省しているのならよろしぃ」
数の管理をきちんとしていないと後々で足りなくなったり、新しく買いに行かなければいけない。そういうことがあると困るから、部の備品はマネージャーに任せてほしいのだ。
「そういえば、もうすぐ女子のリレーが始まるけど、行かなくていいのか?」
「あ、うん。リレーは一年生に任せてあるから大丈夫」
マネージャーの仕事は記録を録る事と、選手のみんなのケアをすること。記録を録るだけなら一年生に任せても大丈夫、ということで私はベンチで救急箱を漁っていたのである。
「藤井君こそ、もうすぐアップに行かないといけないんじゃない?」
「ああ、だからコイツを返しに来たんだ」
と言って、藤井君はテーピングを私に渡した。
「藤井君、どこか痛めてるの?」
「いや、俺じゃなくて先生が」
「先生?」
ふと河野先生の方を見ると、先生の腕にテーピングがグルグルと巻かれていた。
「久しぶりに格ゲーやったら筋肉痛になったらしい」
「・・・・・・」
言葉も出ない。あの人は一体何をしているのだ。
「あの人らしいと言えばそうなんだけどな」
藤井君は呆れ顔で言った。
確かにそうだが、もう少し教師としての自覚を持ってほしいのである。と、生徒から思われる教師は如何なものなのだろう。
「それじゃ、行って来るよ」
「あ、うん、頑張ってね」
救急箱を片手に、藤井君に手を振って見送った。
その後、予選、準決勝とプログラムは順調に進んで行き、気付けば夕刻になった。
大会のステージが上がるにつれて、皆の実力は拮抗してくる。0.01秒に泣く者もいれば、笑うものもいる。そういうものなのだ、この大会は。私たちも、終わってみれば決勝に残ったのは藤井君、佐藤キャプテン、彩夏、女子リレーの4種目だけである。例年に比べれば遥かに少ない。
「ま、妥当なところだな」
いつの間にか隣に座っていた河野先生は呟いた。
「先生は他の人が残れないと?」
「いや、私だって一応教師だ。一人でも多くの生徒が勝ち残ってほしいと思うさ。だが、陸上競技というものは実力のある人間しか勝ち残れない。運よく勝ち残ったとしても、本当の強さを持った人間には適わないさ」
先生の言ったことは紛れも無い事実。勝つ人は勝つ、負ける人は負ける。陸上競技に運が左右することは殆ど無い。
「でも、やっぱり残ってほしかったです。例えそれが運でも」
「私も学校の教師、陸上競技部の顧問という立場ならそう思う。だが、元陸上選手として見るなら、私は強さを求めてほしいと思う。運が悪かったと諦めるか、実力が足りなかったと頑張るか、それは自由だ。でも、負けがそこで終わりじゃない。負けから始められるものなのだということを知ってほしいんだ。―――――まぁ、所詮は奇麗事だがな」
先生は最後に嘲笑したが、本心はどうなのかわからない。
それにしても、こんなにも自分を語る先生は初めて見たかもしれない。普段から自分のことは、特に陸上に関しては一切口にしない人なのに。
「さて、そろそろウチのエースの出番じゃないか?」
時計を見ると、藤井君の出る400mの決勝があと少しで始まろうとしていた。
徐々に静まる場内。選手の皆がスターティングブロックを合わせている。
「特訓の成果がどう出るか、だな」
そう、藤井君はあれからずっと、ひたすらに自転車を漕ぎ続けていた。特訓を始めてからは、走った時間よりも自転車に乗っていた時間の方が長かった。
「400mは短距離の中で一番長い距離だからな、中距離に近いといっても過言ではない。純粋な短距離選手が走りきるには長すぎる距離だ。藤井には元々それだけの力があったが、それを一押しすることでどこまでいけるか」
先生はどこか試すような口調だった。
「いけると思いますか?」
「いけないと思うか?」
愚問であった。彼の力は、努力は隣で見ていた私がよく知っている。
「さて、始まるぞ」
選手全員がスタート位置につき、その時を静かに待っている。藤井君は内側の3レーン。ライバルの伊熊先輩は8レーンだ。彼の性格からして、この位置は良い場所だ。前に選手がいるほど食らい付いていく。
『それでは行います―――――位置に着いて』
スターターの声と同時に競技場内が静まり返る。しん、と。場内にいる人皆が息を止める。
『よーい』
快音が鳴り響く。静寂から喧噪へ。歓声が沸く。
「ふむ、良い出だしだ」
スタートから100m。タイミングもバッチリ合っていた。カーブも上手くまわっている。
コーナーから直線へ。スピードにも乗れている。だが・・・・・・
「速すぎる・・・・・・」
内側のレーンを走っているのに、すでに外側の選手を3人も捕らえていた。これが地区予選なら有り得ただろう。しかし、これは地方大会の、しかも決勝である。全ての選手が県の代表で、さらにその中でもトップの人たちだ。それをここまで引き離すなんて。
勢いは止まらない。まるで、一人だけ違う競技をしているようだ。
「そんな、21秒89―――――!」
三つ目のカーブ。400mの折り返し地点。計ったストップウォッチには信じられない数字が。
「これじゃまるで・・・・・・」
「200mだな。専門にしている奴でも、これだけのタイムで走れる奴は、県でもそういないぞ」
信じられないスピードだ。有り得ない。彼は本当に400m走をしているのか?
「ここからが勝負だな。ここで出し切らなければ、これまでの走りが無意味になる」
最後のコーナー。選手にとって一番苦しいところ。尋常ではありえないスピードで駆け抜けた彼だが、未だにその速さは落ちない。すでに伊熊先輩をも追い越している。
しかし、最後のメインストレートの直線、100mはどう考えても無理だ。このままのスピードでいける筈が無い。
人間の限界。これ以上は不可能な領域に彼は立ち入ろうとしている。世界のトップ選手でも減速せざるを得ない。だからこそ、ここまでに僅かでも力を溜める必要がある。その僅かな力が減速を少なくするというのに、彼はそんなことも考えずに全力を出し切っていた。
「ここからはもう意地の張り合いだ。苦しさに負けるか、勝利へ執着するか。まぁ、あいつならやってくれるだろう」
そして、それは先生の言う通りになった。引き離した後続は追いつくことができず、結局は藤井君の一人勝ちになった。彼の意地が勝ったのか。いや、違う。確かに彼の執念は人一倍ある。でもそれだけじゃない。彼の実力、地力がそれに見合うだけのものだった。
「うそ、このタイムって・・・・・・」
タイマーに表示されたタイム。
自分の見間違いかと、プログラムに記載された今期全国ランキングを見た。だがしかし、それは見間違いではなかった。
「信じられないか? だが、これが今のあいつの実力だ」
全国ランキング一位。それが示すはつまりインターハイ優勝に一番近い、ということだ。
「特訓の甲斐があったな。まさか、ここまでやってくれるとは思わなかったが」
先生は少し笑いながら言った。
「あの、ちょっと聞きたいんですけど、藤井君が最初からあんなにとばしてたのって・・・・・・」
「ああ、あれは私の指示だ。あいつ自身の実力を、あいつ自身に分からせるためにやったんだが、少し薬が効きすぎたか?」
先生は更に笑った。
ホント、この人は何なんだ。
「結果は上々、文句なしの出来だ。しかし、これでは終わらないぞ。このランキングも、県予選時のものだし、全国に上がるころには皆さらに強くなっている。本当に一位を目指したいのなら、更に上を目指さなければならない」
その言葉は私ではなく彼に向けているようだった。
そして、言葉の意味も真実だ。このプログラムに載っているランキングは、春先のまだ仕上がっていない状態でのものだ。今この時もランキングは入れ替わっているはずだ。事実、昨年のインターハイもランキング通りにはならなかったし、タイムも大幅に更新されていた。
「でも、藤井君なら、やってくれそうですね。根拠は無いんですけど」
「確かに、私もそんな気がするよ。同じく、根拠は無いがな」
場内は未だに沸いている。新しく記録を塗り替えた彼を祝福するように。
「さて、次は100mか。一つの競技が終わったと思ったらこれか。まったく少しは休ませてほしいものだな。これでは、観客も困るだろうに」
気にするところはそこなんだ。
「順当にいけば優勝は木嶋だ。佐藤も彩夏も問題は無いな。が、しかしだ。柊、お前には酷な質問かもしれんが、妹は勝てると思うか?」
と、出し抜けに先生は聞いた。
しかし、その答えは簡単だった。
「・・・・・・無理ですね」
「ほう、案外そっけないものなのだな」
「聞いたのは先生じゃないですか」
「まぁ、そうななのだがな。―――――彩夏はある種の才能を持っている。故に、今のあいつでは勝つことができないと明確に分かる」
先生が何を言わんとしているかはすぐに理解できた。いや、最初から分かっていた。
あの子は先生の言うことを、皆が言うことを、全て吸収した。まるでスポンジのように。瞬く間にあの子は速くなった。頭の中で理解しているのか、それとも身体で覚えているのか、それはわからないが、自分に合った走り方をすぐに身に付けた。
まさに理に適っている。今のあの子は自身の中で最速だ。それ故に、今以上になり得ることはできない。
「今の彩夏には何も教えることはできない。あいつは全てを持っている。これ以上にはなれない。現時点で持つ彩夏の記録を、あいつ自身で塗り替えることはできない。だから、あいつ以上の記録を持つ木嶋には勝てない」
あの子の実力が今の時点で最高であるなら、それ以上の木嶋先輩に勝つことは不可能である。勝ちの無い勝負。あるのは負けだけ。
「生まれた時期の差、か。学生時代の成長期では一年の差が大きくなる。あと一年早く生まれていればわからなかっただろうな」
あと一年早く生まれていれば。そう、たったそれだけの差だ。たったそれだけで、あの子の負けが決まってしまう。
「あいつ自身も気付いてはいるだろうが、あの性格だ、最後まで走りきるだろう。何せ、お前の妹だからな」
意味ありげに先生は言ったが、その真意はわからなかった。
「さて、今回はどこまでいけるかな、佐藤は」
レースの始まる直前。400mの緊張が解けたのも束の間、すぐにその時はやってきた。女子100m決勝。選手たちを、佐藤先輩を見る先生の目はいつになく真剣だった。
勝負は一瞬。
号砲が鳴り、選手が飛び出し、一気に駆け抜け、勝負が決まる。
時間にすると十秒ほどの出来事。この僅かな時間で、アクセルを踏み、ギアを入れ替え、徐々にそして一瞬で加速する。
スタートの沈黙が嘘のようにゴールでは歓声が沸く。たった十秒で。
腕を天に突き上げたのは女王だった。
圧倒的。誰も近寄せない絶対強者。立ち向かうものは全て置き去りにする。
「当然の結果、揺るがない勝利だな」
場内の誰もが予想した出来事。女王の勝利は確定事項だった。
「―――――なぁ柊、あの木嶋を頂点から引き摺り下ろすことができるのは誰だと思う。いや、存在すると思うか?」
「・・・・・・わかりません」
「だろうな、私にもわからない。だが、可能性がある奴には心当たりがある」
先生は目を細め遠くを見た。その目には何が映っているのか。
「お前はどう見る。唯一、女王を下した目から見て」
「―――――!」
心臓が身体から飛び出そうなほど跳ね上がった。
「なにをそんなに不思議がる。まさか、知られていないとでも思ったか? そんなはずはないだろう。当時、陸上をやっていた人間なら誰もが耳にした名前だ。知らないはずがないだろう」
「そ、そうなんですか?」
そんなことには全く興味がなかったので、自分の名前が世に知られてるなんて夢にも思わなかった。
「当時、天才と呼ばれた中学生をいとも簡単に打ち破ったんだ、誰もが驚いたさ。―――――まぁ、今はその話は置いておこうか」
先生は向き直り、いつになく真剣な面持ちで聞いてきた。
「聞かせてくれないか、お前の意見を。唯一、あいつの前を走った者として、お前は何を見る」
私の意見。それは確かなものではない。知識とかそんなものは先生の方が詳しい筈だ。それなのに、私の言葉を求めようとしている。理論とかそういったものではなく感覚的なもの。
「・・・・・・彼女と同じ舞台に立てる人は幾らかいます。でもそれだけ。同じ場所に立っただけで、勝つことはできない。彼女を追うことはできても追い抜くことはできない」
「まさに、今のレースの状況だな」
「はい。そして、もしもあの人を追い抜くことができる可能性を持った人がいるなら、それは・・・・・・」
そこまで言って私は口を閉じた。
確証の持てることではない。何故、どうして、理由なんて存在しない。
「それでも構わないさ。お前の感じたことを聞きたいんだ」
先生の言葉に頷き返し、私は言葉を続けた。
「―――――自力と実力、この二つは間違いなく全国レベルです。でも全国大会に行けばどこにでもいるようなレベル。そして、勝利に貪欲で走ることに全力を尽くしている。そう、例えるなら藤井君のような」
二人はとても似ている。彼が少しのきっかけでこれほどまでに変われたのなら、あの人もその域に達するかもしれない。
「でも、それでも、木嶋疾風には届かない」
「ならば、柊は誰もあいつには適わないと?」
しかし、その問いに首を横に振った。
「わかりません、私にもはっきりとは見えませんから。あの人の何かが足を止めていて、もしそれを外すことができたのなら・・・・・・」
それでも確実ではない。
それで木嶋疾風に追いつくのか。追い抜けるのか。不確実な私の感覚。
「それでいいさ、確実なものなんてこの世にはないんだ。不確かだろうと何だろうと、そこに可能性があるのならばやればいいだけのことだ。昔からよく言うだろ? やらずに後悔するよりやって後悔しろって」
「でも、それだとどの道後悔するんじゃ」
「そこを突っ込むなよ! それに、後悔してもいいんだよ。あの時ああしていれば、もっとこうしていれば、あの選択は間違っていたかもしれない、そう思うことは大事なんだよ。後悔することはダメだってよく聞くが、後悔することがダメなんじゃない。自分のしたことを否定するのがダメなんだ。人間誰しも間違う。だからより良くしようと前へ進める。悩んで悔やんで、そして前を見る。実に人間らしい生き方だと思わないか?」
なぜか言葉が出なかった。「後悔」という言葉が自分の中のどこかに引っ掛かっている。あれからずっと。ただ自分の中にある確かな気持ちがここに私を繋ぎとめている。だから後悔があっても/あるかどうかもわからない/ここにいる。
わからない。
わかるはずもない。
答えのない道なのだから。
「どうした?」
「い、いえ、なんでも」
ふとしたときに考えてしまう。悪い癖だ。いつまで経っても答えは無く、それを知っているのに答えを求めてしまう。
「そうか―――――まぁすこし話が逸れてしまったがやることは決まったな」
「また特訓ですか?」
「まさか! あいつに特訓なんかさせたら、身体がつぶれて使い物にならなくなるぞ」
確かに先生の言う通りだった。
「この話は学校に帰ってからだな。今は学校を背負って戦ったあいつらを労ってやろう」
勝負が終われば勝ち負けは関係ない。みんな学校のために頑張ってくれたのだ。どんなに嬉しくても、どんなに悔しくても、勝負は決まりそれはやってくる。
だから私は、何があっても必ずいつも通り迎える。
「みんなお疲れ様!」
戦いから帰ってきた選手を、私はいつもの笑顔で迎え入れた。