茨の魔術師①
マンションを出ると、すでに迎えの車とやらが、入り口の前に横づけされていた。
何のへんてつもないメタリックブラックの普通車で、運転していたのは、茶色い髪に茶色い瞳をした、やはり白人系の若い男だ。
「どうぞ。ご家族のもとまで、ご案内いたします」
申し合わせたように、流暢な日本語。
穏やかな表情。
つい一時間ばかり前に別れを告げたばかりのジェマとかいう女性を思いださせる、これといった特徴もない男だ。
その身にまとっているのは、生成りの開襟シャツと、グレーのスラックスである。
しかし――こいつだって、この悪辣な誘拐騒ぎの共犯者であることに間違いはない。
俺は無言のまま、後部座席のドアに手をかけた。
その体勢のまま、ふっとトラメを振り返る。
トラメもまた――無言だ。
俺のほうを、見ようともしない。
護符を外し、携帯電話も部屋に置いてきたこの状態で、敵の手に落ちてしまえば……もう、七星の助けも期待できない。
ナギをこの手に取り戻すという目的のために、俺にはこうするしか選択肢がないのだが。トラメは、どう思っているのだろう。
だけど……トラメにどう思われようが、俺にはナギを見捨てることなど、できない。
俺は、激情の塊を腹の底に飲み下しながら、後部座席に乗りこんだ。
トラメも同じように乗りこんでくる。その背後に、マンションの入り口でたたずむ『ダブル・ゼータ』の姿が、ちらりと見えた。
『ダブル・ゼータ』の任務は、ここまでであるらしい。男はその不吉な包帯野郎にむかって小さく会釈をしてから、すみやかに車を発進させた。
「一時間ほどかかりますので、それまではどうかおくつろぎください」
くつろげるかよ、この糞魔術師め。
本当はこんな連中とは口もききたくなかったが、黙りこんでいても腹の中が灼けただれてしまいそうだったので、俺は情報の収集を試みた。
「おい。あんたもさっき、あの中にいた魔術師のひとりなのか? ソードだかバトンだか知らねェけどよ」
「いえ。私は『剣のA』にお仕えする従魔術師です。立場としては、魔術師の見習いです」
「ふーん。……なあ、これはもう、あんたたちが七星と手を組む気はないっていう解釈でいいのかよ?」
「……従魔術師の我々にはお答えしかねる質問ですね。私どもは、主人たる『剣のA』の手であり足である立場に過ぎないのです」
「なるほどね。だから何の罪悪感もなく、薄汚ねえ誘拐なんざの片棒をかつげるってわけか。いいご身分だぜ、まったくよ」
そんな風に吐き捨てたとき、隣りに座ったトラメが無言で俺の手に手を重ねてきた。
(平静な心情を保てぬなら、よけいな口を叩くな。状況が不利になるだけだぞ、うつけ者め)
俺はハッとして、トラメを振り返る。
トラメは正面を向いたまま、横目で俺をにらみつけていた。
(こんな木っ端を相手にしたところで、何にもなるまい。真の敵が姿を現すまで、力は溜めておけ)
トラメが念話など使うのは、珍しいことだ。
いつも通りに黄色く光っているその瞳を、俺は食い入るように見つめ返した。
(トラメ。……またお前を面倒なことに巻き込んじまうな)
(ふん。今さら何をぬかしている。貴様に召喚されて以来、面倒でなかった時間のほうが短いぐらいではないか)
相も変らぬ仏頂面だが、思いのほか、トラメは平静であるようだった。
(敵の思惑もわからぬうちに、無駄にあがくな。貴様がいきりたったところで、何も事態は改善されん)
(ああ。だけどよ……)
敵の思惑がわからないから、俺はよけいに腹が煮えるのだ。
こんなことをして、何になる?
ナギを誘拐して、俺とトラメをおびきだして……それでいったい、何を得ようというのだろう?
やはり、俺たちを人質にして、七星を追い詰めようという算段なのか?
俺に人質としての価値などない、と思わせるための三文芝居は、やはり何の効果もなかったということなのだろうか?
(……だから、そのように頭を悩ませても無益だと言うておるのだ。下手の考えなんとやらという格言が、貴様らの世界にはあったはずであろう?)
(ナギがさらわれちまったっていうのに、そんな冷静でいられるかよ。……くそっ! 俺はともかく、まさか七星のやつが悪巧みで出しぬかれるなんてな)
いや。七星だって、ナギの安否を最初から気にしていた。気にしていたからこそ、あの忌々しい会見が終わるなり、俺に確認の連絡を入れさせたのだ。
その数分後だか数十分後だかに、ナギはさらわれてしまったのだろう。
それに……やっぱり核となるのは、『ダブル・ゼータ』の存在だ。
結界だけではなく護符の効力さえも無効化してしまう、あんなイレギュラーなやつが存在することを、七星は知らなかった。
知っていれば、きっと、マンションに到着した際、本当にナギが無事かどうか、あいつはもう一度確認してくれたはずだ。
かえすがえすも、あの包帯野郎が、憎らしい。
(なあ。あの包帯野郎は、いったい何なんだろうな?)
トラメもあいつには何か思うところがあるようだった。
そう思って、話を振ってみたのだが……とたんにトラメは、目を半眼にしてその心情を隠してしまった。
(それがわかれば、苦労はせん。あやつは――奇妙だ)
奇妙。
危険でも、憎いでもなく――奇妙?
なんとも煮えきらない言葉だった。
俺はもうちょっとトラメの話を聞きたかったのだが、トラメはそれ以上何も語らず、俺の手からも手を離して、そのまま黙りこくってしまった。
そこまであからさまに拒絶されてしまえば、俺にだって食い下がるほどの理由はない。
今はあんな包帯野郎よりも、刺青野郎のほうが大問題だ。
あとはもう、誰も口をきこうとはしないまま――車はじょじょにに、うらさびしい区域へと入りこんでいく。
緑が、深い。
車で一時間もかかる場所では、俺にとっては完全に活動範囲外の土地だ。
べつだん目的地を隠すつもりはないようだが。見覚えのない道ばかりなので、ここがどこなのか見当もつけられない。
やがて、あたりは完全に森林地帯の様相を呈しはじめ、道も未舗装の砂利道へと移り変わり。
きっかり一時間後、車はそこに到着した。
そこは――
俺にとって、まったく意想外の場所だった。




