Episode of Devils ~妖怪達の話~《Synmi 2》
座っているベンチの屋根を打ち付ける雨音が、少年と少女の耳に入ってくる。
少し遠くでは、川の水面に水がぶつかる軽快な水音。
小学生の男の子は、高校生の少女が言った内容を反芻する。
「いい話……?」
「そー。これからキミが生きてくうえで、気に掛けとくといいこと」
隣に座る少女は、大仰に頷いた。
「キミはさ、スタメンになりたくて焦ってる。そうでしょ?」
「うん……」
憧れから始めたバスケの少年団だが、一年経っても芽が出ず、あまつさえ後輩に抜かれてしまっては、焦りもする。
原動力になる憧れも、曇ってしまう。
「気持ちは、あたしにもよくわかる。あたしも先生になりたいけど、今のままじゃきっとダメ」
「そうなんだ……」
「うん。でもねー? もしもなれなくても、それでもいいかな、って思ってるんだ」
少女は、誰にも言ったことのない本心を吐露した。
経った今少女から夢の話を聞かされた少年は、それを諦めても構わないという発言に、困惑を隠せない。
「え? え?」
「あ、いや、もちろんなりたくないワケじゃなくてね。本気で自分にできることをやって、その上でダメなら、それでいいってことね」
「なんで……なんで、諦めちゃうの?」
「諦めるってゆーか、夢の為に頑張っても、自分が楽しくなかったらダメじゃない?」
少女は、自分が持つ人生哲学の一端を口にした。
夢の為に努力するのは素晴らしいことで、そういう人間を応援したいというのも、彼女が先生を目指す理由の一つだ。
ただ同時に、いなくなってしまった姉の件もあり、少女は何よりも自分自身が楽しく生きていけることを重要視している。
他人にそういった考え方を勧めるのなら、自分も率先してそう在ろうと、少女は自分を律していた。
「あたしはね、夢の為に頑張ることは、楽しくなきゃいけないって思ってる。辛くても頑張るのはすごいことだけど……きっと、それを見てる周りの人も、辛くなっちゃうだろうから」
「──お姉ちゃんも、そうなの?」
やけに実感の籠った少女の口振りに、子どもながら気付いた少年が、首を傾げながら聞いた。
少女は穏やかな顔で、少年の頭を撫でながら、呟いた。
脳裏には、あの日家を出ていった姉の後ろ姿が浮かんでいる。
「んー。まーね。大切な人が苦しんでても何もできないって……けっこーしんどいよ」
「そっか……」
「キミを送り迎えしてくれるお家の人もきっと、練習に行ったキミが風邪ひいて帰ってきたら、きっと悲しむんじゃないかなー?」
「そうだよね……」
新しく注いだ温かいお茶を少しづつ口に含み、身体を芯から温めながら男の子が頷いた。
いつも体育館まで車で送り迎えをしてくれるお母さん、土日に試合があるときは応援に来てくれるお父さん。
その二人が悲しむところは、男の子だって見たくない。
「キミの身体は、キミだけのものじゃない。キミの辛さも、キミだけのものじゃない。だからまずはさ、自分を大切にするところから始めよう?」
「自分を、大切に」
「そー。自分を大切にして、合わないところからは逃げてもいい。その責任は取らなきゃだけど、キミにはいろんな人がついてるから」
「いろんな人。お姉ちゃんも?」
「うん、もちろん! お姉ちゃんはね、キミがキミらしく頑張る姿が好きだよ」
「そっか、そっか!」
すっかり身体も温まり、男の子は元気を取り戻す。
それに呼応するようにして、水音も少しずつ弱まってきた。
「そうやって、少しずつ自分らしくなれたら。自分に出来る範囲で積み重ねる。それがきっと、いつか大きな力になるから」
「……ほんと?」
「うん、ほんと。あたしが今こうやってキミにいい話ができてるのも、あたしがずっとこういう考えを積み重ねてきたから、だもん」
相手に合わせて分かりやすい言葉を選びながら、少女は自分が抱え続けてきた悩みを言語化する。
そう、きっとこうやって積み重ねれば、自分の力になる、自分の在り方が変わっていく。
人はきっと、それを成長と呼ぶだろう。
「だから、まずは自分を好きになること、受け入れること。それができたら、次は出来る範囲で少しずつ積み上げていくこと。わかった~?」
「ぼくに、できることを、できるだけ。無理はしないで、自分をだいじにして……わかった、気がする」
「ん。ならよろしい」
満足げに頷く少女がベンチの屋根から空を覗くと、もうすっかり雨は止んでいた。
屋根を打ち付ける雨音も、川に飛び込む水滴の音も、何時の間にかなくなっている。
「んー。そろそろ晴れるみたいだねー」
「あ、ホントだ。雲が無くなってく」
空からは黒い雲が少しずつ消えていき、その合間から太陽が見えてきた。
暗かった辺り一面が、徐々に明るくなっていく。
上半身をタオルで巻いたまま、少年が喜び勇んでベンチの屋根の外へと飛び出した。
「わ、晴れた、晴れたよ!」
「んー、よかったねー。でもまだまだ地面が滑りそーだし、シャツも濡れちゃったからさー、今日は帰ったら? お家の人も心配してるよー、きっと」
男の子の年齢相応の子供らしい振る舞いを見た少女が、ベンチに座ったまま声を張る。
巻いたタオルを羽のように広がらせながら、男の子はベンチに座る少女の方を見た。
「ね、お姉ちゃん!」
「んー、なあに?」
「さっきさ、お姉ちゃんはああ言ってたけど……お姉ちゃん、きっといい先生になれるよ!!」
日差しの下、満面の笑みで言う男の子の顔からは、すっかり憑き物が落ちていた。
悩みや焦りを感じることもなく、解き放たれた自由な可能性の塊としての、子どもの姿。
考え方は人それぞれだろうが、少なくとも少女は、そうした姿が望ましいと思っていた。
「へへー……ありがと」
<***>
雨宿りで二人が仲良くなってから、数か月が過ぎた。
高校生の少女と小学生の男の子は少しずつ仲を深めていき、互いの身の上話をするくらいの関係になった。
クラスでの出来事、今日出た給食が美味しかったこと、お楽しみ会で活躍したこと。
少女が聞き手になることが多かったが、二人はその時間を楽しんでいた。
少女にとっては勉強の、少年にとっては練習を継続するためのモチベーションになっていた。
そんな中。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん! ぼく、明日の試合出るよ!!」
「うぇ、ほんと! やったじゃーん!」
喜ばしい報告が、男の子から少女に齎された。
少女は自分のことのように喜び、男の子に試合を行う場所を聞き出した。
地域の少年団が競い合う地元の大会で、決して規模の大きなものとは言えない。
それでも、男の子にとっては、自分を大切にして少しずつ積み重ねてきた成果だ。
少女は、そのことを男の子以上によく理解している。
「絶対応援行くねー、お父さんお母さんに言っといて!」
今まで少女は男の子と交流しながら、少年団の試合を見に行くことはなかった。
試合に出られない姿を見られるのは嫌だろう、と気を利かせてのことだったが、次の試合に出るのなら、それを気にする必要もない。
試合当日、少女は試合会場となる学校の最寄り駅で待っていた。
「遅いなー……」
今日はお父さんとお母さんが朝忙しく、自分で試合会場まで向かわなければならない男の子は、この駅に降り立つはずだ。
そう思いながら十分ほどが経過したとき、高架を走る電車がレールを揺らす音が聞こえ、改札から沢山の人が降りてきた。
その中に、例の男の子がいる。
「あ!」
男の子は、改札を降りて少女を見つけるや否や、大きく手を振って近付いてきた。
普段の練習に持って来るバッグに、タオルやら水筒やらいろいろ詰めており、重そうに肩にかけている。
以前から代わりに持とうかと提案していた少女だったが、男の子は自分のトレーニングにもなるから、と断り続けていた。
そうして、少しずつ重ねてきた。
「やっほー、来たよ~」
「来てくれたんだ! やった、やった!」
少女も手を振り返すと、男の子は近寄って飛び跳ねる。
可愛らしい素振りに微笑んだ少女は、男の子を先導して試合会場に向かう。
「それじゃ行こっかー、こっちだったよね」
「ぼく知ってるよ、なんかいも来たもん」
喜び勇んだ男の子が、信号機のない交差点に飛び出した。
初めてのスタメン、初めての少女の観戦が合わされば、男の子の気分が上がるのも無理はないこと。
……交差点に突っ込んでくる車の姿に気付かないのも、無理はないこと。
「ぁ」
見るからに制御を失った車が、今にも男の子にぶつかろうと迫る。
──もとより、少女は思い立ったらすぐに実行に移してしまう性質。
帰ろうとしない男の子に声を掛けたり、雨が降りしきる中コートに立つ男の子を止めようと駆け出したり。
だから、今も、少女が飛び出してしまうのは、当たり前のこと。
「ぁッ、ぶないっ」
風のように飛び出した少女は、渾身の力を振り絞って、男の子を前方へと突き飛ばした。
重い荷物を持っていた男の子は、そうでもしないと車を避けることができないから。
そのために、自分が鉄塊にぶつかる結果となっても……少女はなんら後悔はない。
「ぅわぁぁぁあ!」
「……ぇ?」
人間を跳ね飛ばした運転手の叫びと、呆けた男の子の喉から漏れた音。
宙を舞った少女の身体は、いくつかの関節が曲がってはいけない方向へと向いていた。
コンクリートにぶつかった少女は、全身から血を流し、頭の骨が歪んでしまった。
もはや、命は長くない。
「あぁ、あ。おねえちゃん」
「ふ、ふふ……うまくやろうとしたけど……むり、だった」
はは、と力なく笑いながら、少女は後悔していた。
飛び出したことや、車に轢かれたこと、命を落とすことに後悔はない。
まだまだ幼い男の子に、凄惨な光景を見せてしまったことに、一抹の後悔を抱いた。
「ぅ……いい、よくきいて」
だから、最後の最後に、トラウマではなく、希望を持って進んでいけるように。
背中を押すのが、彼女が憧れた教え導く者の務めのはずだ。
そう信じるからこそ、少女は残る力を振り絞って、喉を震わせる。
「これから、キミは……もっと、難しいことに、出逢うかもしれない」
「……ぅん」
「でもね、そうなったら、思い出して──あたしとした、約束……自分をだいじに、できることを重ねていく、って」
まともに見えない少女の視界の中で、男の子が頷いた様子が微かに感じ取れた。
身体の熱は失われ、指先に力が入らない。
ああ、死ぬとはこういうことか、とこの期に及んで呑気なことを脳裏に浮かべながら、少女は手を差し伸べた。
「やく、そく、ね」
「ぅん、うん……!」
血が広がるコンクリートの上、男の子は差し出された手の小指に、無理矢理自分の小指を絡ませる。
すっかり体温が無くなってしまった、少女だったものの小指に、男の子はしばらく縋っていた。
「……行かなく、ちゃ」
そして彼は立ち上がり、試合会場へと向かう。
これまで重ねてきた自分を大切に、そして重ねてきた成果を発揮するために。
少女との約束を果たすため、少年は歩み始める。




