「綾女は忘れない」
~~~綾女~~~
病床の、すっかり痩せ細った遊馬様の口からこぼれ出た言葉に、私は十秒ほど硬直した。
──……失礼ですが、聞き間違えでしょうか?
──うんにゃ、聞いた通りだ。綾女、おまえさんにとっても勇馬は必要な存在なんだ。
聞き間違いではなかったことに動揺した。
軽いめまいを覚えた。
──必要……? 坊ちゃまが……? 私に……?
──そうさ。おまえさんは剣だ。万里を飛翔し、敵の喉元へと突き刺さる飛剣だ。だが飛剣はそれだけでは存在し得ねえ。使い手が必要だ。指揮する王が必要なんだ。
『ベルキアの飛剣』。
かつて兵士として王国に仕えていた頃、私はそう呼ばれていた。
王の懐刀として数多の敵を葬ったことに対する賛辞だが、一方で『ベルキアの殺人人形』と揶揄されることもあった。
王国滅びてよりは、完全に後者の呼び名で定着した。
武装ゲリラの一員となった私は、その名の通り血の通わぬ殺人人形として殺戮の限りを尽くしたからだ。
日本へ渡り坊ちゃま専属のメイドとなってからは、もうどちらの名で呼ばれることもなくなった。
飛剣ではなく、殺人人形でもない。
ただの綾女になったからだ。
──坊ちゃまに使われろと言うのですか? 遊ぶこととだらけることしか頭に無い、クズでニートの坊ちゃまに従えと?
──おまえさんの気持ちは大いにわかる。今のあいつは箸にも棒にもかからねえ、真実どうしようもねえ人間だ。だがそれでもな、あいつは小鳥遊なんだ。戦時なら大将軍、太平の世なら名宰相ってな。そういう血筋の男なんだよ。
遊馬様を始めとして小鳥遊家の方々は皆、各界において偉大な功績を遺している。
たったひとり、坊ちゃまを除いては……。
──……その顔は疑ってやがるな? まあー、無理もねえか。おいらの知るかぎり、あいつは一族最高のスロースターターだ。だが、だからこそ反発力がすげえんだとは思えねえか?
──反発力……?
──誰だってよ、跳び上がる時には溜めが必要だろう。膝を折り曲げて、筋肉を縮めて一気に伸ばす動作が必要だ。今のあいつはまさにその最中なんだ。長い長い蓄積の時期に入ってる。もしそれが一気に解放されたとしたら、いったいどうなるのか……なあ、面白そうだとは思わねえか?
──……申し訳ありませんが、私には想像できません。
あの坊ちゃまの飛剣になるなど、冗談ではない。
私が頑なに首を横に振ると、遊馬様は「ひっひっひ……」と楽し気に笑われた。
──いいさ、今はそれで。だがな、そのうち気づくことになる。なあ、変わるんだよおまえさんは。あいつと同じようにな。そのためにおいらは、おまえさんらを呼び寄せたんだから。
いたずらっ子のような明るい瞳で、仰せられた。
以来ずっと、その言葉は胸に突き刺さったままだった。
真意なのか冗談なのか測りかねたまま、そこに在った。
そして今、数年ぶりに痛み出した。
まさかの状況で、よりにもよって坊ちゃまの一言で……。




