第二章の2 都内上空
わたしは空を飛んでいた。
おじさんにお姫様抱っこされるような形で抱え上げられて、無人の街の上を飛んでいく。
「わ、わ、わ」
「大丈夫です。落ちませんから」
耳元でおじさんが声をかけてくる。
でもその声もすぐに宙へ消えて、強い風の音がわたしの耳を打ち続けていく。
放物線の頂点まで来ると――おじさんと私の体が落下していった。
視点が、高いところから低い場所へ。わたしたちはどんどん落ちていく。なんだかお尻がむずむずした。
そのうちどこかのビルの上に着地したみたいで、目の前ががくんと揺れる。
するとまた一気に高く、ぐんぐんと昇っていく。視界もまた大きく広がる。
「うわ。なんかすご……!」
なにもかもを飛び越えて、わたしたちは相当な速さで空を進んでいた。高い場所から見下ろす街の姿はわたしが見たこともないものだった。
大きなビルや家、車。
太いはずの道。
そのなにもかもが小さく見えた。道を歩く人の姿は……ないけれど。
(はじめて空を飛ぶのが飛行機じゃなくて生身でなんて、思わなかったなぁ……」
「乗り物酔いではありませんが、大丈夫ですか? 気分が悪くなったりは」
「え? あ、う、うん平気。それはだいじょうぶ」
……すごい。
わたし本当に空飛んでる。
昨日はショックでしかも真っ暗だったからよく見てなかったけど、こうしてみると驚いた。
世間はこんなことになってるのにほおに当たる風が気持ちよかった。体で風を切り、わたしたちは誰もいない街の空を飛んでいく。
きっと普段のままでこうして空を飛べたなら、本当に気分が良かったと思う。後ろを向くとあの東京スカイツリーの姿が遠くに見えていた。
「わ、わたしたちどっちに行ってるの?」
「西東京の方向ですかね。そのまま山梨方面へ」
「山梨に?」
「神奈川方面を迂回しようかと。できればどこかで車を手に入れたいですね。いつまでもこれで移動では大変ですし」
こうして飛んでいるのも今だけか。
昨日あんなことがあったばかりだけど、なんだかちょっともったいないかも。なんてわたしは思ってしまった。
「……あれっ? なんだろ?」
わたしは自分の視界の端に入った、黒い何かに目を向けた。
なんだか変なものだった。
うまく説明できないしよく見えなかったけれど、遠くに黒いゴマのような、ぱっと動く何かが遠く離れたビルの近くでちらついたように見えた。
黒ゴマの群れはすぐに物陰に消えてしまった。物陰と言っても、ビルとかの後ろだけど。よくわからなかった。
おじさんは前を向いていてそれに気づかなかったみたいだった。わたしがおじさんの顔をじっと見ると、おじさんは、
「どうしました由佳さん? なにかありましたか?」
と言ってちらりとわたしに目配せをした。
けどわたしは、すぐに見えなくなってしまった黒ゴマを見間違いだと思って首を振った。
「ううん。なんでもない、気のせい」
「そうですか。何かあったら教えてくださいね」
「……うん」
たぶん、見間違いだ。
だってみんな死んじゃったんなら、たぶん生き物はみんないなくなっちゃったんだから。動くものなんてないよね。
やっぱり疲れてるのかな。わたし――
『――ギャアッ!!――』
「ぴゃあっ!?」
――どこからともなく聞こえてきた鳴き声に、思わずわたしは声を裏返してしまった。
すると、わたしを抱えているおじさんの表情がぴくりと動いた。
わたしたちは空中で速度を落として止まる。
「え、どしたのおじさん。なんで止まったの? なに今の声、どこから……。あっ?」
わたしは空を見上げた。
気がつくとわたしたちのさらに上を、一羽の黒いカラスが旋回していた。
「か、カラス!? え、うそ。……もしかしてあれ。生きて……?」
「……! まずい」
「え?」
ぼそりと聞こえた声に、わたしはおじさんを見た。
おじさんは目を見開いて、空を飛んでいるカラスの姿をじっと見つめていた。
「しまった……! 私としたことが失念していた、都内の空には彼らがいたんだ。飛んで行くなら安全だろうとばかりに……。コルウィヌスのことを思い出すべきだった」
「? コルウィ……?」
「彼らに襲われる可能性があります。危険ですね、一度下に降りて……」
おじさんがそうつぶやくと。
その時――さっき見えた黒ゴマがいくつも、ぶわっと遠くの景色で広がったのが見えた。
「!? な、なにあれ? 見間違いじゃなかった……?」
いや、遠くの景色だけじゃなかった。右を見ても左を見ても、そこらじゅうから謎の動く黒ゴマがビルの陰からばらばらと次々に現れてくる。
わたしはまだわからずに目をこらした。
それが一体何なのか。わたしがやっと理解した瞬間――どこか不吉な感じのする、いやらしい鳴き声の大合唱が風に乗って聞こえてきた。
『『『――ギャアアーッ!! ギャアアアッ!! ギャアアアアーーッ!!!』』』
「!?」
――信じられないくらいの数の、カラスの群れだった。
それが一斉に飛び立って、こちらに向かって飛んできている。
前からも後ろからも。右も左も。
「なにあれ、全部カラス……!?」
「くっ……! ……ここは彼らの縄張りのようです、1000羽はいるでしょうか。はめられました……我々は囲まれた」
「囲まれたって。え!? もしかしておじさん、あのカラスは……!?」
「ゾンビです――おそらく私達を狙っています。人間と違って知能が残っているのか? 信じられないが……待ち伏せされたようです」
「うそ!?」
「一旦下に下りましょう。このままでは危険が予想されます……ぬっ!?」
「きゃっ!!」
突然下から飛んできたカラスたちが、わたしたちのそばを一斉に通り抜けた。
見下ろしてみれば、真下に見えるビルからも黒い影がいくつも飛び出してきている。
「し、下からも来てる!? お、おじさん!」
「大丈夫です、念動で壁を作って突破します。しっかり掴まっていて下さい!」
わたしたちは下にある地面に向かって一気に急降下した。
上がって来るカラスの群れが一斉に寄り集まって、真っ黒な塊がこっちに向かって突っ込んでくる。
「ひっ!?」
「――ぬうんッ!!」
おじさんが黒い塊に向かって手をかざす。目の前の空間が歪んだように見えた。
下に落下していくわたしたちと、空へ昇ってくるカラスの群れが正面からぶつかる――と思った時。
ばしばしとカラスたちが、不可視の何かに阻まれて弾かれていく。
前が真っ黒になって、何も見えなくなった。
『『『ギャア! ギャア! ギャアアッ!!』』』
「きゃああっ!?」
「大丈夫、落ちついて!」
カラスの不気味な鳴き声が耳に響いた。
次々と体当たりをしかけてくるカラスたちが、わたしたちの周りを飛びまわる。
わたしたちは透明なボールの中にいるみたいに、カラスの集まった黒い塊を割って、群がられながら地面に向かって降りていく。
「! 見えた、地面です!」
カラスの群れを抜けると、おじさんに抱えられたわたしの体ががくん、と揺れた。曲がったみたいだった。
わたしは前を見た。視界が再び広がっていた。
「ひゃ。ち、近」
わたしたちは地面すれすれを滑るように飛んでいた。どこかの街中だ。
後ろからは、カラスたちが渦を巻くようにして寄り集まって追いかけてきている。
「お、おおおじさん、カラスが追いかけてくる! どうしよ!?」
「どこかへ避難しましょう! ひとまず後ろの連中を引き離します!」
ぐん、とおじさんの速度が上がった。道路を縫うように、しかもものすごい速度で奔っていく。
まるでジェットコースターみたいだ。目の前がめまぐるしく変わって、わたしはとても目で追いきれなくなった。
「わわわ! め、目が回るぅ……」
「もう少しだけ我慢してください。由佳さん」
「う、うん。おじさん、わたしたちどこ走ってるの!?」
「さあ……むっ。あれは」
おじさんが何かを見つけて、またぐんと道を曲がった。
そのまま太い通りに出ると、すぐ近くに大きな建物があった。わたしを抱えたおじさんはその建物に向かって飛んでいく。
「びょ、病院?」
「窓が一つ開いていますね、とりあえずそこからあの中へ入りましょう。まずはカラスをやり過ごさなければ」
それは大きな総合病院だった。わたしたちはその前まで来ると、再び上昇していく。
開きっぱなしになっていた窓から、滑りこむようにして中に飛び込んだ。
「よし!」
「きゃっ?」
着地すると、おじさんはわたしを降ろして入ってきた窓に駆け寄った。
素早く窓を締め直して、それから手をかざす。
「ふんッ!!」
窓のあたりからピキッ――という音が聞こえてきた。
後ろから追いかけてきていたカラスたちの群れが、ガラス窓にかまわず突進してくる。
奇声を上げながら、ガラスを破ってわたしたちに襲いかかろうとした。
「きゃああっ!?」
でも――
それ以上カラスたちは近づいてこれなかった。
空を埋め尽くすようなカラスの大群はたった一枚のガラス窓に阻まれて、まるで鋼鉄の壁にぶつかるみたいに弾かれて落ちていく。
『ギャア! ギャア! ギャアアッ!』
「……。ふう――」
おじさんが小さく息を吐いた。
カラスの群れは破れないことを知ったのか、すぐに飛び込んでこようとするのをやめた。
割れない窓のそばに群がってこちらをにらみつけながら、とぐろを巻いて喚き散らしていた。
「危ないところでした。すぐには突破されないでしょう。ひとまず安心です」
「……。だ、だいじょうぶなの?」
「運動エネルギーはありますが、体重が軽い。ガラスでも念力で固めれば、そう簡単には割って入ってこれないはずです。さらに」
おじさんはしゃっとカーテンを締めると、近くにあった大きなベッドを一つふわりと空中に浮かせた。
それを横にして、カーテンを締めた窓の上から押し付ける。
そうするとまるですごい接着剤でくっつけたみたいに、大きなベッドが窓を塞いで固まってしまった。
「これで万全です。中には入ってこれないでしょう」
「……。は、はふぅ……」
わたしはほっとして息をついた。
外からはまだ諦めきれないような、カアカアとカラスの鳴き声が聞こえてきていた。