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前妻

作者: dancing meatball

大切なもの、手に入れたい人などは、壊れないように、丁寧に扱わなければならないという思い込みを捨ててみると、新しい方法が浮かんでくるものです。思い込みは思考の邪魔をします。

 彼は憔悴していた。今にもこの階段から、このホームから、この屋上から、あらゆる物から落ちていきそうな、そんな陰鬱な影を背負っていた。彼には妻がいた。先日死んだ。彼女は湖で死んだ。彼女はうつ病を患っていたらしい。うつ病の原因はわからない。彼なら知っているのだろうが私にはわからない。

 私は彼と同じ会社に勤めている。課は違うが、私は彼を見かけるたび、目で追った。優し気なまなざしをした人だった。そんな彼が、仕事中時折見せる、闘志に燃えたような表情を見るのが好きだった。

 妻が亡くなってから彼はかわってしまった。いつもおどおどしたようすで、何かに怯えているようだった。会社の中で彼の妻が亡くなったことを知っているのは私だけである。そのため、いきなり様子がおかしくなった彼を、同僚たちは変な目で見た。ある昼休み、彼は特に真っ青な顔をしてベンチに座っていた。頭を抱え込んだり、突然後ろを振り返ったりした。思わず声をかけた。

 なんの接点もなかった彼と初めて会話をした。彼の笑顔は、初めはぎこちなかったが、打ち解けるのに時間はかからなかった。何か月もしないうちに私たちの交際は始まり、交際から一年余りで同棲することになった。彼は、前妻が亡くなってから間もなく他の女性と同棲するなんて、前妻にも君にも申し訳ない、と言っていたが、そんな彼を支えるのが私は好きだった。

 ささいなことで喧嘩になった。蒸し暑い夏の日だった。家の近くの湖へ行こうと誘ったことが原因だった。家の窓から見える湖は夏の太陽の光を涼しげに吸収していた。前妻はそこで亡くなった。人が死んだ湖。だが、私にとってはなにか懐かしい感じのする湖だった。


 「ちょっと真紀どうしたの?」

 同僚の裕子が私に尋ねた。昨日彼が怒って鏡に皿を投げつけ、破片が顔や腕やらに刺さり細かい傷がついていた。私は、転んだだけだと言った。彼女は怪訝な顔をした。私は気づかないふりをした。

 家へ帰ると彼が私を待っていた。私のパソコンの画面が壊れていた。彼は、ごめんね、パソコンを落としてしまったんだ、と無表情で言った。そのあとすぐ、「真紀にメールを送ってきた、この男は誰?」と彼は私に尋ねた。幼馴染からのメールだった。ただの幼馴染だよ、そう言って逃げるように自分の部屋へ行った。彼は、「前の妻はこんなことしなかった」などとしばらくつぶやいていた。そのつぶやきは、毎晩毎晩耳鳴りに混ざるようにして私のもとへ届いた。うっとうしい蚊のようだった。


 ある晩、傷口が痛むので台所へ痛み止めをとりにいった。ここ数か月、痛み止めと安定剤は私の常備薬になっていた。突然真っ暗なリビングから女の声が聞こえてきた。

 「湖に来て」

 ぼんやり歩いていた。私の意志ではないようだったが抗う気もなかった。特段恐怖もなかった。秋も半ばの涼しい夜にひんやりとした湖の水が私の意識をはっきりさせた。気づいたら湖の中にいた。遠くで彼の声が聞こえた。いつものように「前の妻はこんなことしなかった」というものではなく、「紗代、やめろ!」というセリフだった。紗代?ああ、前の奥さんの名前だろうな、考えているようで考えていない、そんな状態だった。でも私は紗代じゃない。死ぬ気もない。やっとあなたの妻になれたんだから。前妻なんかに負けていられない。あんな女に。

 彼は私を担いで部屋へ戻り、「何か見たか?いや、なんでもない・・」と言い、部屋を出ていった。


 次の日、仏壇の前に線香がたてられていた。彼が座っていた。前妻の写真を見つめていた。昨晩は私を「紗代」と呼んだ。彼が仏間を出ていき仕事へ向かったあと、私は線香に水をかけ、忌々しげに前妻の写真を見つめた。写真は燃やしてやりたかったが、彼にばれると殴られる、そう思い諦めた。私は、もう会社には行っていなかった。傷を見られて職場の人間にいろいろ噂されるのがいやだった。友人や同僚からの連絡も入らない。携帯もパソコンも取り上げられていた。しかし、それは私にとっても好都合であった。

 昼過ぎ、私は湖のほとりへ行った。まったく怖くなかった。歩き慣れた道だった。湖の底から女が這い上がってきた。紗代。死にぞこないの女。彼の記憶から出ていかない前妻。私は紗代の頭を蹴った。思い切り、頭がもげるほど。無意識に笑い声をあげていた。それでも紗代は私に何かを話しかけてくる。

 「逃げて」

 はっきりそう言った。紗代は私の足首をつかんだまま何度もそう言った。彼が帰ってくるまでそこで休んでいた。木枯らしが芯まで私を冷やしていた。紗代は消えていた。彼が私を連れ戻しにきた。もう湖には行くな、と言われた。私は

 「彼女が私を呼ばなければもう湖には行かないわ」

と答えた。彼は真っ青な顔をしていた。私にはそれが妙におかしかった。笑いが止まらなかった。

 

 それからしばらくは、彼は私がいないように扱った。それでも、「逃げて」と紗代の声が聞こえると「うるさい!」と私が叫ぶので、その時だけは気味悪いものをみるように私を見た。彼はいろいろなところからいろいろな種類の御札やお守りを買ってきた。


 その日は特に寒い夜だった。冬が近づいていた。湖は穏やかに月を映し出していた。最近では、彼もまた挙動不審になり、何度も「紗代やめろ」とつぶやいたり、叫んだりするようになっていた。私のほうは、結婚当初感じていた彼への恐怖は薄れ、落ち着きを取り戻していた。

 「紗代やめてくれ!」

 いつもより大きな声が聞こえた。彼だった。目の前には紗代がいる。彼は私の後ろへ隠れた。紗代は私には目もくれず、彼に近づいていった。紗代へ対する恐れからであろうとも、彼が紗代を忘れられないのは我慢ならなかった。前妻には勝てない。どれだけ頑張っても、どれだけ我慢しても、前妻には勝てない。特に死んでしまった前妻には。死んでしまった紗代に、激しい怒りを感じた。あれは失敗だった。

 紗代は、「あなたのせいよ」と言いながら彼にしがみついている。彼は「俺が悪かった!もう許してくれ!」と謝り続けている。紗代の頭部はつぶれていた。紗代は頭から血を流していた。落とすのには時間がかかるだろう、あの時のように。

 「お前が勝手に死んだんだろ!俺のせいじゃない!」

 彼が恐怖のあまり叫んだ。

 紗代は

 「お前のせいだ・・」

 と言いながら彼の首に手をかけている。

 私は、リビングにあった大きな花瓶で紗代の頭を何度も殴った。花瓶が割れても殴り続けた。やっと私のものになった彼を、死んでもなお自分のものにしようとする紗代の卑しさに腹が立った。私は無我夢中で殴り続けた。あの夜はすぐに動かなくなったのに、今晩はやけにしぶとい。当然と言えば当然だ。私はあの時とは違い、生きた紗代ではなく死んでいる紗代を殴っているのだから。

 「私の省吾だ!お前には渡さない、この死にぞこないが!」

 紗代は「なぜ?逃げて、次はあなたが」と何か後に続きそうなことを言っていたが、私が殴ることをやめないので、そのうち苦しそうなうめき声をあげて消えた。


 紗代はバカだった。生きているころからバカだった。私が、湖の前で泣いている紗代に声をかけると、すんなり私を受け入れ、油断し、私に殺された。死体はその後どうなったのかわからない。私は、死体の後始末はしていない。しかし、私がこの家で彼と同棲を始めたころには、その死体はなくなっていた。処理をしたのが誰なのかは大体の見当はついていた。


 彼は部屋の隅で震えていた。わけがわからない、という顔だった。いいのよ、なにも知らなくて、と彼に優しく言うと、私は割れた花瓶を片付けた。まだ彼は気がふれたように「紗代・・・紗代・・・」と繰り返している。はっきりとわかった。彼は前妻を忘れない。私が間違っていた。生きていては、彼の思考や思い出までは私のものにできない。私は、なにか割れにくくてかたくて、大きいものを探したが、前妻と同じ死に方ではいやだ、と思い直し、持ちやすくて汚れにくい刃物にした。彼は「真紀やめろ!」と叫んだ。ようやく、紗代ではなく私の名前をはっきりと叫んだ。そう、それでいいのよ、最後に強烈な私の印象とともに彼は死に、完全に私のものになる。前妻の事は思い出さない。もう死ぬのだから。


彼を湖の底に沈めた。翌日から会社に復帰した。彼から受けた暴力が原因で別れたことにした。同僚たちは私に同情した。彼が省吾であることは誰にも言わなかった。


昼休みになった。同僚の裕子と昼食を食べた。彼と前妻以外に会話をするのは久しぶりだった。すると耳元ではっきりと「お前のせいだ」と、省吾の声がきこえた。目の前にいる裕子が省吾にかわっていた。私は逃げた。後方から「ちょっと真紀!」と、裕子の声がした。省吾に殺されるかもしれない。でも、それでもかまわなかった。省吾は今、紗代ではなく、私のことを想っている。


死んだ前妻にはかなわない?決してそんなことはない。今、私は省吾の唯一の情熱の矛先である。






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