見えざる刃⑤
「……つくづく、くだらん連中だな」
左腕一本で配管にぶらさがったトラメが感情の欠落した声でつぶやき、それから、右腕を眼下の敵たちに突きつけた。
「我が同胞たるネヌファの子らよ。我に害なす敵を斬り裂け!」
いつぞやの海辺でも聞いた、魔法の呪文。
不可視の衝撃波、風の刃がうなりをあげて、イピリアたちに襲いかかる。
が、イピリアたちは表情ひとつ変えぬまま、とぷんと水中に没してしまった。
風の刃が水面を叩き、派手な音をたてて水しぶきを飛散させる。
「グーロ。むやみに精霊魔法など使うな。私の服が濡れたではないか」
同じように天井にぶらさがったアクラブが、赤い目を光らせて文句を言った。
「やかましいわ。だったら貴様があの中に飛びこんで、きゃつらを引きずりだしてくるがいい。水中において無力な毒虫風情では、溺れ死ぬのが落ちであろうがな」
「むやみに水を恐れているのはお前のほうだろうが、グーロ。まあ、大喰らいたるグーロならば、胃袋の重みで身動きも取れなくなるのは当然かもしれんがな」
いがみあってる場合かと、俺はひとりで歯噛みした。
そうこうしているうちに、ようやくあちこちから噴射されていた注水も停止していたが、地下室には、すでにたっぷりと二メートルぐらいの高さにまで水が満たされてしまっている。
天井の高い部屋なので、二人の足先から水面までまだ二メートルぐらいの余裕はあったが……これでは、完全に狙い撃ちの的である。
そんな俺の不安感に応じるかのごとく、水面に渦が発生する。
そこから射出された水の矛槍が、ミニチュアの竜巻みたいに螺旋を描きながら、天井の二人に襲いかかった。
トラメは右に、アクラブは左へと飛びすさり、水の槍は、二人のつかんでいた配管に穴をあける。
鉄の配管は紙くずみたいに砕け散り、水の槍は、盛大に弾け散った。
別の配管に逃れた二人に、また複数の竜巻が射出される。
「……くだらん水芸だ」
トラメは野生の獣を思わせる身軽さで宙を舞い、今度は天井から横合いの壁へと飛び移った。
その途上で、左腕のみを巨獣のそれへと変化させて、その鉤爪をコンクリにめりこませる。
「確かに、くだらんな、このていどの手妻で私を討とうなどとは、見くびられたものだ」
そんな風にのたまうアクラブは、もうちょっとおぞましい姿に成り果てていた。
蠍の本性をもつアクラブは、脇腹から生やした二対の足で、壁に張りついていたのである。
赤黒く、節くれだった、毒虫の足だ。
それはまるで、肥大化した肋骨が脇腹の肉を突き破って顔をのぞかせたかのような有り様で……言っては悪いが、なかなかに気色が悪い。
「しかし、これでは埒があかん。いっそのこと、私の魔力でこの部屋ごと灼きつくしてくれようか」
不穏なつぶやきをもらすアクラブの顔や手に、ぼうっと赤い呪術的な紋様が浮かびあがる。
さらにはその赤い髪までもがざわざわと生き物のように蠢きだし、不可視の圧力を発散させ始めた。
そんなアクラブの奇怪な変貌を横目で眺めつつ、トラメは「灼きつくしてどうするのだ、毒虫め」と言い捨てる。
「もう当初の目的を失念してしまったのか、貴様は? 深手を負わさずに仕留めるというのが、この茶番の条件であったろうが?」
「ふん。このような茶番で取り沙汰されているのは、お前とコカトリスの身柄だろう、グーロ。お前たちが封印されようが滅されようが、私にとっては、いかほどの痛手でもないが……」
と、アクラブが赤い唇を吊りあげて笑う。
「……しかし、イピリア風情もあしらえないのかと魔術師どもに侮られるのも業腹だな。少しばかり、遊んでやることにするか」
言うが早いか、アクラブの両腕がめきめきと音をたてて、巨大な鋏へと変化していった。
ギルタブルルの恐ろしい本性は、俺も一度だけ目にしたことはあるが。アクラブがここまでその姿をあらわにするのを見るのは、初めてだ。
凶悪にして獰猛な、同種喰いの幻獣ギルタブルル……アクラブはもちろん頼もしい味方だが、二度とこのように恐ろしい幻獣を敵に回したくはないなと再認識させられてしまう。
「水の中にさえ潜んでいれば、安全だとでも考えているのかな、このヤモリどもめは」
不敵に笑うアクラブのもとに、螺旋の水流が襲いかかる。
その一撃を、アクラブは右腕のひと払いで消滅してみせた。
赤黒い甲羅に覆われたその右腕に触れるなり、水流の槍は一瞬で蒸発してしまったのだった。
「ちょうど隠り世で得た魔力をもてあましていた頃合いだ。逃げそこなって死ぬなよ、ヤモリども」
アクラブが、さらに右腕で虚空を薙ぎはらう。
すると、鋏の先端からこちらは紅蓮の炎の槍が生まれいで、渦を巻く水面へと降りそそがれた。
ボシュッ、と物凄い音色をあげて、大量の水が蒸発する。
その水蒸気で、地下室は一気に真っ白く染めあげられてしまった。
開いた窓から俺たちのほうまでにも、白い熱風が勢いよく吹き寄せてくる。
「そら、そちらは二匹がかりだろうが? 逃げまどっていないで反撃してみせたらどうだ、ヤモリども?」
もやのかかった地下室から、さらに爆発音のような音色が炸裂し、そのたびに、視界はいっそう悪く成り果てていく。
何だかもう、無茶苦茶だ。
しょせんこのような室内で四体もの幻獣を闘わせよう、というのが無茶な話だったのだろう。
トラメのやつは大丈夫なのかと、俺はもやの向こうに目を凝らそうとした。
すると……奇妙な物体が、俺の鼻先にずいっと突きつけられてきた。
年季の入った黒革の鞘に収められた、日本刀の刀身だ。
ぎょっと身を引く俺の動きに合わせて、日本刀は、さらに近づいてくる。
俺はおもいきり眉を寄せて、その所有者をにらみつけてやった。
「何だよ? 別に勝負の邪魔なんてしてねェだろ? いきなり物騒なもんを突きつけないでくれよ」
暗灰色のフードつきマントをまとった魔術師が、感情のない目で俺を見返してくる。
それはもちろん、サイ・ミフネだった。
いつのまにここまで接近されてしまっていたのか。みんな同じ格好をしていたので、まったく気づくことができなかった。
「これ以上近づくなって言うんなら近づかねェよ。だからその物騒なもんをひっこめてくれ、おっさん」
妖刀、『精霊殺し』
この世ならぬものを断ち切ることができるというその魔剣は、鞘に収まったままでも、物理的な切れ味を発揮することができるのだ。
というか、抜き身の状態ならば霊的な存在を、鞘に収まった状態ならば霊的でない存在を斬れる、という、何とも取り扱いの厄介な刀であるらしい。
その切れ味は、かつてこの俺も体感させていただいことがある。右の頬にはまだうっすらとその痕が残されているのだから、忘れたくても忘れられない。
「……おい、聞いてんのかよ、おっさん?」
返事は、ない。
それどころか、革鞘の日本刀はいっそう俺のほうに近づいてきて、ついには咽喉もとにぴたりと押しあてられてしまった。
ここに至って、俺はようやく危機感をかきたてられる。
「どういうつもりだよ? あんた、何を考えてるんだ?」
サイは、あくまで無表情だ。
無表情に、俺の咽喉もとへと刀を突きつけている。
怒りよりも、驚きよりも、俺は「何故?」という強烈な不審感にとらわれた。
何故、どうしてこのタイミングで、こいつが俺に刀を突きつけてくるのだ?
まさか……こいつは本当に、こうして騙し討ちをするために、俺にもこの場へ馳せ参じろという要求をしてきたのだろうか?
いや。
それならそれで、脅し文句のひとつも吐かないのは、何故だ?
こんな風に、ロボットみたいな無表情をしているのは、何故だ?
言葉を交わす手間さえはぶいて、ただ俺のことを殺したいだけなのか?
だったら、ただ刀を突きつけてくるだけで阿呆のように立ちつくしているのは、何故だ?
何か……すべてが、ちぐはぐだった。
「ちょっと! レディの身体に気安く触らないでくださいな!」
と……いきなり七星の大声が回廊に響きわたる。
そして、鈍い打撃の音色に、「ぐえ……」という男のうめき声。
どうやら俺のすぐ隣りでも、何か異常事態が勃発したらしい。
しかし、この状態ではそちらを振り返ることすら、ままならない。
俺はもう一度、サイに真意を問い質そうとした。
その、瞬間。
黄金色の輝きが、俺の目の前で、爆発した。
「うわあっ!」
まったくわけもわからないまま、俺はコンクリの床に押し倒される。
それと同時に、花のような若草のような、とてもよく知っているのになかなか慣れることのできない不思議な香りが、鼻腔をくすぐった。
トラメの香りだ、これは。
俺は床に仰向けで倒れており。
その胸もとを、トラメの右手の平で押さえつけられており。
そして、トラメは……金色の毛皮が生えそろった巨獣の左手の鉤爪で、日本刀の革鞘を握りこんでいた。
「……油断するなと言うたであろうが、このうつけ者め」
横目で、じろりとトラメににらまれる。
その白い面には、金色の紋様がびっしりと浮かびあがっていた。
「トラメ、お前……?」
こいつは今、どうやってここまで移動してきたのだろう?
あの、お得意の移動術とかいう手管だろうか?
そうだとしても……まるで、瞬間移動でもしてのけたかのような、唐突に過ぎる登場ぷりだった。
「……手を放せ、グーロ」
と、サイがつぶやくように言う。
「隠り身の力を解放していない幻獣は、どちらかというと現し世に属する存在だ。抜き身の刀を素手で握っているようなものだぞ、それは」
サイも、刀をもぎ取られぬように、両手で柄を握っている。
トラメは、黄色く燃える目をそちらにさしむけた。
「ならば、このまま刀身をへし折ってくれようか? さすれば貴様の寿命もそれ以上は喰われずに済むであろう、魔術師よ」
「やめておけ。今のお前にそこまでの力はない。……それとも、もうひとたび己の生命力を燃やして隠り身の力を解放してしまうつもりか?」
トラメの瞳が、すっと半眼に隠される。
すると……あまりに場違いな拍手の音と、癇にさわる女の笑い声とが、回廊中に響きわたった。
「ギハハハハ! まさか隠り身の力を解放してまで、御主人様を救いに駆けつけるとはな! 上出来以上の上出来だ! 手前らの相思相愛っぷりは常軌を逸してるぜ、小僧ども!」
もちろん、キャンディスである。
「キャンディスさん。これはいったいどういうことなのですか? ワタシとの和睦は完全に放棄する心づもりなのでありましょうかね、この顛末は?」
苦々しい怒りに満ちた、七星の声。
そちらを振り返った俺は、また呆れ返ることになった。
七星は、魔術師のひとりを床に組みふせ、その右腕をぎりぎりとねじりあげた体勢のまま、キャンディスのことをにらみつけていたのだった。
さらに、床には、小ぶりな銀の短剣も転がっている。
俺と同じように刃物で威嚇された七星は、自力で窮地を脱することに成功したのだろう。
ちなみに、組みふせられて苦悶のうめき声をあげているのは、スキンヘッドに呪術的な刺青を刻みつけた男……『剣のA』テオボルト・ギュンターだった。
「和睦を放棄? 何でだよ? 俺様たちが、何か背信的な行為にでも及んだってのか?」
「及んだじゃないですか。このテオボルトさんと、サイさんが」
「まったくもって、身に覚えがねえなあ。……おい、No.12、手前はこの俺様からどういう命令を承ったんだったっけか? 包み隠さず、説明してさしあげろや」
No.12『吊るされた男』のサイ・ミフネは、表情を消したまま、静かに答えた。
「……幻獣たちの勝負が開始されてから九十秒後に、磯月湊の首に刀を突きつけろ。ただし、その身にかすり傷のひとつでもつけたときには、自分の右腕を斬り落として、その無作法をわびるべし……という命を、念話で承りました」
「と、いうこった。手前らを傷つけるつもりなんざ、これっぽっちもなかったんだから、水に流せや、モナミ・ナナホシ」
「わかりませんね。だったら、どうしてそのようなイタズラを仕掛けたのですか? しかも、大事な勝負の最中に」
「勝負なんざ、茶番だろ。天然の海や沼ん中ならまだしも、こんなちっぽけな水たまりでイピリアなんぞがギルタブルルにかなうもんかよ? 俺様が確認したかったのは、いざというときに手前らの幻獣がどれほどの忠誠心を発揮するか、ってことだったのさ」
悪魔のようにニタニタと笑いながら、キャンディスがあわれなテオボルトを見下ろす。
「ま、残念ながら、手前のほうは相手が雑魚すぎて、何の確認もできなかったけどな。大の男がそんな小娘にやりこめられて、みっともねえったらねえなあ? それでも手前は誉れ高き『剣』の頭かよ、ええ、刺青糞野郎?」
「……ちょっと気の毒になってきたから、アナタは解放してあげませう」
用心深く短剣を遠くに蹴り飛ばしてから、七星はテオボルトの右腕を解放した。
テオボルトは、屈辱と怒りに骸骨のような顔を真っ青にしながら、キャンディスの方向に頭を下げる。
「そういったわけなので、お前も引いてくれんか、グーロよ?」
サイの言葉に、トラメは「ふん」と革鞘から手を放す。
そして俺は、トラメに胸ぐらをつかまれて、引きずり起こされることになった。
「……我の顔に泥を塗ってはおらぬだろうな、ミナトよ?」
「ああ、おかげさまで、かすり傷ひとつねェよ」
内心の苛立ちを噛み殺しながら、俺はひとつうなずいてみせる。
もちろん俺が苛立っているのは、トラメにではなく、キャンディスにだ。
「そんな不機嫌そうな面をするなよ、小僧。手前らは、見事に合格したんだからよ」
「……合格?」
「ああ、そうだ。そこのグーロは、何の命令もないままに、身を挺して手前を救出した。しかも、ほんの一瞬とはいえ、自分の生命を燃やしてまで、な。正直に言って、そこまで調教が進んでるとは思ってなかったぜ、俺様は」
それはいったい、何の話なのだ。
自分の生命を燃やして……隠り身の力を、解放した?
それは、もしかして……
「おい、トラメ。お前、まさか……ラケルタと同じ真似をしたんじゃないだろうな?」
ほとんど反射的にトラメの細い肩をひっつかみ、俺はその不機嫌そうな顔をにらみつけた。
トラメは、いっそう目を細め……これ以上ないぐらいに、口をへの字にしてしまう。
「……大丈夫だよ。本当に一瞬のことだったから。あのヤクモミワさんの溺愛するコカトリスさんみたいにお肌がポロポロ崩れだしたりはしないってば」
そう答えたのは、七星である。
それじゃあ……トラメのやつは、本当にそんな真似をしでかしてしまったのか。
自身の生命を燃やし、エルバハと闘って……そして、今もなおそのときのダメージから回復しきれていないラケルタの姿を思いだし、俺は、ぎりっと奥歯を噛み鳴らす。
「馬鹿かよ、お前? それが幻獣にとってどれだけヤバいことなのかは、俺なんかよりお前のほうがよくわかってんだろ? あんなハッタリの虚仮威しに引っかかって、そんな無茶な真似をするなんて……」
「やかましいわ。うかうかと敵の手に落ちかけていた貴様に、そのような文句を抜かされる筋合いはない」
心の底から不機嫌そうに言い、トラメはぷいっとそっぽを向いてしまう。
その姿を見て、キャンディスはまた「ギハハハハ」と大笑いした。
「面白えなあ。面白えよ、手前らは。……おい、ミナト・イソツキ。手前が邪法の召喚儀式に手を出した罪は、これで不問にしてやるよ。あっちのほうも、どうやら決着がついたみたいだしなあ?」
そんな言葉と同時に、何か黒い物体がべしゃりとコンクリの床に叩きつけられた。
イピリアの、片割れだ。
全身ずぶ濡れでぬらぬらと光る白皙の幻獣は、床に倒れこんだまま、ごぼっと赤い血の塊を吐きだした。
「茶番は終了だ。まさかこれしきの手傷でくたばったりはしないだろうな、ヤモリども?」
白い蒸気のあふれる地下室の窓から、アクラブがするりと姿を現す。
その、巨大な鋏と化した右腕には、もう一体のイピリアが首をはさまれて吊り上げられていた。
イピリアは、壊れた人形のようにぐったりとしており、薄い唇から一筋の赤い糸をしたたらせている。
「まあ、可哀想に。……ギルタブルルよ、私の大事な幻獣を解放していただけるかしら?」
ちっとも心を揺らしている様子もなく、マルヴィナがアクラブのほうに両腕をさしのべた。
アクラブは、嗜虐的な笑みを口もとに張りつかせたまま、その足もとにイピリアの身体を放り捨てる。
「……それでは、これでワタシからの提案を、ワタシの条件通りに検討していただける、ということですわね?」
トラメに劣らず不機嫌そうな顔をした七星に向かって、キャンディスは「ま、そういうことになっちまうな」と、うそぶいた。
「最終決断を下すのは団長様だけどよ、俺様たちは、その条件を飲むしかない、と報告しておいてやんよ。『名無き黄昏』の日本における活動拠点を殲滅するまで、モナミ・ナナホシと協力関係を結ぶ。その間は、決しておたがいに敵対的な行為には及ばない。……そして、『名無き黄昏』とは無関係であると思われるミナト・イソツキら四名の人間、および二体の幻獣にも危害は加えない……だったっけか?」
「そうですね。過不足はないと思われます」
「よし。この場では、いったんそれで手打ちだな。……それじゃあ、ここから先は、まったく別の話として聞いてもらおうか、ミナト・イソツキ」
「……は?」
トラメの一件で頭にきていた俺は、ついつい反抗的に応じてしまう。
そんな俺を見返しながら、キャンディスは言った。
実に、とんでもないことを言いきってくれやがった。
「これは、手前個人に対する提案だ。……ミナト・イソツキ、手前は『暁の剣団』に入団する気は、ねえか?」




