其の一〇
雄国:タンディニウム
大きな時計の塔が聳え立つ、夕暮れのタンディニウム。
橙色の空に、黒い影がよく映える。
高層ビルディングの群れの上に、一人の少女が立っていた。
「……」
ビルディングの上特有の強風をものともせずに直立し、首から下をタイツ状の生地で覆う少女の名は、トットー。
数か月前に白い九尾の少年が暮らす街にて誘拐事件を起こし、しばらく刑務所に収容されていた。
呆然自失状態だった彼女は、何者かの手引きによって脱出し、一層腕を磨いて今に至る。
「──ワタクシは、ワタクシだ」
自分を言い聞かせるように、トットーは言い聞かせる。
けれど実際は、自分に自信なんてちっとも持てていない。
元々彼女が怪盗じみた愚行を繰り返していたのは、目立つことで恩人に見つけてもらう可能性を高めるためだった。
悪行以外の名の上げ方を知らなかった愚かさは、自分のやり方が間違っていたという事実を、トラウマと収監と共に彼女に刻み付けていた。
「誰が、何と言おうと……ワタクシは、ワタクシだ」
結果、彼女は自分の在り方を見失ってしまっている。
最初に成し遂げたかったものも、今向かっている先も、何もかもが分からない。
狐の少年にトラウマを突き付けられた日から揺らいでいた精神が、つい先日病院で差し伸べた手を掴んでもらえなかったことで、完全に崩れてしまっていた。
今の彼女に必要なのは、従っていればいい仕事でも、鵜呑みにすればいい上司でも、干渉してこない同僚でもなく、ただ親身になってくれる誰かだ。
「だから、いい、これで、いい……」
杭に細工を仕込み終わった今、彼女ができることは何もなく、任務に精を出して思考を放棄することは許されない。
何度も何度も言葉を反復して、自分の在り方を無理やりにでも固定するほかないのだった。
陽が沈み、タンディニウムの空が黒くなっていく。
次第に、少女の影も夜の空に溶け込んでいった。
<***>
雄国:タンディニウム総合病院
大鬼長:ナサニエル・バトラー
継ぎ接ぎ肌の少年を介抱した翌日、私は総合病院に訪れていた。
小さな籠に入れた林檎を持って入室すると、中にいた細身の男性──バグルが迎え入れてくる。
「やあ、ようこそ」
バグルは紐付きの眼鏡をかけて、寝台の上で何やら本を手に取っていた。
壁のスイッチを押して扉を閉めつつ、私は病室の中へと足を踏み入れた。
「読書か。勤勉だな」
「知識はいいよ、世界そのものだ。見えるものが変わると言っても過言じゃない」
「そうか……活字の類には、あまり触れてこなかったものでな」
ベッド脇の台の上に林檎入りの籠を置き、私は近くの椅子を引っ張り出す。
今回呼ばれたのは私一人、蘭──綿貫郭蘭や鵺は散歩や観光に出掛けてもらっている。
折角ならば鵺にも外の世界を色々と見せたい、という計らいである。
人間態から乖離した妖怪が極端に少ないタンディニウムでも、鵺ほど動物に近ければペットとして扱われるだろうし、何より鵺自身が持つ隠蔽能力もある。
トラブルを巻き起こす可能性はない。
「きみたちは、そうだろうねぇ。おすすめは推理小説かなぁ、頭の中が物語で埋まって、考えが止まらなくなる感じは、すごくいい」
「なるほど、そういうものか。物語に没入する感覚は、おいおい味わってみたいものだ」
「うん、おすすめするよ。きみたちは特に、そうやって自分の想像力を養っていくのがとても大事だ」
一旦台に置いた籠の中から林檎を取り出し、借りてきた手持ちのナイフで皮を剝く。
消毒や洗浄は済ませているため、私が剥いても問題は無いと判断されており、何なら皿と小さなフォークまで拝借できた。
刃物の扱いならそれなりに慣れている私は、するすると林檎の皮を剥いていく。
「とまあ、世間話はここまでにしておいて。今日は頼みたいことがあって、きみに来てもらったんだ」
「ああ、そのように聞いている。安心するがいい、念話での会話内容は蘭には伝えていない」
「助かるよ。正直なところ、きみに話すかどうかも迷っていたけれど……昨日の行いを見て、やっぱり託すことに決めたんだ」
「昨日の振る舞い……というと、例の少年との一幕か」
バグルはこくりと頷いた。
「昨日も言ったと思うけれど、僕は<吸血鬼>。戦うための力はないけど、いろんなところに蝙蝠を飛ばして、いろんなものを見ることができるのさ」
「自分の使い魔のようなものか? 任務で何度か、そのような存在に会ったことがあるが」
妖怪は基本的に自律的な存在であり、確立した自己を持っている。
一方で、昨日蘭が語ったような発生理由により、存在があやふやなままこの世界に産み落とされてしまうパターンも存在する。
そのような妖怪崩れを呼び出したり体内に埋め込んだりすることで、必要に応じて生体ユニットとして活用するという理念こそが、使い魔。
確かGNOMEでも研究がされていたはずだが、再現性の低さから没になったと記憶している。
「……貴様。やはり以前GNOMEにいたことがあるな」
「──驚いたなあ。これだけの情報でそこまで辿り着くなんて。やっぱりきみはその想像力をもっと高めた方がいいと、僕は思うなぁ」
「世辞か」
「本心だよ」
ふふっと微笑んだバグルだが、如何せん怪しい雰囲気が抜けきっていない。
胡散臭いというわけではないが、発言や態度の節々に虚無を感じると表現すべきだろうか。
とにかく、信用はしても信頼するには不安な相手だ、と認識しておこう。
「僕は以前、GNOMEに拾われてね。荒波に揉まれて浜に打ち上げられていた僕たちを、GNOMEの社長秘書が拾ってくれたんだ」
「成り行きでGNOMEに関わったと? あまり感心しない判断だが」
「そう言われても仕方ないと思うよ。実際、僕らはずっと都合のいい駒扱いされていた。その場から動かずに自由に情報を得られるのは、かれらにとって凄く都合のいい手札だったに違いない」
自分のことを随分と冷静に分析するものだ。
語り口からして、自分が支配されていたことに欠片も恨みを見せていない点も、瞠目に値する。
「すまない、少々感情的になりすぎた。やむに已まれぬ事情があったのだろう」
「そうだね、僕らはずっと監視下にあって、生活は保障されていても自由はなく、抜け出すことは叶わなかった。このままずっと、特に目的もないまま生きていくのかと思っていたところに、転機がきた」
私は剥き終えてカットした林檎の乗った紙皿を、バグルのベッドに付けられたテーブルの上にそっと置いた。
弱っている様子ながらも顎の力はあるようで、フォークの刺さったひとかけらを口に含み、バグルは噛み締める。
それはまるで、果肉と同時に思い出を振り返っているようだった。
嚥下して、バグルは話を続けた。
「──ある男が来たんだ。君もよく知る男がね」
「……まさか」
「ああ、そのまさか。君のところのダイヤモンドだよ」
そういう繋がりになってくるわけか。
穏やかそうなこの男と『宝石団』がどのような経緯の下で結びついたのか分からなかったが、まさかボスの方から接触していたとは。
動機は計り知れんが、経過については一先ず頷けるものがある。
「大方、困っている誰かを見過ごせなかったとか、そういった話だろう。私にもなんとなく推測が立つ──それで、貴様は『宝石団』に恩を覚えて加入することになったと」
「最初はまあ、そうだった。命の恩人という肩書を振りかざして、相手を縛るやり口はそれまでずっと見てきていたからね。でも、あの男──ビズはそうじゃなかった」
懐かしむような目線が、カーテンのかかった窓へと注がれる。
「本人の気質なのか、何か信念があるのか、僕を縛ろうという意思はなかった。食い扶持を与えるために仕事を振ってくることはあったけれど、駆け引きの為に金額を減らしたりはしなかった」
「確かに、そういう奴だろうな、ボスは。手段はともかく、目的が正義であることは間違いない」
強い同意を込めて、私は腕を組んで頷いた。
私もまた拾ってくれた恩の為に粉骨砕身している節はあるが、それ以上にこの男の下でなら気持ちよく走れるという確信が大きい。
誰かを守ったり、誰かの再会を手伝ったりするような仕事は、私にとってこれ以上ない幸福だ。
「そんな彼だからこそ、よりよい未来をつくるために支える価値があると思った。そういう器のようなものを、久しぶりに感じたんだ」
「なるほど、な。同意する」
「そこで、君に頼みがある。今日呼びつけたのは、それを直接頼みたいからなんだ」
ベッドの上から此方に目線を戻したバグルは、随分と律儀な性格をしているようだ。
とはいえ私はあくまでもバグルの護衛人、内容によっては頼みとやらを聞き届ける必要はどこにもない。
それを分かっているからこそ、筋を通すために直接顔を見て話そうとしているのだろう。
「言ってみろ。成すか成さざるかは、今のところ判断しかねるが」
「ありがとう。今の話を聞いて分かったと思うけど、僕が【原始怪異】の情報を探るために頑張れたのは、あの日光を見たからなんだ」
「光、か」
納得できる表現だ。
今私がこの場に立っているのも、あの夜に狐の少年に邂逅したからだ。
未来を掴もうと歯を食い縛り力を尽くすその姿は、まるで月のように淡く、しかし確かに私の標になっている。
……当人に合わせる顔は、欠片も持ち合わせていないが。
「その光を、まだ見られていない子がいる。名はトットー、<天邪鬼>の妖怪だ」
「トットーか。聞いたことがあるような、ないような……それで、そのトットーとやらをどうすればいい」
私の問いかけに対して、バグルは深呼吸をした。
きっと、これが今日の本題なのだろう。
「トットーに、生きる理由を説いてほしい」