第二章の3 都立九賽病院 4F
「さて。部屋は……」
私は窓を完全に塞ぐと、振りかえって室内を眺めた。
私たちが飛び込んだ病室には、ゾンビが隠れている様子はなかった。
ベッドのカーテンなどが視界を少し邪魔しているが、私のセンサーは布程度なら問題なく透過できる。
ここは安全だ。ひとまずだが。
「では、周囲を固めますか」
私はゾンビが部屋にいなかった幸運を喜びつつ、すばやく部屋の壁に触れて回った。
私の指が病室の壁や、ドアに触るたびに「ピシリ」と硬い音を立てた。その様子を見た由佳さんが私に向かって言った。
「おじさん? 何をしたの?」
「ソンビたちが入って来れないよう、念力を使いました。ざっとですが」
これは『置く』念力だ。
応急的なもので、本格的に固めたわけではないが、これでいきなり襲われる心配は減るだろう。
私は悪魔にしては、こういった力はほとんど使えないほうだが。ゾンビ程度なら十分に有効だろう。
……他の悪魔のように強力な魔術を使えれば、今のような状況では便利なのだが……。いかんせん、私は後方支援に特化した悪魔である。
「……ちょっと心配ですから、今回はさらにバリケードを固めておきましょうか。よいしょ」
私は病室内にあったベッドや椅子や棚、パーティションなどを念力で浮かすと、廊下側の壁など脆そうな場所に強く押し付けた。
はっ!
念力を込めると、家具がミシリ……! と音を出して空中で固まった。
ふう、疲れる。やはり私は、物理的な力の行使は少々苦手である。
「こうして重ねておけば、まず侵入されないでしょう。一応念のために、カーテンなどもかぶせて、念力で巻きつけて固めておきます」
「ず、ずいぶんきつく締めるんだね」
「ここに入ってこられては困りますからね。それでは、私は少し出掛けてきますので、由佳さんはここで待っていてください」
「え?」
由佳さんが振り向き、ぽかんと口を開けた。
「でかけるって。……へ? わ、わたし一人で、ここにいるの?」
「はい。少しの間だけですが」
「そんなぁ!? 急にどこ行くの? そんなこと言われても、ゾンビだらけなのに」
由佳さんが不安そうに私を見てくる。私は言った、
「大丈夫です。そのためにこれだけ固めたのですから。この病院に入ったのは、偶然ではありますが、少々病院に用がありまして、拝借したい物があったんです。
今から探しに行くのですが、由佳さんは私についてくるより、ここに残った方が安全だと思います」
「やだよ! わたしも行くよ!」
「由佳さん。ここは病院です。つまり治療中の大勢の『人間』がいた場所です。……本当に私についてきますか?」
「うっ」
由佳さんが顔をしかめた。この建物の中には、大勢のゾンビたちがうようよいることに気がついたらしい。
「待っていたほうが賢明かと。物陰から突然襲われれば、私でも不覚を取る可能性がある。あなたをそんな危険には晒せない」
「で、でも……。もしバリケードが破られたら、わたし死んじゃうよ!? おじさんがそばにいなかったら」
「これだけの防御なら、ゾンビが全て破って入って来るまでに最低二時間はかかります。私は30分で戻ってきますから」
私は由佳さんを宥めて言った。
実際、私はわりと本気で念力を張ったので、どれだけの数で来られても、一日程度は余裕で持つと考えている。
由佳さんは心配そうだった。それはそうだろう……だが、ゾンビだらけの病院内を行くより、ここにいたほうが確実に安全だ。
「椅子を一つ残しておいたので、座って待っていてください。雑誌などもいくらかありますので、それで少し気を紛らせて」
「う、うん……」
「すぐに戻ってきますから。では」
私は由佳さんに背を向けると、入り口の引き戸の念力を一時的に解き、半分ほど開けた。
すると由佳さんが、後ろから私に声をかけてきた。
「おじさん待って。や、やっぱり怖い。バリケードがあっても、それって逆に言えば、万が一入ってこられたら逃げ道がないってことじゃない?」
「む。言われてみれば、そうですね……では、こうしましょう」
私は、自分の手のひらをきつく握り締めた。青白い光が走る。
手を開くと、そこに生まれた、小さめの青いガラス球を取って由佳さんに手渡した。
「これは?」
「『魔術破壊の魔石』と言います。悪魔のかけた魔法や魔術を、一時的に解除し、無効化する効果を持ちます。
ドアにこのガラス球を触れさせれば、その間だけ念力が解けるでしょう。万が一の時は、これを使って逃げて下さい」
「う、うん……」
由佳さんが小さく頷いた。私は彼女を安心させようと、少し微笑んで見せてから、ドアを締めた。
ドアに念力を注ぎ、ピシリ、と固まる。近くの廊下に置かれていた待合椅子を持ち上げ、上から押し付けておく。
「さて。欲しい物はどこにあるか、多少見当はつくが、その前に……」
私は振り返り、無人の廊下を見つめた。
通路の角に隠れて、何かが蠢いている姿があった。患者衣の肩の部分が見え、ゆらゆらと揺れていた。
やはり、いるようだ。
私は、念力で死角の背後にシールドを張って備え、通路を歩きはじめた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
わたしは、家具が壁に寄せられ、がらんとした病室の中で、一脚だけ残された椅子に座って待っていた。
わたしは壁の時計を見る。おじさんがでかけてから、10分ほど経っている。
足元には雑誌があったが、こんな状況で読む気がしなくて、そのままうっちゃってあった。
ポケットに視線を落とす。
そこには、わたしの携帯電話……スマホが入ったままだった。
普段は、こんなふうに待ってる時間があったら、間違いなくそこに手を伸ばすわたしだけど、今はそんな簡単なことが、できなかった。
怖かったから。
もし、携帯を開いて、ネットに繋げたら。どうなっているんだろうか?
有名な掲示板もある。動画サイトもある。ネットニュースだって、これがあればすぐに読める。
でも。
もし……。全てが、昨日の日付のまま、止まっていたら。
世界じゅうの人が使うインターネット。それが一つも、例えば日本全国の人が書きこむ有名掲示板が、スレッドに何一つ変化がないまま、昨日で止まっていたとしたら?
それは何を意味するのか……。
わたしは、昨日、砂嵐を流し続けていたテレビの姿を思い出していた。
その光景がちらつき、恐ろしい想像が浮かんで、わたしはどうしても携帯に触れる事ができなかったのだ。
結局、わたしはそのままポケットに触れず、じっと待っていた。
何の音も聞こえてこない。たった30分の時間が、果てしなく永く感じた。
はあ……。やだな。
一人でいるのが、すごく怖かった。
ちらちらと周囲をチェックし、そこからわたしを見る目玉がないか、怖がりながら確かめる。今のところは、だいじょうぶみたいだ。
窓。ベッドが押し付けられたせいで、いくらか陽射しが遮られているけど、外は晴れている。
カラスたちは諦めたらしい。声は聞こえてこなかった。
はあ。おじさん、まだかな……。
……。帰って来ないなんて事、ないよね?
そ、それはだめだよ? 絶対だめだよ? わたし、怖くて絶対外出れないよ。餓死しちゃうよ。
だいじょうぶ、きっとだいじょうぶ……! おじさん強いから、ゾンビにやられちゃうなんてない。絶対だいじょぶ。うん。
はあ……。
――ゴトッ
「ひぴゃあっ!?」
突然、ドアの外から聞こえてきた物音に、わたしは飛び上がった。
ぞ、ぞぞぞゾンビ!? ゾンビが来た!?
ぎゃー! おおおおじさーん! 早く帰ってきてー!
――にゃーん。
「えっ」
耳を打った鳴き声に、わたしは、はっとした。
今の。ね、猫の鳴き声……?
「え。え、え、え」
わたしはドアに駆け寄り、顔を当てて耳を澄ました。するとまた、鳴き声が聞こえてくる。
――にゃーん。
もう間違いなかった。
「う、うそ! そんな」
慌てて引き戸のドアを開けようとしたが、念力で固まっていて動かなかった。
わたしはすぐに思い出し、おじさんに渡された青いビー玉をポケットから出す。それをドアに押し当てた。
ばちり。と電気は走ったみたいな音がして、ドアが動きはじめる。
と、どすん! とドアの向こうで何かが落ちる音がした。
「わっ!? な、なに?」
見ると、廊下に置かれているような長椅子が、ドアの前に落ちていた。
これ、おじさんがやったんだろうか?
あ、それより今の猫の声は。
誰もいない廊下を眺めると、長椅子が落ちた音に驚き、あわてて向こうへ逃げていく三毛猫の姿が見えた。
さっと角を曲がって行ってしまう。視界から隠れてしまった。
「あ! 今の、猫だよね? ゾンビなら襲いかかってくるはずだし。じゃ、じゃあ、もしかして!?」
生きている生き物。
紛れもなく、生きた猫だ。どうしてこんな場所に……?
が、わたしはすぐに別の事に思い当たった。
この病院には、きっとゾンビがうじゃうじゃいるはずだった。
い、いけない。あの猫ちゃん。このままじゃゾンビに襲われて食べられちゃう……!?
「ま、待って! 猫ちゃん!」
気が付けばわたしは、自分の身の安全もすっぽり忘れて、急いで猫を追いかけていた。