Episode of Devils ~妖怪達の話~《Synmi 1》
地元でも有数の広い川の傍を、一人の女子学生が歩く。
コンクリート舗装された堤防の上、一枚の紙をじっと見つめながら、沈んだ足取りで少女は家路についていた。
「はぁ~~~」
少女が大きな溜め息を吐くと、遠くの鉄橋を電車が走る音がする。
おやつどきから少し経ち、まだ帰宅時間には早い時間帯。
きっと電車は誰を乗せるでもなく、定められたレールを走っているだけだろう。
そんな後ろ向きな思考を、少女が重ねていく。
「やっぱ、あたしには、無理なのかな~……」
呟きながら折り畳んで鞄に仕舞った紙は、今日返却された定期試験の結果が記された表だった。
お菓子やポーチでいっぱいの、それでいて綺麗に整理された鞄の中のクリアファイルに入れられたテスト結果が、目下の少女の悩みの種だった。
学生ならテストの結果に一喜一憂するのは当然であり、少女の悩みも一般的な中高生の範囲を超えない程度のもの。
しかし彼女の場合、姉の振る舞いを危惧した親により、妹である彼女に多大な期待が背負わされているのだった。
「こんな調子で、先生なんて」
人を、あるべき姿に導く存在として、彼女は先生という職業に憧れていた。
周囲の人物との衝突を繰り返し、やがて家を出ていった姉の存在と、そんな姉に対して有効な接し方ができなかった両親を含む大人たち。
そして何よりも、最も近くにいながら何もできなかった、自分自身への憤りが、少女を教職に突き動かす原動力だった。
しかし原動力があったとしても、自分の成績が伸び悩んでいれば、前が見えなくなるもの。
「はぁ~~……ん?」
晴れた日の堤防を歩く少女が、河川敷の方に一人の少年の姿を捉えた。
少年は見たところ小学生くらいで、少女よりも五、六歳ほど年下のように思われる。
河川敷の一部にはコンクリート舗装されたストリートスポーツのコートがいくつかあるのだが、少年は一人でバスケットコートを使っていた。
「……」
何とはなしに、少女は堤防から河川敷に繋がる斜めになった草地に足を踏み入れる。
少しずつ少しずつ重ねてきた努力が中々実を結ばない現状で折れそうな心を、同じように努力する人を見ることで奮起させよう、という思惑もあったのかもしれない。
いずれにせよ、この時の少女が何か深いことを考えていたわけではなかった。
<***>
やがて日が傾き、橙色に染まりかけた陽の光を浴びる電車の乗員も、少しずつ増え始めてきただろう頃合い。
「……まだやってる」
少女はずっと、その場に座り込んでいた。
タオルを敷いてその上にお尻を下ろし、時折参考書や単語帳を開きながら、ずっと少年の様子を見ていた。
少年が切り上げるのと同時に帰ろうと思っていた少女だったが、件の少年は未だにバスケットゴールにボールを放り投げる練習を続けていた。
小学生の男の子が夕暮れになっても帰らないのはどうかと思い、少女は意を決して声を掛けた。
「おぉ~い、キミキミ、そこのキミ~」
「……? なに?」
「そろそろ暗くなってきたしさ、もう帰ったら~?」
大きな声で少年に呼びかける少女だが、彼女は内心バクバクだった。
親切心で見知らぬ男の子に声を掛けるだけでも周囲の目に怯えなければならない。
相手の男の子の性格次第では、明日の小学校で不審者情報として報告されてもおかしくない。
けれどその心配は杞憂に終わり、少年はコート傍に置いておいたバッグに荷物を詰めて、少女のところへと駆けあがってきた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「ん~ん、気にしない気にしない……そーだ、キミ、明日もここ来る?」
「え? うん」
二人は会話をしながら土手を上がり、堤防を歩く。
夕陽を背にした少女が、少年の答えを聞いて、ふんふんと頷いた。
「そっか。なら、あたしも来よっかな」
「え、なんで?」
「なんとなく~。頑張ってるの、もっと見たくなったからかな」
本当に、それ以上の理由はない。
どうせ明日は休日で、少女は特段やることがない。
試験の復習を親から言い渡される可能性はあるが、やるべきことを終わらせれば、親からも特に何も言われないだろう。
少女は少年と別れて一人家へ帰るとき、そんなことを思考していた。
<***>
少女が河川敷のコートで少年を見かけた、次の日。
昼までに宿題と復習を一通り終わらせた少女は、ちょっとした勉強用の本と、タオルやスポドリを鞄に詰め、再び河川敷までやってきた。
その日の天気は少し微妙で、空には重そうな雲がかかっている。
「ふぅ、と」
昨日は土手に座っていたが、今日の少女はバスケコート傍のベンチに腰を降ろした。
ベンチにはきちんと屋根が備え付けられていて、日差しや雨を避けることができるようになっている。
彼女が来て少ししたとき、少年も少女の姿に気付いたらしく、コートの上から手を振ってきた。
少女は、微笑みながら手を振り返す。
「がんばれー」
小さな声では聞こえないだろう距離で、少女は少年に激励の言葉を投げた。
別に、答えを期待して声を掛けたわけじゃない。
言うだけ言ってひとまず満足した少女が、自分の鞄から参考書を取り出して目を通し始めた。
そうして、一時間ほど経った頃。
昨晩遅くまで起き、今朝早く起きてテストの復習をしていた少女は、昼ご飯を食べて河川敷まで歩いてきたことで、何時の間にか眠気に襲われていた。
鞄を枕に、ベンチをベッドに横たわっていた少女は、雨が屋根にぶつかる水音で目を覚ました。
「ん……んん?」
目を擦りながら、少女は上半身を起こす。
そして、バスケのコートが目に入って目を丸くした。
「ちょっと、雨降ってきてるって! 風邪ひいちゃうからこっち来な~!」
「はぁ、はぁ……」
少年は、雨が降るコートの上で、ひたすらシュートの練習を重ねていた。
水を吸った服は重くなり、足元は水で滑り、ボールを掴む手もおぼつかなくなっている。
このまま放っておくことは、世話焼きの少女にはとてもできなかった。
急いで手元の折り畳み傘を開き、少女は少年のところへと駆け付けた。
「はい、そこまで! いっかい屋根あるとこ入ろ~!」
「あ……うん……」
少女の手が肩に触れ、少年はようやく我に返った。
大人しく少年は少女に付いて行き、屋根付きベンチの下で少女が持ってきていたタオルを借りる。
「はい、まずはこれで身体拭いて~」
「ありがとう……」
「着替えは? ある? ないならいったん上だけでも脱いじゃってほら、タオル巻いとこ~」
持ち前の世話焼きを発揮して、少女は雨に濡れた少年の身体を冷やさないようにしていく。
中高生の少女を相手にして上半身を曝け出すことに少しためらった少年だが、当の少女が脱がせようとしてくるため、観念して上を脱いだ。
そして借りたタオルで身体中の水分を一通り拭き取り、肩の辺りから腰にかけて隠れるように身にまとった。
「くしゅん」
「ほら、だから言わんこっちゃなーい。これ飲んでほら、あったかいお茶」
「あ、ありがとう」
そう言って、少女は少年に、コップ状の蓋に注いだお茶を差し出した。
春から夏へと移り変わりつつある温かな季節に、温かいお茶を淹れてきた少女の周到さが光る。
蓋のコップに口をつけた身体の芯から温まり、少年はほっと一息を吐く。
「ふぅ……」
「あったまった? ならよかった。調べたらもうあと少しで止むみたいだし、もうちょい雨宿りだね~」
手元の携帯端末で天気予報を調べた少女が、隣に座る少年に言った。
少年は無言でこくりと頷き、そのまま雨音に耳を任せた。
二人は隣同士に並び、少しずつお茶を口に含みながら、屋根を叩きつける水音に聞き入っていた。
そんな中、ふと少女が口を開く。
「ねえ、聞いてもい~?」
「なに?」
「雨が降っても練習するのはすごいけどさ~。キミはなんでそこまでするの~?」
努力を重ねる姿が気に入ったとはいえ、少女は自分の身体を省みないほどの入れ込み方を見過ごすわけにはいかない。
見知った相手がボロボロになっていくのを見るのは、姉の一回でもうたくさんだった。
「……」
「あ~いや、言~たくないならい~けど。身体壊しちゃ元も子もないじゃん? だからさ、ちょっとキミのことが心配で」
自分の気持ちを曝け出して相手の気持ちを問う、教育者として求められる在り方の一つを、この時点の少女は既に獲得していた。
そんな剥き身の接し方をされては、口を閉ざしていた少年も、心を開き出す。
「……ぼくは、才能がないから。みんなより、頑張らないといけないんだ」
「……そうなの?」
「うん」
それから少年は、自分の置かれた境遇と悩みについて話し始めた。
ある日、テレビで中継されていたバスケの試合を目にしてから、その躍動に目を奪われた。
その後両親に頼み込んで、地元の少年団に入ったはいいものの、一年が経過した今でもスターティングメンバ―に選出されないまま。
しまいには、後から入団してきた子に、実力で先を越される始末。
「……それで、焦ってたんだ」
「うん……早く、強くならなきゃ。うまくならなきゃ」
少年はもう一年もすれば小学校を卒業してしまい、今の少年団で活動できるのも今年の夏が最後。
もうあと数か月もすれば、大きい大会はすべて終わってしまう。
ひたすらがむしゃらにバスケをしていたのは、そうした焦りが原因だった。
「うん、だいたいわかった。それじゃ今から、お姉ちゃんがいい話をしてあげよ~う」
世話焼きで呑気な口調の彼女が、どうして〈天狗〉となるに至ったか。
その一端をお届けします。