序章 男の語り
進化いや、覚醒と言ったほうが正しいだろう。
それはじわりじわりと我々を蝕み、そして今も進んでいる。
我々に純愛の子守唄を歌い、慈愛のベッドを揺らしながら。
我々はどれほど年を取っていようがいまいが、赤子であったことはまず間違いない。
母の胎内に収まり溶岩の流動にも似た心の臓の轟くような音が耳朶する中をただ過ごしていたに過ぎない。
しかしそれも既に過ぎ去った話だ。
われわれ人類ははるかに居心地がいい胎内から引きずり出され、
怖気と狂気が蔓延る世界で産声を上げたのだ。
それに答える母は厳しく、そして痛烈だった。
弱き者を刈り取り、強きもののみを厳選する世界。
狂っていたといっても過言ではないかもしれない。いや、そうに違いないだろう。
国家などというものは既に解体され、用を為さず、人類はその日の暮らしをする金を集め
秒針の刻む音を聞き、隣人の死に恐怖を抱きながら安堵する日々を過ごしていた。
愚かなものだ。
世界を厳しく、そして痛烈にしたのは母の胎内にいた我々だったのだ。
既に母は死の灰を撒く死地となり傍にいれば数年とかからずに我々の体が腐り落ち果てる非情なる大地へと姿を変えていた。
だから、我々は逃げたのだ。
空へ。親を捨て。
生憎なことに母の傍を歩く足はなくとも空を飛ぶ翼は持っていたのだ。
そして我々は覚醒しまもなく親離れをし、飛び立った。
まぁ、兄弟の三分の一は母の下で幸福なる最期を迎えたが。
だが、何がどうであれ、遺伝子は引き継がれるものだ。
早々に親元を離れた我々とて例外ではない。
あの狂った、遺伝子を引き継いでいるのだ。
もはや我々は人類とは呼べないのかもしれない。
強靭な鱗を有すもの。
翼を有すもの。
角を有すもの。
果てには腕が生えたり口が増えたりとした者もいた。
過去の人類という種類にカテゴライズするには些か難しいだろう。
しかしその種は我々の根底に眠っていた。
我々の底の底の底に眠っていたそのおぞましくも懐かしい母の置き土産は
我々の母への非情なる贈り物によって芽吹いたのだ。
揺り篭のなかでゆっくりと葉を広げたそれは急速に広がった。
そう、急速に、瞬く間に。広がっていったのだ。
その恐るべき症状、いや、現象の名は「アニマ」と何処かの学者によって付けられた。
こんな状態を引き起こすことが根源だというのか?
では今まで数千年を生きてきた我々の祖先の姿はなんだったというのか。
今の私たちの姿が己の底にあるものだというのか。
それを問い詰めようにも既に名付け親は母なる大地の元へ還っていった。
だがそれも今となってはどうでも良いことだ。
問題なのは、今もまだ人類は滅びていないということだ。
滅びていなければ物語が生まれる。
ここで一つ話をしよう。
まだ誰にも話したことのない取って置きだ。
まぁ、取って置きといってもなんてことはない。
日々を生きるとある少年の話だ。
だが私はこの話が大好きでね。
今度小説にでもしようかと思っているんだ。
是非聞いていってほしい。
さぁ、スープも用意してある。
夜は長い。
ゆっくりと聞いて行ってくれ。
始まりはこうだ……。