第二章の1 都内某所
棚からパンの袋をいくつか取って、買い物かごに放りこむ。
それからおにぎりと弁当を二・三個ほど選んでおく。
私はゆっくりと店内を歩いていく。電気はまだあるらしく、ガラス戸の冷蔵庫の中に並べられた飲み物はよく冷えていた。私は戸を開けてミネラルウォーターを二本手に取った。
「……とりあえずはこんなものでいいか」
ここは近くにあったコンビニだ。
店内には私以外に人影はない。私は無人のカウンターの裏に回って、割り箸とレジ袋数枚を拝借しておく。
カウンターの中はひどく荒らされていた。金銭目当ての火事場泥棒が入りこんだわけではないだろう、おそらく店員がゾンビと化して暴れたのかもしれない。
私はそのまま買い物かごを手に、店を後にする。こんな時であっても金を払わずに外へ出るというのがなんとも落ち着かなかった。
店の外は明るく、空には太陽が昇りつつあった。
しかし人の姿は見えない。どこかそこらに潜んでいるのだろうか……消えたわけではないはずだ。
私は『センサー』を働かせた。有視界を頼りとする私のセンサーではさほど変わらないが、目でのみ確認するよりは気休め程度には探知しやすいだろう。たとえもう生きていなくても、心臓が動いていればある程度早くは察知することができる。
周囲に気を配りながら私は歩きだした。
少なくとも、反応は近くにないようだった。しかしネズミなどの小動物はいくらかいるらしい、やはりもう『死んで』いて体はウィルスに犯されている。
細かいところでは虫が普段通りに動いていた。保菌しているが彼らにウィルスの影響はほぼないようで、彼らは死んでおらず生きていた。
私は人の気配のない無人の道を歩いていく。
道ばたに見えたのは、打ち捨てられたようにヘッドライトを明滅させた車。その近くに転がった原付には血の跡がべったりとついていた。
それらを通りすぎ、私はとある古びた廃ビルの前へ来る。その廃ビルはしばらく人が立ち入った形跡もなく、入り口はシャッターで固く閉じられていた。
私は念力を用いて宙に浮かびあがった。そのまま三階の窓が開いている所まで上がると、足をかけて中へと滑りこむようにして入った。
中には無造作に並べられた机と椅子がいくつか、それに隅の方に大きめのソファが置かれていた。
昨夜、ここを見つけた私は一晩の仮宿として使うことにしていた。
どうやらウィルス拡散の時から無人だったらしい。調べてみたが中にもゾンビの姿はなかった。
私は隅にあるソファに近付くと、すぐそばに置かれた足の短い机の上に買い物かごを置いた。
ソファの上を見る。そこにはあの少女――由佳さんが静かに寝息を立てていた。
「……ふう」
私はゆっくりと彼女の対面にあるソファに座りこんだ。
彼女を連れて、だいぶ遠くまで来ていた。距離にして15キロというところだろうか。危険が予想される都心部へ向かう方向は避けて、なるべく人がいないと思われる場所へ向かっていた。
道すがら、生きている人の反応は全く拾えなかった。どこも全滅しているらしい。ウィルスの拡散速度は相当なもののようだった。
私は首を回して、後ろにある小窓から外を眺めた。
この部屋の中にも窓の外にも、まだ例の殺人ウィルスが宙を飛び回っている。
だが猛威を振るったこのウィルスはしかし――今はかなり落ち着きを見せていた。
昨夜ほどの勢いはなく数を大幅に減らしている。大気中の濃度が大きく減少し、中には他の細菌に捕食されている姿も見られた。
「? ずいぶんとサイクルが早い。感染力も落ちているようだ……」
平たく言えば急激に弱っていた。
特に日光の中では生存性を大きく落とすらしい。屋内や物陰ではまだかなりの量が渦巻いているが、それも絶対数をどんどん減らしつつある。
驚異的な性能を持っているかと思ったが、自然界では生きていけないもののようだ。まだ変異する可能性もあるがウィルスは明らかな脆弱性を露呈していた。
「いや。違うな。これは――計算されている?」
昨日解析したデータを思い出し、私は少し首をひねった。
このウィルスは、はじめからいずれ消滅するように『仕組まれている』。思い起こせば妙な形態をしている点がいくつかあった。
一定以上の時間が経つと自己崩壊を起こしていくらしい。他の細菌群に対する防衛能もほとんどなくなっている。
どうやらこのウィルスは……人為的に作り出されたもの、のように思えた。
「これが作られたものだとすれば。アルマゲドンの到来を望む悪魔の仕業とは考えにくいな……。こんなごく一時的にしか効果を持たないものを作る意味はない」
はるか遠き未来の最終戦争を早めようとしている悪魔の仕業という可能性もあったが、どうやらそれではないらしい。
やるからには徹底的にやるはずだからだ。こんなすぐに消えてしまうウィルスでは人類の抹殺など不可能だ。この島国を飛び越えて全世界に波及することなどできはしない。半端者のウィルスを作ってばらまいただけでは、悪魔には何の得もない。
「……。となれば」
人間か。
そう見るのが自然だろう。何らかの事故か、意図的にばらまかれたものか、この国の政治状況を鑑みると前者の可能性が強いか。
「――ん、う。……ううん」
その声にふと意識を戻す。
由佳さんが目を覚ました。ソファから起き上がり、寝ぼけた目でこちらを見てくる。
「え。おじさん……? あれ、ここって」
「おはようございます」
私は机の上に置かれた買い物かごから水のペットボトルを出して、彼女に渡してやる。
「どうぞ。喉がかわいているでしょう」
「あ、ありがと」
水を受け取った由佳さんはそれを開けて一口飲むと、少しの間ぼうっとしていた。
やがて昨日の出来事を思い出したのか肩を落とす。
「……おじさん。わたし……」
「あなたが寝ている間にいくらか食料を持ってきました。おなかも空いているでしょう、まずは朝ごはんを食べませんか」
「……。うん」
彼女が小さく頷く。
私はかごからおにぎりや弁当を取り出して、彼女の前に置いた。
由佳さんが弁当の一つを取って無言で食べはじめた。それを見てから、私もおにぎりを一つ取って封を開けた。
私は食べなくても死にはしない。
が、まったく食べないというわけではない。
飢えという『不健康』な状態にならないだけで、人並みに食べるし味覚もある。下限が通常状態以下にならないだけの話であって、満腹感を感じるという『良い』状態になるにはやはり食べなければならない。
しばらくの間無言の食卓が続いた。
私は自分のぶんを食べ終わると、ついでに持ってきていたレジ袋の中に出たゴミを放りこんで口を縛る。
目の前の彼女を見る。由佳さんはあまり食欲がないらしく、半分ほど食べたところで箸を置いてしまっていた。
「食べないと体に障りますよ」
「うん。分かってる……でももう食べたくない」
「……。そうですか」
由佳さんは元気がなかった。
そうだろう……この少女はあまりに突然に、あまりにも重すぎるものを背負ってしまった。
なんとしてでも彼女だけは守らなければ。それは私が今できる唯一のことだ。
私は立ち上がり部屋の中を見回した。
この廃ビルはひとまずは安心だ。入り口は塞がれており、すぐにあのゾンビたちが入りこんでくることはできない。念のためにダクトなども念力で固めておいてある。
とはいえ。
昨夜のように連中に嗅ぎつけられれば、すぐに他の場所へ移動した方がいいだろう。その方が安全確実だし、移動できるのならばこの場所にこだわる必要はない。
「ねえ、おじさん。ここはだいじょうぶなの?」
由佳さんが不安そうな顔で私を見上げてきた。
「一応のところは。ただし完全に固めているわけではありません」
「じゃあ」
「もしまたあの『彼ら』がここに襲いかかってくるようなら移動します。また別の所へ」
「……。そうやって移動していって、それで……最後はどこに行くの?」
「……」
問題はそれだった。どこまで行けばいいのか。
ウィルスの拡散範囲がまだ分からない。かなりの距離まで広がっていると推測されるが、それはどこまで行けば脱せられるものなのか。
弱りつつあるウィルスを見るに海を越えているとは考えにくいが……。
「とりあえずは行けるところまで行こうと思っています。ウィルスの終着点は必ずどこかにあります」
「終着点? そんなのあるの?」
「あるはずです。そこにはまだ誰か生きているはず。そこまで行けば安全でしょう」
「……おじさん。おじさんは、悪魔だったよね」
由佳さんが私をじっと見つめてくる。
少しためらうようにしてから再び口を開いた。
「その――ウィルス、が見えるの? みんなを殺したウィルスが」
「はい。見えています」
「……わかった。空だって飛んだし、悪魔かどうか知らないけどなにかすごいことができるっていうのは信じる。でも」
由佳さんが自分の服のすそを掴み、うつむいた。
その肩がぶるりと震える。
「本当に、他のどこかには誰かが生き残ってるの? 本当に?」
「……」
「わたし怖い。もう本当は、わたしたち以外に――誰一人として生き残っていないような気がして……。もう地球上には誰もいない気がして」
「……。生きている、はずです」
そのはずだ。いくらこの凶悪なウィルスでも、たった一夜でこの国全土に広がるのは難しい。
急速に弱体化している様子からしても、席巻し尽くすことはできないはずだが……。
「とにかく少し食休みしましょう。落ち着いたらまた移動するかもしれません」
「……うん」
私が言うと彼女は小さく頷いた。
私は歩き出し、もう一度出入りできそうな場所を見回ってこようとして――
外からガシャン、ガシャンという音が聞こえてきた。
「えっ?」
「……。由佳さん、少し待っていて下さい」
私はこのビルに入ってきた時に使った窓に駆け寄り、外の様子を眺めた。ビルのシャッターの近くに人影が見えた。
あの生ける屍だ。どこに潜んでいたのか、いつの間にか現れた十数人ほどの群れがシャッターを叩いている。
一体どうやっているのか知らないが、連中は我々がここにいるのに感づいたらしい。
「お、おじさん。またゾンビが来てるの!?」
「そのようです。移動したほうがよさそうだ、申し訳ありませんが食休みはなしです」
私はソファの上に置かれた自分の防災バッグを背負い、由佳さんを連れて屋上へ駆け出した。