表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

縁は異なもの味なもの

作者: 田中浩一


1


二つ年下の妹のところの三歳の子が、肺炎にかかって、鹿児島市谷山の病院に入院して、三日。そろそろ、自宅の事や自分自身もお風呂を浴びたいわ、との連絡を受けて、姉の寺園幸子(てらぞのさちこ)は、日曜日の朝八時に、小学四年生の娘、心春(こはる)と車に乗り込んだ。

なぜ、これほど朝早いかと言えば、酒乱の旦那が起きてこないうちに、出掛けたかったからだ。殴られない日はないというくらい酷い旦那だった。

幸子は、夕べも足蹴にされた左内腿を擦りながら、アクセルを踏む。

後部座席右には、心春が座っていた。

軽自動車の箱バンで、後部にエンジンが載っているタイプで荷室は広いが、後部座席はビニール製で背もたれが短く直角で、快適さはない。

それでも、心春はこの車が好きだった。小さな後部座席を畳むと、広い荷室に布団を敷いて、寝転がれる。よく酒乱の父が暴れだすと母、幸子と二人してこの車で逃げ出し、近くの公園の駐車場で、一晩明かしたものだった。

その時、必ず幸子が唄う歌が、心春は好きだった。

「幸せを数えたら片手にさえ余る。不幸せ数えたら両手でも足りない・・・」

ばんばひろふみの「SACHIKO」だった。

幸子は、心春を思い、車中泊を不憫に思っていたけれど、心春は子供のバイタリティーで、楽しんでいた。

今も、荷室には、布団一式が置いてある。

クーラーとラジオが付いていて、前と後ろにちゃんと走りさえすれば、車としての不自由さは感じなかった。豪華さは、必要なかった。

小さな一戸建てを買い、酒乱の旦那は大型バイクを二台も購入。屋根だけの車庫には、その二台が停まっていて、軽バンは雨ざらしだった。

介護士として、近くの病院で働く幸子の給料と、たまに思い出したように、日雇いの仕事で貰う、旦那の日当ではとてもやっていけず、幸子の実家に、よく食事に帰っていた。旦那の分は、タッパに貰って帰っていた。

お金の工面もしていた。車で二十分と掛からない距離なのも助かった。実家の方では、そうは思ってなかったかもしれないけれど。


国道10号線を、鹿児島市方面に走る。やがて、左側に鹿児島湾が見えてくる。四月の朝の弱い陽に、キラキラと水面が煌めく。その向こうに、桜島。

片側二車線に入ると、養魚場のイカダが無数に見えてくる。右側は、切り立った山々が連なっている。

幸子も心春も、春の清々しい好天のもと、笑顔だった。

新年度、なん組になるのか、友達の誰々と一緒になるのか、先生は誰になるんだろう。話しは、尽きなかった。

ラジオでは、10分間の県内ニュースが、昨日起こった、鹿児島市コンビニエンスストア天保山(てんぽうざん)中学校前店のコンビニ強盗のことを放送していた。

それによると、犯人は中肉中背、身長は170センチほどで、黒のジャージ上下に、短髪。押し入ったときは、サングラスに、白いタオルで顔を隠していた。と言う。

「なにを盗ったんだろ?」

心春が、後ろから身を乗り出して、幸子に訊ねる。すると、ラジオから、

「犯人は、タバコを二個奪い逃走。今なお、捕まっておりません」とタイミングよく喋ってくれた。

「昨日のテレビで見たけど、ニコチン0.1㎎のタバコだったよ。健康に気を遣う強盗なのかな」

幸子は、そういうと笑った。心春も、

「普通、現金だよね」と相づちを打つ。


右に、仙巌園(せんがんえん)が見えてきた。つい先頃も、薩摩のお殿様、島津家伝来の雛人形が飾られ、春祭りを開催していたところだ。

鹿児島市内から、市外向けの車の検問が行われていた。朝が早いからか、渋滞は起こっていなかった。

幸子たちの車は、そのまま市内に入った。


鹿児島市に入って、左に桜島フェリーの発着場が見えてきた。少し、行ったその先のコンビニに入る。

先日、幸子の給料が出た。

いつもなら、飲み物は水筒にお茶を持参。おにぎりなどの食べ物も、自宅から握ってくるか、夕方のスーパーの安売りで買った惣菜をひとつだけ持参しての、短いドライブだった。

長く留守にすると、パチンコに負けて早々に帰って来た極悪旦那に、暴力を振るわれるからだ。

給料日の最初の日曜日だけは、コンビニで買い物ができた。とはいえ、幸子はコンビニの煎れたてコーヒ一杯だし、心春はツナマヨのおにぎり一個だった。

二人の好きなものは、変わらなかった。いつもそれだった。


車に戻る。幸子が、重くなった運転席側の後ろのスライドドアを、心春のために開けてやる。

心春は 乗り込むとしばらくは両手に、ツナマヨのおにぎりを載せて、眺めていた。ひと月一度の、贅沢だった。

「ひゃっ!」

幸子が、コーヒーの小さな飲み口を開けて、一口飲もうかとしていたところに、後ろから悲鳴があがった。

何事かと、ルームミラーで後ろを見やると、後部座席のその後ろの荷室から、心春のこめかみに拳銃を押し当てた見知らぬ男がいた。

心春も驚いていたが、ツナマヨのおにぎりは落とさなかった。

ちょっとの間の、車の施錠忘れ。特に、朝早くの空いた駐車場での、一瞬の気の緩みだった。

その男は、低い後部座席の背もたれを、跨いで椅子に腰かけると、

「車を出せ」と作ったような、低い声で言った。

幸子は、言われるままに、発進した。


2


「おじさん、昨日のコンビニ強盗でしょ?」

車が、片側三車線の産業道路に入った頃に、寺園心春(てらぞのこはる)は、突然車に乗ってきた男に、訊ねた。

母、寺園幸子(てらぞのさちこ)が、チラチラとルームミラーで伺うも、男は黙っていた。

「だって、昨日のまんまの服装だもん。黒のジャージ上下に、サングラスに。白いタオルはないけど」

男のだんまりよりも、幸子は心春の言動が気になっていた。

最近、 酒乱で暴力を振るう極悪旦那に、言葉遣いが似てきたからだ。

学校で、心春が友達と喧嘩になったと呼び出しがあったことがある。その時の友達の言うことには、

「寺園さん、ヤクザみたいだった」と。


一度、心春が酔っ払った旦那に、

「昼間っから、恥ずかしくないのっ。酔っ払い!」と言い放ったことがある。旦那は心春には手を上げない。その日も、幸子が代わりに殴られた。

それを見て、心春も余計なことを言わなくなった。自分のせいで母が殴られるのは、忍びないと思ったのだろう。

心春は父が心底嫌いだけれど、ひとつ屋根の下、暮らしていれば似てしまうのかもしれない。幸子は、そう思っていた。


幸子は、コンビニ強盗が何処へ行けとも言わないので、そのまま妹の子供が入院している、谷山にある病院に向かって走っていた。

そして、このまま行けば、先程のラジオで言っていた、警察の検問所のひとつに出くわすはずだった。

鹿児島市内から、市外へ通ずる主要道路を封鎖して、犯人を市内に閉じ込めようとする、警察の作戦なのだろう。

右に、ラウンドワンが見えてきたとき、突然、後ろの男が喋った。

指宿(いぶすき)に行ってくれ」

なるほど、道はこのまま指宿に通じている。だから、黙ってたのか。幸子は合点した。

「ダメだよ、おじさん。あたしたち今から、あかりちゃんのお見舞いに病院に行くんだよ」

あかりとは、幸子の妹の子供の名前。

「心春、黙って。指宿のどこまで?」

幸子も小学六年まで、指宿に住んでいた。もし、後ろの男がそこに住んでるのであれば、年格好からして、知っているかもしれないと思った。

「指宿に入ったら、また細かく言う」

男の言葉は短い。喋るのが億劫そうだ。

落ち着いてきたからか、男が脇腹を押さえるしぐさをよくしているのに、気づいた。

「何で、コンビニ強盗何てしたの?何で、お金じゃなくて、タバコなの?好きなの、タバコ。体に良くないんだよ」

心春が、喋りだした。ラジオも切られて、静かな室内で退屈してきたのかもしれない。が、幸子は、気が気ではなかった。

「色々あるのよ。大人なんだし」

幸子は、コンビニ強盗とおぼしき男の擁護に回る。

怒らせないためだ。そこら辺は、極悪旦那で勉強が要っている。

「でも、お金を払わずに物を盗っちゃいけないんだよね。それとも、おじさんの通った学校では、理由があれば強盗オーケーなの?前にね、あたしの父が『俺と心春じゃ、通った学校が違うから、考え方も違うんだ』って、言ってたの」

あの事件の時の事だ。幸子は思いだした。

昔は、大人は仕事がない日は、朝からお酒を呑んでもいいのだという、極悪旦那の詭弁だった。

学校が違えど、そんなことを教える学校はないだろう。

「お前、よく喋るな」

男が、苦笑いのように口元を歪めながら、心春に言った。言葉の強さから、怒っては無さそうだ。

突っ慳貪(つっけんどん)な、事を言っても不思議と心春は怒られない。また、相手を怒らせない。

それは、言葉の柔らかさから来るのか、声質からくるのか。得な子なのかもと、幸子は考えていた。

「怖くないのか?」

絞り出すような声。脇腹を掴むようにする男はやはり、具合が悪そうだ。それには、気づかずに心春は、

「うん。だって、あたしの父より優しそうだし、その拳銃だって、先が詰まったオモチャだし」と、そう言った。

コンビニ強盗と幸子は、同時に、えっ!と叫んでしまった。

「なんだ、気付かれたか」

コンビニ強盗は、苦笑いでモデルガンをジャージの上着のポケットにしまう。三分の一は飛び出していた。

「お父さん、恐いのか?」

「うん。お母さんに暴力を振るうの。あたしは殴られないけど。働いてないし、お酒ばかり飲んでるし。大っ嫌いっ」

心春の言葉に、

「そうなのか、お母さんも大変ですね」とコンビニ強盗の気遣い。

「そう言えば、頬に痣が。それも殴られたときのもの?」

コンビニ強盗の指摘に、思わず左頬を隠す幸子。ファンデーションでは隠せないのか、少し照れた。

「僕のうちは、母親が恐くて。恐いと言うか、ぶっちゃけ、変態趣味と言うか、変態夫婦なんだ」

コンビニ強盗は、話し出した。

何でも、コンビニ強盗の母は、痩せこけた父の二倍のふくよかな体をしていると言う。

そして、その体を締め付けるように、レザーコルセットのスカート一体型SMボンテージ編み上げドレス、ゴールド金具付きで身を固めるそうだ。

ミニスカートから出た脚は、黒い網タイツをはき、それはまるでボンレスハムのようだと言う。

母がSなら、父はM。壁に張り付けられ、鞭で叩かれ、ろうそくを垂らされては、恍惚の表情で果ててしまうらしい。

「ある日、いつもと同じではつまらないと感じた母が、壁に張り付けた父に、登山ナイフで切りつけたんです。そしたら、お互いに凄く興奮したらしくて、思わずズブッと」

「ズブッと?」

幸子と心春が目を丸くして同時に、訊いた。

「脇腹を、刺しちゃったんです」

どうやら、癖になるものらしい。

その後も二回、殺傷事件があって、その度に警察沙汰になったそうだ。

その話に、幸子は聞き覚えがあった。当時は子供だから、詳しくは聞かされなかったけれど、よく警察が来ていた家があり、また親からは、そこの家族には近づくなと言われていたのを思い出した。

窪園信太郎(くぼぞのしんたろう)君?」

幸子は、訊かずにはいられなかった。

「えっ」

コンビニ強盗は、少したじろいだ。

当たりのようだと幸子は確信した。さらに、

「あたしよ、幸子。山下幸子」

山下は、旧姓です。

「マジっ」

コンビニ強盗は、サングラスを外して前のめりになる。

その時、目の前に赤く光る誘導灯を振る警察官が見えた。

検問だった。


3 


七ツ島プール場を右に見て、しばらく走ると、急速に道路の車線が減っていく。

片側一車線になるその手前で、警察が検問所を設置していた。

長い渋滞ができている。

「検問か・・・」

脇腹を押さえ、すでに額からも玉の汗が吹き出ている。

コンビニ強盗、窪園信太郎(くぼぞのしんたろう)は明らかに何らかの疾病をその腹部に、抱えていた。

検問にかかるまで、あと五台ほどになったとき、寺園幸子(てらぞのさちこ)は車を左の脇道へと走らせた。そのまま行くと、工場の材木置き場があり、谷山港の突堤に出る。

何台か、釣り人が車を止めているが、堤防の幅は車がすれ違えるほどには広かった。

窪園信太郎は、その釣り人たちにも顔を見られたくないのか、俯き加減に車内中央を見つめていた。

悪いことをすると、知らない人にも顔向けできない、後ろめたさが出るものなのだ。

釣り人らの車が遠ざかった所に、幸子は車を停めた。エンジンも切る。振り返ると、しばらくは無言で汗を滴らせる窪園を見つめていた。

窪園も、なぜだか目が離せずに、二人は見つめ合う形になった。

そこで、

「ご・ほ・んっ!」

一音一句、滑舌のいい咳払いを寺園心春(てらぞのこはる)が発した。

「あのさ、あたしも居るんですけど。なんなら、出てましょうか?釣りをしてるおじさん達と仲良くなって、今夜のおかずに、二三びき貰ってきてもいいわよ」

その大人びた台詞に、窪園も幸子も吹き出した。それが、引き金になったようだ。

「信ちゃんは、覚えてる?あたしが、引っ越した時のこと」

おもむろに、幸子が話し出す。

「うん、覚えてる。さっちゃんがJR指宿枕崎(いぶすきまくらざき)線のディーゼル車に乗って走ってくのを僕が自転車で、国道226を追いかけたんだ」

しっかり覚えてることを、印象付けたいのか説明が、微に入り細にいっていた。

「あたしをスルーした」

心春は、膨れっ面をしながらも、後ろの荷台に移動する。半分、布団を広げて毛布だけ被る。車内を横向きで寝て、身長はギリギリだった。

喜入(きいれ)まで追っかけたんだ。チェーンが外れなきゃ、そのまま市内まで行っていた」

「何で、そこまで?」

「そりゃ、その・・・」

照れで言葉に詰まったのか、腹痛からか、わからなかったが、窪園は大きな左手で、顔の汗を拭った。

「僕が家庭のことで、ひとりぼっちで川原で泣いていたとき、さっちゃんが歌ってくれたよね」

その言葉に、幸子は深く頷く。そして、ふたり同時に、そのフレーズを歌い出す。

「笑い方も忘れたときは、思い出すまでそばにいるよ」

「ばんばひろふみの、さちこね」

心春は、それ知ってるわと得意顔だ。

「あたしも、好きだったのよ」

突然の、幸子の告白に荷台の心春も、目と口をパックリと開いた。

「お母さん、あたし『も』って」

まるで、あなたもあたしを好きだったんでしょ、と確定しているみたいだ。心春は内心そう思った。

「さっちゃん」「信ちゃん」呼び合う二人。

「あ~ぁ」

心春は、呆れて寝返りを打つ。

「勝手にしてよ」


寺園幸子は、窪園信太郎に交換条件を持ちかけた。

このまま、窪園信太郎が警察に捕まれば、コンビニ強盗と、いたいけな親子の車のハイジャックまでの罪になる。そこで、あたしたちが黙ってれば、コンビニ強盗ですむ。

今までの判例だと、懲役二年、執行猶予五年、て所だろう。牢屋に入らずに済むのだ。

「そこで、あたしからのお願いなんだけど」

幸子が、伏し目がちになりながら、座席の上に正座した。

「信ちゃんにって言うか、お母さんに、なんだけど」


4


寺園兼人(てらぞのかねと)が、目を覚ますと、妻の幸子も娘の心春(こはる)も、すでに仕事と学校に行っていて、静かな部屋に一人きりだった。

いい夢を見ていた気がする。でも夢は直ぐに忘れてしまうものだ。

丸い壁掛け時計は、11時を差していて、さて朝飯にしようか、昼飯にしようかと悩んでいた。

とりあえず、起きてみるかと半身を起こしたとき、玄関のチャイムが鳴った。

上下紺色に、横に二本の白線が入ったジャージのまま、尻を掻きながら玄関に応対に出る。

チェーンはかけてなかった。不用意だったと思っても後の祭りだった。

玄関のドアを開けてすぐに、ハンカチで口を押さえられた。と途端に、またさっきまでの夢の中に、落ちていった。


「さぁ、お前はこれから、私の奴隷になるのよっ!」

言葉のあとに、激しい火花が散るような、床を叩く鞭の音が、地下室に響き渡った。

指宿(いぶすき)市の、表向きは普通のスナック。しかし、その地下には、会員制の秘密クラブが、毎週土曜日開催されていた。

とはいえ、ほとんどお客はいなくて、スナックのママの趣味でしかなかったけれど。

ボンテージファッションに、身を包んだ窪園信太郎(くぼぞのしんたろう)の母は、寺園兼人を調教するように申しつかっていた。

彼女からすれば、そろそろ自分の旦那にも飽きがきていて、寺園兼人は丁度いい、獲物だったわけだ。

「私に任せときな。りっぱな、Mに仕立てあげるよっ」

母は息子に、電話口で高笑いした。


あの日。窪園信太郎と密約を交わした、寺園幸子(てらぞのさちこ)は、車を指宿(いぶすき)ではなく、谷山の妹の子供が入院している病院に走らせた。

総合病院なので、おそらく盲腸炎だと思われる窪園信太郎を診てもらえるはずで、その後、警察が来ることになるだろう。

警察も、鬼ではないから、手術後直ぐの窪園信太郎を連行はしないだろう。

もちろん、寺園幸子、心春(こはる)親子は赤の他人を装うのは、言わずもがなだった。

予想通り、初犯と言うことと、再犯のおそれも、逃亡のおそれもないと言うことで、五年の執行猶予がついた。

幸子と窪園の二人は会うことはなかったが、メールでやり取りを続けていた。途中からは、窪園の母もメル友になり、

「そろそろ、あんたの旦那もいい具合に仕上がってきたから見に来なよ。無料で叩かせてあげるよ。なんたって、元々はあんたの持ち物だしねぇ!」

ギャハハハっ!と突き抜けたメールを毎回、送ってくれていた。

「娘が、成人したら、一緒に伺います。そのときは、よろしくお願いします」

そう、慎ましやかに返信した。


五年がたつ頃。寺園幸子と心春は、姶良市役所加治木支所にいた。離婚手続きに来ていた。

夫婦の片方が五年、行方知れずになった場合、片方の意志だけでも離婚ができるのだった。

「あー、晴れてあたしたち、母子家庭になったね」

伸びをしてその両手を下ろしながら、隣を歩く高校生になったばかりの心春に、抱きつく。

「なんか、いい感じだね」

心春も、母と共に笑った。

そばを流れる川沿いの、公園を二人で歩く。

桜並木はまだ蕾だが、やがてはその公園も花見客で、昼夜問わず賑わうだろう。

コンクリートの長椅子に二人腰かける。

春の川風が、ほの暖かく頬を撫でる。

親子は、会話が少なくとも思う心根は一緒だった。

これから、今までの分も取り戻すのだ、幸せを。

そんな気持ちでいた。

するとそこへ、公園横の道路に一台の小型のミニバンが止まった。歩道に乗り付けた、その車の助手席の窓が開くと、そこには窪園信太郎の顔があった。

五年の執行猶予が、明けたのだった。

「やぁ、さっちゃん、心春ちゃんも、お待ちどう。乗って乗ってっ」

そういうやいなや、助手席側の後部座席のスライドドアが、自動でスルスルと開いた。

「わぉっ」

幸子と心春は、同時に驚きまた、笑う。

「お邪魔します」

二人は次々に乗り込み、また自動で閉まるドアに、

「およよっ」と今度は芝居がかった声を出しながら、のけ反る仕草をしてまた、笑い合う。

「とりあえず、コンビニね」

涼しい顔で、心春が言う。

いつもの、コーヒーとツナマヨのおにぎりを買うのだ。

車は、桜並木を通りすぎ、三叉路を右折して、やがて姿が見えなくなった。

それでもまだ、三人の笑い声が、桜の蕾を揺らしていた。


おわり


*これはフィクションです。


「2016年3月23日」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ