第一章の5 コンドミニアム931・脱出
「とりあえず、今日のところはそのベッドで休んで下さい。私は居間にいますので」
そう言って部屋を出て行くおじさんをわたしは不満げに見つめた。
わたしはおじさんから貸してもらったパジャマを着ていた。あの加齢臭がしてくるかと思ったが、別にそういうことはなく洗剤の香りがするだけだった。
あれからわたしは冷めてしまったごはんを食べ、シャワーを借りて、こうしてベッドに腰掛けている。
結局外にも出れずここで一晩を明かすしかなかった。出口は玄関だけでなく、窓からなにから全部開かなかったからだ。
「喉がかわいたら冷蔵庫のものは好きに飲んで下さい。トイレは分かりますね? もしなにかあれば、私を呼んでくれて構いませんので」
おじさんがにこりと笑いかけてくる。
出してくれなかったり、実は悪魔だったり、やっぱりなんか時々臭かったりと。変なおじさんだけど、でもやっぱり親切ではあるみたい。
「では、おやすみなさい」
おじさんが電気を消す。わたしはぽつりと言った。
「由佳」
「えっ?」
「河野 由佳。わたしの名前」
「……」
暗さに目が慣れなかったけど、おじさんは少しきょとんとしてるみたいだった。
「おじさん、わたしの名前も知らないでしょ。それくらいは教えておいたほうがいいと思って」
「そうですか、そうですね。教えてくれてありがとう。ではおやすみなさい、由佳さん」
ドアが締められる。おじさんの姿が見えなくなった。
わたしはベッドに寝転がった。すると足の余ったすそが気になった。おじさんから借りたパジャマは臭くはないけど、やっぱりぶかぶかだ。ちょっと大きすぎる。
豆電球だけの明りに照らされた薄暗い天井を眺めながら、わたしははあ、とため息をついた。
お母さんは。お父さんは。
それに犬のジョンと猫のタマは。
わたしの家族は……どうしているんだろう。
『どうなって』いるんだろう……。
「……。うう……」
ぶるりと体が震えた。想像したくなかった。怖かった。
おじさんが言ってたウィルスってなんだろう。本当にそんなのがあるんだろうか。
エレベーターの中でものすごく息が苦しくなった覚えはあった。あれがそれだったんだろうか?
冷や汗がすごい出て目の前がぐるぐる回って、なにもわからなかったけど本当にやばいと思って。気がつけば気を失っていた。
それで起きてみたら、おじさんがライオンになってた。わたしの体の調子は元に戻って。
……。
「みんな死んだ? 冗談でしょ……?」
エレベーターから出てみれば――
ぞ、ゾンビがいた。
その近くに小さな男の子の……死体があった。
家の前に行くと、ドアがすごい勢いで叩かれていた。中から人間のものとは思えない、うめき声が聞こえてきた。
うそ。
うそうそうそ。信じたくない。
「うそ、うそ、うそよそんなの……!」
わたしの家族はだいじょうぶ。絶対そう。絶対だいじょうぶ。
わたしはうつぶせになって枕を抱きしめた。
怖い。信じたくない。なにも見たくない、全部なかったことにしたい。
でも。
確かめたい。
わたしの家の玄関を開けて、中がどうなっているのか確かめたい。
そこにはきっとお母さんがいてお父さんがいて、ジョンがわたしに飛びついてきて、タマがまた勝手にジョンの寝床を占領してるの。
そうであって欲しい。わたしの日常。
玄関のドアを開けたら一気にそこに戻れるような希望が、ほんの少しだけ残っていた。
「ぐす……。すぐ近くに、ほんのすぐ近くにわたしの家があるのに……」
帰れない。
分かっていた。自分の冷静な部分が、もう自分の日常なんてきっとどこにも残ってない、そう言っていた。
エレベーターホールに一人取り残された時の感覚が肌に残っている。
あの恐ろしく、冷たい静寂。
人の気配がしなかった。人がいないというのが直感で分かった。どんな言葉よりも、あの冷たさが真実を語っていた。
テレビだってそうだ。さっきつけた時どこのチャンネルも砂嵐しか映らなかった。
それって、つまり――わたしにだってその意味は分かる。
「信じたくない。信じたくないよぅ、そんなのやだよ」
分かってるけど信じたくなかった。小さくても希望にすがりたかった。
わたしの家の玄関を開けたい。開けてみたい。
帰れなくても帰りたい。
お母さんとお父さんの顔を見たい――。
わたしは枕を強く抱きしめて、必死に目をつぶった。目が覚めたら全部悪い夢だったことを願って、必死に眠ろうとした。
物音が聞こえてきたのは、わたしがベッドに入ってから一時間もしないころだった。
「な、なに!? なんの音!?」
なにかを何度も激しく打ちつけるような、すごい音だ。
わたしはあわててベッドから身を起こしてあたりを見回した。玄関のほうから騒音が響いてくる。
「……!? ちょっと、ちょっと! ってきゃ、ぶっ!」
起き上がろうとして、すそを踏んづけてまたベッドに転がってしまった。まぬけだ。
「ああもう大っきすぎ! よいしょ、よいしょ」
すそをまくって立ち上がると、わたしはドアを開けて居間に出る。電気はついていたがおじさんの姿はなかった。玄関のある方に向かって走り出す。
おじさんは廊下にいた。わたしに背を向けて、玄関のほうをじっと見ていた。
「おじさん!」
「由佳さん。起きましたか」
「これ何の音!? ドンドンって……!?」
わたしは玄関のドアを見て驚いた。
ドアが、ものすごい勢いで揺れていた。
鉄製のはずのドアは真ん中のあたりが大きくへこみ、壁とドアを繋ぐ部分にはヒビが入っていた。
「な、なによこれ!」
「予想外でした。念力で開かないように固定しておいたんですが、まさかドアごと壊して入ってこようとするとは」
外から苦しげなうめき声がいくつも聞こえてくる。
わたしは背中に怖気が走った。あのゾンビだ、ゾンビが大勢入ってこようとしている。この部屋に。
「ど、どどどうしよおじさん!? ドア破られちゃうよ!」
「……まずいですね……。ここまでするとは思いませんでした。脳が溶けているなら道具を使う知能もないはずと高をくくっていたんですが。骨が折れるほど叩いているようだ」
「止められないの!? わたしたちどうなっちゃうの!」
「待ってください。……」
おじさんは少し考えるようにあごに手をやった。それからこちらに振り返る。
「無理ですね、このままでは止められません。念力で固めてもドアの素材自体がもたない。篭城するよりここを出たほうがいいでしょう」
「で、出るって言っても! 玄関にゾンビが来てるのに! で、出れないよ!?」
「落ち着いて。ともかく用意してください。服を着て外に出る準備を」
おじさんはもう一度玄関を眺めると、わたしの背を押して促してきた。
「もう少しはもつでしょう。五分というところですか……あまり長くはない、急いで」
「え、あ」
「由佳さん早く。間に合わなくなります」
「う、うん……!」
わたしはとって返して部屋に戻ると、あわててパジャマから学生服に着替えはじめた。
意味があるのかわからないけどかばんを持って、また居間に戻る。そこでふと靴がないことを思い出した。
「あ! お、おじさん靴が!」
「落ち着いて下さい。靴はそこに置いてあります」
いつの間にか、わたしの靴がベランダの前に揃えて置いてあった。
おじさんはわたしが着替えている間に防災グッズを取り出してきたみたいで、背中にバックを背負っていた。
「忘れものはありませんか?」
「だ、だいじょうぶだと思う!」
「分かりました、では脱出しましょう。ベランダから出てまずは屋上へ向かいます」
おじさんがガラス戸を開けて外へ出る。わたしは靴を履くとおじさんの後を追った。
その瞬間、後ろでバキバキとものすごい音が聞こえてくる。
「ひゃあっ!?」
「破られましたか」
「おおおおじさん!? ベランダに出たけど屋上って、どうやって屋上に行くのよ!? どこにも道なんて!」
ベランダからは屋上へ向かう道なんてない。仕切りをへだてて両隣のベランダへ続いているだけだ。そっちへ行ったって屋上になんて行けない。
「道は必要ありません。こうするので」
「きゃあっ?」
わたしの体がふわりと宙に浮かんだ。
おじさんも同じように空中に浮かび上がる。わたしたちはそのままベランダを越えて空を飛んでいく。
ゾンビの群れがわたしたちのいた場所に大挙してきた。ガラス戸を破りわらわらとベランダに押しかけてくる。
――オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛――
青ざめた肌の、ぼろぼろの手がいくつもわたしたちに向かって伸びてきた。
うめき声の合唱が上がる。
「あ、あわ……!」
「大丈夫、こちらには届きません。屋上へ行きましょう」
わたしとおじさんはするすると宙を上っていく。
ゾンビがいくら手を伸ばしたとしても、もうこちらには届かなかった。
危なかった。なんとか危機は脱したみたいだ。
わたしはふうと息を吐いた。下からは獲物を逃したゾンビの群れが名残惜しげにうめき声を上げ続けているのが聞こえてくる。
ゾンビ……。
わたしはちらりと足元を眺めた。ベランダには、大勢のゾンビがたむろしている。
本当にゾンビだ。こんなのゾンビとしか言いようがない。
白く濁った目に青黒い肌で、体中血だらけでうめき声を上げて。
こんなにいっぱいやってきて……
その時、わたしは見てしまった。
その群れの中に――
私は念力を操り、静かに屋上に降り立った。
一緒に連れてきた少女――河野 由佳と名乗った――由佳さんの体をゆっくりと軟着陸させる。
屋上にはあの動く死者たちはいないようだった。少し風が吹いていて、びゅうびゅうという音が耳を掠めていく。
「よし。さてと」
私はぐるりと周囲を見回した。
まばらに灯ったネオンはいつもよりはるかに少なく、夜の暗闇を深めていた。
それでも、普段からつけっぱなしにしているのだろう、街にはいくばくかの明りが残っている。
私は近くにある手ごろなビルに目をつけた。
まずはあそこへ飛ぶ。
由佳さんを連れて、念力で跳ねるように飛び移る。
さらにそこからまた別の建物へ、そうやって安全にこの場を離れるといいだろう。連中はこちらの機動力には追いつけないはずだ。
どこか適当なところで安全そうな場所を見つけて、そこで一夜を明かそう。
「由佳さん、こちらへ来て下さい。少し空を飛びます、の、で……?」
言い終わる前に。
由佳さんが私の胸に飛び込んできた。
「ゆ、由佳さん? どうしました?」
その体が小刻みに震えていた。歯の根の合わない音が私の耳を打つ。
「どうしたんですか。なにか……?」
「あ。あ、あ、あ……! おじ、さん、わた、し……! いま、今……!」
由佳さんが顔を上げ、私を見つめてきた。
泣いていた。顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙を流していた。
「……!? どうしたのです、まさかどこかにぶつけて痛めたりしたのですか?」
「あ、ああ、ああああ……! わたし、わ、たし……!」
「待ってください、すぐに治して差し上げます。痛めたのはどこでしょうか、足をひねったりだとか……?」
「ちが、ちがう……! 今、いま、今……!」
由佳さんが私の体に食いこむほど強く指を立ててくる。
彼女は言葉にならない言葉を口から漏らし、嗚咽していた。
「由佳さん?」
「あああ……!! うそ、いやよ、うそぉ……!? 今、あのゾンビの中に、中に……! 中にぃっ……!!」
「! まさか」
はっとした。まさか。
「お、かあ、さん……が……!! わたしの、おか、あさん、がぁっ……!!」
「……!」
なんてことだ。
彼女の親がもう間違いなく生きていないことは知っていた。しかし、まだそれを確認させたくなかった。それを受け入れるには、まだ時間が必要だった。
こんな突然に……見てしまうとは。
「うあああああっ!! うわああああっ……!!」
「……っ!」
彼女が私の胸で泣いている。私は彼女を強く抱きしめた。
かけてやる言葉が見つからなかった。なんたることか……この少女が、どうしてこんな思いをしなければならないのだ。
私は嗚咽する彼女を抱きしめながら、天を仰いで唇を痛いほど噛み締めた。一筋の血が私の口端から流れる。だがその傷はすぐに塞がり、消えてしまった。
『治癒』の化身である私は、病も怪我もしない。一切の病苦が存在することはない。内より現れる魔力が瞬く間にそれを消してしまう。
私がもう少しだけ早く部屋を出ていれば。すぐに部屋に残る選択肢を諦めて、急いで家を後にしていれば。
せめて、彼女が変わり果てた母を見ることはなかったろうに……!
……しかし私が自分を責めている時間はなかった。背後にある屋上への出入り口が激しく叩かれている音が聞こえてくる。
連中が嗅ぎつけたらしい。すぐにこの場を離れなければならない。
「……由佳さん」
「ああ、うああ……! う、う、うぅ……!」
「そのままで、構いません。あなたを持ち上げて向こうに見えるビルへ飛びます。そのまま建物を伝ってここを離れます。失礼」
私は軽くかがむと由佳さんの足をとってぐっと持ち上げた。
彼女の体を決して離さないようにしっかりと抱き。
足元に魔力を集めていく。念力の形に変えて、それを解放した。
地面が弾ける。
私は彼女を連れて空高く舞い上がった。
薄い雲がかかった仄暗い月を遠くに、私と彼女は、まばらな人工の光を放つ暗闇の街へ消えていった。