姉に略奪されて婚約破棄されましたが、将来有望な貴公子に求婚されました。
姉に略奪されて婚約破棄されましたが、将来有望な貴公子に求婚されました。【コミカライズ化】
「貴女は良いわね、ドリス。健康な体を持っていて」
きっかけは、そんな姉・セシリアの一言だったように思います。
私の姉は幼い頃から体が弱い人でした。家の庭先に出ても、晩秋の木枯らしに一度当てられただけで熱を出し、春先の温かな陽気にさえ眩暈を起こすような虚弱ぶりに、両親は酷く動揺したそうです。
第一子がこれでは我がベイツ伯爵家の血筋を残すことは出来ないと、当時の伯爵であった父方の祖父に急かされて第二子を作ることが急務となりました。跡取りとして本当は男児が欲しかったけど、せめて健康であれば女児でも婿取りができるからと願われて生まれたのが、私ドリス・ベイツです。
私は至って普通の体で生まれてきました。真冬の雪遊びをしては鼻水を垂らし、真夏に庭を散策すれば、いつもより少し疲れて昼寝をして休むような、本当にごくごく一般的な子女だと思うのです。
けれども、冒頭の姉の一言以来、何かと羨ましがられるようになったのでした。
「貴女は良いわね、ドリス。お洒落をしてお茶会に呼ばれるなんて」
勿論、私だけでなく姉も招待を受けていました。けれども楽しみにし過ぎたせいなのか、熱を出して留守番になったのです。普段ベッドから降りない人が何時間もかけてドレスを選んでいた疲れだと思いますけどね。
「貴女は良いわね、ドリス。家庭教師の先生からお褒めの言葉を頂いたんですって?」
一見褒めているように聞こえるけれど、酷い当てこすりだわ。家庭教師の先生がいらしても、体が辛いからと言って、御帰り願っていると聞いています。ドレスを選ぶ為に何時間も立っていられるくせにね。授業も受けずに勉強ができるくらい読書家でもあるまいし、コツコツ勉強する私に嫌味を言われても困りますわ。
「貴女は良いわね、ドリス。自由に遊び回れて。私はベッドから降りられないのに」
自由に遊び回れてなんていません。ベイツ伯爵家の跡取り娘として、いずれ婿になる方を支えられるように学ぶことは山のようにあります。子どもの頃はガヴァネスから読み書きや計算、マナーを学んでいたけれど、今は外国語の先生や礼法の先生、経営学の先生、それにダンスの先生がいらしていただいているのです。外に遊びに行けるなんて月に一度あるか無いか、もしくはお茶会で他家のお屋敷に御呼ばれする時ぐらいですわ。
「病弱な私を馬鹿にしているから、反論できないんでしょう?」
別に病弱なことを馬鹿にしてはいません。言い返せば泣きわめいてうるさいから黙っているのです。だけど黙っていても面倒なことになるのも事実なのです。
「まぁまぁ!セシリアにドリス。何を揉めているの?」
騒ぎが聞こえたのか、母が部屋に入ってきました。
「お母様!ドリスが酷いのです!私が病弱で動けないと馬鹿にするんです!!」
こうやって姉は、私が言ったこともない悪口を大声で叫んで母に訴えるのです。
昔は虚弱体質だったとしても、成長と共に健康になっていると思いますけどね。晩餐は必ず一緒に食べますし、メニューも量も私と変わりません。何をもってして病弱と言うのかというと、学習時間を拒否する時と新しいドレスや宝飾品を強請る時くらいですかね。
「ドリス。どうしてそんな酷いことを言うの?いつも言っているでしょう?セシリアの体は丈夫ではないの。優しくしてあげなければいけないと、どうして分からないの?」
言ったこともない悪口を謝罪しなければいけない状況に腸が煮え返るような気持ちになります。一度言い返した時は、母も同じように泣いて叫んで父を呼びつけ、父から夕食抜きで部屋に謹慎させられたので、また私は黙らざるを得ません。
母の後ろでニヤニヤと笑っている姉ですけど、母の言葉の真意など分かっていないのでしょうね。『体が丈夫ではないから、優しくしなければいけない』という言葉を過剰に使う意味を。それってつまり、
“残り短い命なのだから、それくらいの目をつぶってあげなさい”
という意味だということに気づいていらっしゃらないのですから、本当におめでたいことです。無論、本当に我が子を思って使う方もいらっしゃるでしょうけど、お恥ずかしいことに我が母は前者だと思います。
こんな御荷物のような姉は一生我が家にいるのです。代替わりをした時にでも領地に引っ込んでいてもらいたいのに、ベッドから降りもしないくせに田舎は嫌だと我が儘を言うのですから、きっとこの王都のタウンハウスから出ていくことはないでしょう。今から本当に憂鬱です。
けれども、そんな私に予想だにしない出来事が起こったのです。
「ドリス。僕は君ではなく君の姉のセシリア嬢と結婚がしたい」
子爵家の次男で、ベイツ伯爵家に婿入りする予定だったフィランダー様は私の婚約者です。であるにも関わらず、姉の部屋で、姉のベッドに腰を下ろし、姉の手を握って私にそんなことを言ったのです。これを不貞と言わず何と言うのか。わなわなと怒りに震えそうになる拳を懸命に抑えます。
「フィランダー様。どういうことですか?貴方は私の婿となって伯爵家を盛り立てていくお約束をしたではありませんか……」
「本来、伯爵家は君ではなく長子であるセシリアが継ぐべきだろう。長幼の序を乱すべきではない」
もっともらしいことを言っているけど、婚約者でもない姉を呼び捨てにし、その手は今や姉の腰にあります。大方、不貞を誤魔化して伯爵家に婿入りする為に適当なことを嘯いているに違いないです。
「でも、姉様は当主夫人になる為のお勉強をされていませんから、今からではたいへ……」
「酷いわ!そう言って、また私を馬鹿にするのね!」
「ドリス。そんなことを言ってはセシリアが可哀想だろう?」
可哀想なものですか。10歳になってから6年もの間、一日たりとも勉強をしない日はありませんでした。これまでずっと怠けて来た人が今から覚えられるはずがないないじゃないですか!!
「まぁまぁ、セシリアとドリス。フィランダー様もどうしたのです?」
いつものように騒ぎを聞きつけた母と、今日は父も一緒に姉の部屋に現れました。未婚の子女の部屋に婚約者でも何でもない男性がいることに怒るかと思いましたけど、そこに関しては無反応で、何かおかしいと私は内心首を傾げました。
「お母様!私、フィランダー様と一緒にベイツ伯爵家を継ぐわ!!」
何て世迷言を言うのかと呆れておりましたら、母は、
「まぁ!!ようやくやる気になってくれたのね!セシリア!!」
と、意味の分からないことを言い始めたのです。父を見れば、父もまた微笑ましいものでも見るかのような顔をしています。
「セシリアはおっとりとしているから、よくよく支えてくれたまえ」
「はい。私達は夫婦となってベイツ伯爵家の為に奮起したいと考えております」
もはや意味が分かりませんでした。私はベイツ伯爵家の為に生まれてきて、ベイツ伯爵家の為に生きてきたのに、その未来の道筋が目の前で脆く崩れ去っていく様を見せつけられたのです。両親と姉、元婚約者が何か話しているようでしたが、今となってはもう理解しがたく、耳障りな羽音にしか聞こえませんでした。
結局、事態は変わることなく、ベイツ伯爵家の跡継ぎは姉になりました。跡継ぎで無くなった私は、これ以上勉強する必要もなく、さりとて外出するような気力もありませんでしたから、日がな一日自室で本を読んだり、刺繡をしたり、無為な生活を送っておりました。
そうそう、姉の勉強の進捗状況についてですが、両親やフィランダー様がいらしている時は大人しくしているようですが、三人がいない時は以前と同じように怠けていると使用人が教えてくれました。怠けていては進みませんでしょうに。いくら父がまだ若いとはいえ、継承までの時間が長いかと言うとそういう問題ではありません。
我ながら皮肉っぽい物言いで可愛げがないとは思いますけど、これくらいの反骨心でもなければ、自分の家族に潰されていたでしょうから、生存本能の賜物なのです。
しかし、両親はこのまま私をどうするつもりなのでしょうか。分家の息子の誰かと結婚させて、領地で働かせるつもりなのかしら。そんなことをするくらいだったら、もうどこかの年寄りの後妻でも良いから、この家を出て籍を外れたいとさえ思います。ここまでされて、更には骨の髄まで啜られるなんて願い下げですわ。
己の行く末を案じ、鬱々とした気の滅入る毎日を過ごしていましたら、事件が起きました。
「アリソン公爵家から縁談の話が来た」
晩餐の前に家族全員が父の書斎に集められました。もちろん母と使用人に手を引かれて姉も呼ばれており、父の許可を得る前に椅子に座ります。
「アリソン公爵家と言うと、御嫡男のナサニエル・アリソン様のことですか!!お父様?」
まともに貴族名鑑を覚えてもいない姉が黄色い声を上げて、父に問いかけます。父もまた神妙そうに頷いて、書状らしきものを机に出しました。引っ手繰るように手紙を取った姉が、嬉々として中身を読み始めます。一瞬見えた封蝋印は、確かにアリソン公爵家の紋章でした。
アリソン公爵家のナサニエル様といえば、将来有望な貴公子として社交界で有名な方です。非常に頭が切れるそうで、御年20歳という若さで宰相補佐の役割を担われております。御両親譲りの美貌も受け継がれ、天の神はいくつもの贈物をしたのだと評判なのだと聞いたことがあります。
加えてナサニエル様の姉君は我が国の王太子殿下に嫁がれており、この国一番の権勢を誇る貴族家と言っても過言ではありません。
我が家は同じ貴族とはいえ、そんな家の方から縁談を頂くような家ではないのです。間違いなのか、お相手がナサニエル様ではなく分家の従兄弟君ではないのかと考えておりますと、隣で姉が騒ぎ始めました。
「何よ、これ……」
最初は喜んで書状に目を通していた姉は読み進める内に何かに気づいたのでしょう。
「どうしてナサニエル様が、ドリスなんかに求婚するのよ!!」
縁談の話というのだから、最初から私に来ているものだと思っていたのですが、どうやら姉は違ったようです。
「姉様はフィランダー様と婚約をしていますから、縁談など来るわけがないじゃないですか」
フィランダー様と私が婚約を解消し、姉と婚約をし直したことは、何らかの企みがあったのではないかと勘繰るくらい、とても速いスピードで社交界に出回りました。きっと両家で根回しをしたのでしょうね。それに社交はあまりしない割に、華奢で儚げな雰囲気のある姉は殿方に人気でしたから、可もなく不可もない妹よりも姉が良かったのだろうという不躾な話も囁かれているとか。
だからこそ我が家で空いている身は私一人だということは周知の事実です。逆に自分が求婚されたのだと喜ぶ姉の頭の中身が心配になります。
「間違いよ。ドリスなんて優しくもなければ頭でっかちで、ただ真面目なだけじゃない」
「姉様……。たとえ間違いだとして、それではフィランダー様との婚約はどうするのですか?」
私達の婚約解消時には、同じ家の姉妹間での花嫁の交換だけだった為、業腹ではありますが慰謝料などは発生しませんでした。けれども、婿入りを約束したにも関わらず、放り出すのはいかがなものでしょうか。慰謝料を払いたくないばかりに、再び姉妹を交換するというのも流石に周囲も良い顔はしないでしょう。姉に甘い父も、都合よく賛成するとは思えません。
「とにかくアリソン公爵家と縁続きになれば、我が家も安泰だ。一週間後にナサニエル様が挨拶にいらっしゃると書いてあるから、その準備をしておくように」
私に言ったのだと思いたいですが、煮え切らない様子の父は本当に一体何を考えているのでしょう。仮に本当に間違いで、ナサニエル様が姉を選び、フィランダー様と再婚約するように言われたら、すぐに荷物をまとめて修道院に向かいましょう。ほとほと愛想も尽きたと思っていましたが、更に下があるとは思ってもみませんでした。
+++++
一週間後、アリソン公爵家の紋章を掲げた二頭立ての馬車がベイツ伯爵家にやって来ました。
馬車から降りてきたナサニエル様は本当に立派な御姿で、柄にもなく見惚れてしまいます。夜会や会合などでお見掛けすることはありましたが、魅力的なナサニエル様に近づこうとする方々は多く、きちんと正面から相まみえることは、これが初めてでした。
婚約の挨拶ということで、正装とまではいかないものの、フォーマルな出で立ちでやって来たナサニエル様は、髪をきちんと上げ、その麗しい御顔がよく見えました。これは年頃の少女達が夢中になるのが分かります。眼差しは艶やかだというのに卑しくはなく、その英明な人格が見て取れるほどの風格があるのです。
父が歓迎の挨拶をして、それから私が紹介されます。
「ようこそいらっしゃいました。ドリス・ベイツでございます。お会い出来て光栄です」
「ナサニエル・アリソンです。私の方こそ色よい返事をいただけて喜ばしい限りです」
カーテシーをして挨拶をすれば、ナサニエル様は満足げに微笑みます。私だけにこの笑顔が向けられているのだと思うと、天にも昇らんばかりの嬉しさが募ります。
軽い世間話に興じながら応接間に御案内し、いざこの縁談について話を始めると思いきや、突然の闖入者が現れました。もちろん姉です。
「ようこそいらっしゃいました!私、ベイツ伯爵家の長女のセシリアです!」
やはり使用人に支えられながらやって来て、自分の席を作らせようとします。
「初めまして、セシリア嬢。先日、子爵家の御次男の方と御婚約されたそうですね。おめでとうございます」
姉の気持ちを知ってか知らずか、応対するナサニエル様は実に爽やかでいらっしゃいます。出鼻を挫かれた姉の顔が若干引きつっているようにも見えましたので、それがおかしくて胸がすくような気持ちになります。
「率直にお話して欲しいのですが、どうしてドリスに求婚されたのですか?」
『率直』という言葉では片づけられないほど短絡的な問いに、姉の気性を理解する両親は蒼褪めました。私としては労せずナサニエル様の思惑を聞けるので良いのですが、姉の辞書には恥や外聞という単語もないのでしょうね。そんな虫食いの辞書などいらないですけど。
「勿論、社交界で才媛と名高いドリス嬢が婚約を解消されたと聞いて、是非とも我が伴侶にと求婚させていただいたのです」
自賛するようでお恥ずかしいのですが、確かに社交界では私はお勉強の出来を褒められることはございました。それに、よくよく話を聞けば私の経営学の先生にナサニエル様も師事したことがあったらしく、先生とは今でも交流が続き、そちらからも私の話がお耳に入ったのだそうです。
「勉強の虫ですものね、ドリスは」
それしか能が無いとばかりに鼻で笑われたような心地がします。
「私も今一生懸命お勉強しておりますの」
「そうなんですか」
「はい!ですから公爵夫人に相応しい淑女になれますわ」
両親の顔色は、青を通り越して血の気が引いて白くなっておりますわ。恥も外聞も無いのだから、これくらいは言ってくるだろうと私は予想しておりましたけどね。
「公爵夫人、ですか……」
「えぇ!ナサニエル様のお隣に立つのは私の方が相応しいと思います!」
勉強も覚束ない人間のどこが公爵夫人に相応しいのか。ナサニエル様に相応しいのか。言って返してやろうと口を開きかけた時、ナサニエル様が軽く手を振って私を止めました。そうして少し思案されたと思うと姉に問いかけます。
「セシリア嬢は、我が国に隣接する国の言語を幾つほど習得されていますか?」
我が国に隣接する国は五つ。その内二つは我が国と同一の言語を使用しておりますから、母国語の他に三ヶ国語が必要となります。貴族の子女は大なり小なり外交を行う機会もありますので、三つの言語の習得を求められるのです。共通する単語も多く語順も同じなので、日常会話程度であれば難しい話ではありません。
――無論、幼い頃からコツコツと勉強を重ねていればの話ですが。
「ま、まだ一つ目を習得中です……」
「おや、そうでしたか。ドリス嬢は三ヶ国語の他に、芸術の都で知られるアルテや信仰の国フィデーリスの言葉も学ばれていると聞きました」
アルテ王国とフィデーリスは海を隔てた場所にありますが、その歴史は古く、数多の国がある中でも重要視されている国です。
「私、幼い頃に読んだアルテへの旅行記が本当に面白くて大好きなのです。アルテは歴史的建造物も多く、いずれ訪れてみたいと思って学んでおりますの」
「あの旅行記を御存じでしたか。私も今でも時折手に取りますよ。その影響からか、航海に赴く者を幾人か支援しているのです。彼らの話を貴女となら更に楽しく聞くことができそうですね」
「まぁ!そのように素敵な機会がありましたら、是非お誘いいただきたいです」
何て魅力的なお話かしら。気を遣ってくださったのだろうけど、私を喜ばせる為に素晴らしい提案をしてくださる方がいるなんて何て幸せなことなのでしょう。
「で、でも!!ドリスなんかがナサニエル様のお隣に立ったら、きっと他家の方々から『アリソン公爵夫人は身の程知らずだ』って笑われちゃいますよ」
実の妹をどれだけ貶めれば気が済むのかしら。
姉が言うように私の容姿は十人並みです。栗色の髪に榛色の瞳と、周囲に埋没するような特徴のない娘です。対して姉はと言えば、母譲りの金髪に青い瞳が自慢なのです。きっと母が私よりも姉を可愛がるのは自分に似ているから可愛いのでしょうね。
さて、ナサニエル様は一体どういう風に返事をするのでしょうか。お勉強については何を言われても自信がありますけれども、外見に関しては褒められたところで社交辞令だと思ってしまうでしょうし、庇われたところで狭量な私はいつまでも根に持ってしまうことでしょう。
しかし、ナサニエル様は私なんかの何枚も上手なのでした。
「そうですね。確かにドリス嬢にいらぬ苦労を掛けてしまうやもしれません」
「でしたらやっぱり――」
「セシリア嬢。私の隣に釣り合う女性を探すとしたら、姉か母を連れて来なくてはいけません。しかしいくら釣り合いが取れるとはいえ、私も流石に近親による婚姻は避けたいのです」
一瞬、意味が分かりませんでした。え?ナルシストでいらっしゃいましたの?
ナサニエル様の御母君は、婚姻前に婚約者がいる身でありながら、隣国の王から求婚を受けるほどの美しい女性です。その美貌を受け継いだ姉君は、この世に並ぶ者はいないと言われるほどの美しさだと近隣国にまで評判が届いているとか。そうしてそれに釣り合うのが、ナサニエル様とその御父君というわけです。
「姉と母以外が並んだところで、どちらの家の御令嬢も釣り合わないと中傷されることでしょう。けれども才気煥発なドリス嬢であれば、それらを跳ね除け、私の隣に立っていると思うのです」
何とまぁ強引に、けれども完膚なきまでに姉を叩きのめしてくださいましたこと。誰の話にも聞く耳を持たない、自信過剰な姉が言葉もなく呆然と立ち尽くしております。本当に愉快で愉快で、思わず笑い出してしまいそうになるのを扇で隠しながら我慢します。
「で、ですが、セシリアにはドリスには無い愛らしさがありますわ!」
これまで黙っていた母がナサニエル様に食って掛かります。大事な娘を馬鹿にされたと思ってのことでしょうが、もう一人の娘を踏み台にする必要はないと思いますけどね。
「夫人、愛らしさだけで生活が出来るのは、若い娼婦だけですよ」
「なッ!!」
先程までのナサニエル様と同じ人物とは思えないほどの物言いです。ですが、そろそろこの無駄な問答に我慢の限界が来る気持ちは分かります。
「ベイツ伯爵家はセシリア嬢が婿を取って後を継ぐと聞いておりますが、正気でいらっしゃいますか?」
「な!何てことを仰いますか!例え公爵家の御令息といえど、他家の問題に口を出すとはいかがなものかと思いますよ!」
後継問題に口を出された父がたまらず声を上げます。
「しかしながらセシリア嬢は幼い頃から虚弱であると社交界で取り沙汰されていますよ。今も使用人に手を貸してもらわなければ歩けないような方が、伯爵夫人として社交ができるのですか?」
「そ、それは……」
「そもそもそんなにも体が弱いと言うのなら、跡継ぎを産むことはできるのですか?」
その指摘に、両親は今更になってハッとした顔をしました。やはり忘れてしまっていたようですね。疎ましく感じていたであろう私がどうして生まれてきたのかということを。
他家のナサニエル様にいつまでも代弁していただくのは申し訳ありません。ここは一つ、腹を括って両親を目覚めさせるしかないのです。
「ドリス……」
縋るような目で私を見つめてくるけれど、だから何だと言うのです。
「お父様、お母様。ナサニエル様との婚約の許可をくださってありがとうございます。私、アリソン公爵家に嫁いでも、勉強に励み、必ずやナサニエル様を支えていきますわね」
にっこりと笑いかけますと、父は苦虫を噛み潰したような顔をしました。私が出来るのは優しい言葉で慰めるのではなく、引導を渡してやることなのでしょう。
「跡継ぎがいなくなれば、ベイツ伯爵家はお取り潰しだ……」
最悪養子を取れば良いでしょうに、自分達の血にこだわるのは祖父も父も一緒です。父の兄弟は姉妹ばかりですし、直系といえば私と姉二人になります。姉に子が出来ないかもしれないのなら、私に産ませようと言うのでしょう。私は犬や猫ではありませんのに。
「ドリス、ベイツ家を捨てるのか?」
「捨てるだなんて人聞きが悪いですわ。フィランダー様とセシリア姉様が跡継ぎになることを喜んでいらしたじゃありませんか。お二人を見て、私も私を望んでくださる方の下に嫁ぎたいと思うようになりましたの」
今の今まで結婚願望なるものを持ち合わせたことはありませんでしたが、この短い時間で私はナサニエル様を好きになってしまっていたのです。両親から与えられる乏しい愛だけでは私は満足できないのです。叶うことならば私を尊重してくださる方と人生を共にしたい。
「生家が無くなれば、公爵夫人として立場はどうなるかな?」
そんなもの知らない、と突っぱねたいところですが、確かに生家が没落してはアリソン家に御迷惑をおかけするやもしれません。けれども家に残るというのなら、御嫡男であるナサニエル様とは結婚できません。
どうしようとすっかり動揺している私の耳に、この場に相応しくない手を叩く音が聞こえてきました。
「没落……えぇ、どうぞどうぞ、安心して没落なさってください。ドリス嬢のことは私がお世話させていただきますから」
「ナ、ナサニエル様、それは一体どういう意味ですか?」
「私は次期宰相、姉は次期王妃です。アリソン公爵家にはこれ以上の権力は不要ですから、むしろ没落貴族出身の御令嬢を伴侶として迎えることでバランスが取れるのですよ」
この方、本当にどうしようもない性格をしていらっしゃるようです。人格者と聞いていましたけど、不調法な人間に対する扱いが悪すぎやしませんかね。
「そんな!ドリスのことなんて愛してないんじゃない!」
「殆ど初対面の私達の間に愛があると思う方がおかしいですよ。ロマンス小説じゃあるまいし……」
「じゃあ私でも良いでしょ!!」
「没落貴族までなら許せますが、妹の婚約者を略奪した方が伴侶では、無関係の私まで傷を負う危険がありますので、遠慮させていただきます」
ベイツ家に縁がある私と結婚しても、婚約者と跡継ぎの座を奪われた私は悲劇のヒロインであるのが現状です。そこに手を差し伸べたとなれば、ナサニエル様の人格者としての評判を更に強固なものにするに違いありません。全く計算高い方ですこと。
「御納得されましたか?」
そもそも説得ではなく正論を叩きつけたに過ぎないのです。痛いところを殴りつけられ続ければ、口を開くこともできないくらい打ちのめされてしまうのも当然でしょう。そんな家族に背を向けて、ナサニエル様は私の手を取りました。
「ドリス嬢。こんな私ではありますが、是非とも我が家に嫁いで来ていただきたい」
ろくでもない本性を見せつけた後に、プロポーズしてくるなんて可笑しな方。
「不束者ではありますが、ナサニエル様のお役に立てるように頑張りたいと思います」
にっこりと笑って、求婚をお受けいたしました。
私達はパワーバランスを考慮しての政略結婚になるのでしょうけど、でもきっとナサニエル様は私を大切にしてくれると信じることができます。だってナサニエル様の言葉は、どれもこれも私が胸の内に抱えてきた思いばかりだったから。
「さぁ!そうと決まれば行きましょう」
「行きましょうって、どちらへ?」
「もちろん我がアリソン家ですよ。貴女を残らせる為に既成事実を作られてはたまりませんからね」
まさかとは思いますが、跡継ぎの為に何らかの対策を取る可能性もあります。全く腹の内が黒い方は悪巧みを想像するのも御得意なのですね。
「お荷物は後から……」
「いえ、必要なものはある程度まとめておりますから大丈夫です」
「……まとめてある?」
「はい。もしもナサニエル様が姉を選ぶようでしたら、以前の婚約者と再婚約しろと理不尽なことを言われる前に家出をしようと思っておりましたの」
本心を曝け出してくれたのですから、私も本心でお話いたします。
「流石、旅行記をお好きなだけあって冒険心が旺盛なようだ」
「精々領地の祖父母の家か、修道院辺りまでの短い冒険ですけどね」
特別才覚があるわけでもない私ですから、女がその身一つで生きていくのは難しいことは分かっております。それでも一矢報いてやりたかったのです。
黙って大人しく従うような女性が良かったのでしょうかとナサニエル様を窺うと、
「愛は無いと言いましたが、貴女とならこれから先、楽しく暮らしていけそうです」
と、彼はとても面白そうに笑っていらっしゃいました。
余談とはなりますが、私は無事にアリソン公爵家に嫁ぐことが叶いました。ナサニエル様と共に外国の大使の下に訪問し、その奥様やお子様などのお世話をさせていただくことが私の仕事です。我が国の文化に触れて喜んでくださるのも嬉しいですし、他国の文化を教えていただくのも楽しいです。これまで身に付けた学問がとても役に立ち、充実の日々を送っております。
ナサニエル様は実家で見たような冷たい言い回しをすることもなく、基本的に穏やかで、けれども時々こちらがハラハラしてしまうような痛烈な一言があったりと、なかなか読めません。それでも私には優しく気遣いを欠かすことがございませんし、まもなく私達の間には子どもも生まれます。きっとナサニエル様は喜んでくださいますでしょう。
実家についてですが、没落はしておりません。姉がナサニエル様に言い寄ったことなど知らないフィランダー様は、呑気に姉と結婚しました。けれども自分よりも劣ると思っていた妹が公爵家に嫁ぎ、自分は子爵家の息子を婿に迎えたという事実が堪らなかったのでしょう。私が家を出るまでは仲睦まじかったのに、今では仮面夫婦のように生活しているようですよ。それでは跡継ぎがどうのという話ではないでしょうにね。
娘が嫁いだというのにアリソン家との付き合いは乏しく、それを慮った周囲から遠巻きにされた父やフィランダー様は閑職に配置替えとなりました。領地でも不義理な領主の行いに領民も怒りを募らせているとか。没落を歓迎していると言ってのけた我が旦那様ですけど、彼が何もしなくともどうやら本当に没落しそうですね。
『大丈夫大丈夫。いざとなれば、私達の子ども達が受け継ぐ土地が増えるだけのことですよ』
にこやかに言うものですから、致命的な失態が起きないようにそれなりに手を回していらっしゃるのでしょう。
「私、ナサニエル様のところにお嫁に来て幸せですよ」
そんな風に素直に気持ちを伝えれば、
「そりゃあ、幸せになってもらえるように私も努力していますからね」
と、自信満々に答えてくるものですから、可愛くて憎めない旦那様だなといつも私は思うのです。
END