第一章の4 コンドミニアム931・13F、治の家
わたしは見知らぬ部屋のすみっこに座っていた。
畳のある部屋だった。わたしの家にある部屋と同じ間取りの、でも全部逆向きの部屋だ。
物はほとんど置いてない、そっけない室内だった。ある物と言えば木のタンスと、足の折れるちゃぶ台がたてかけてあるだけ。
「……うう……」
わたしは顔を上げてぴったりと締め切られたふすまを見つめた。
見た感じ、ただのふすまだ。特に変わったところはない。
でもなぜか開かない。わたしが思いっきり引いてみても、蹴っ飛ばしてみてもびくともしない。
どうやってるのかわからないけど鉄の壁みたいになっている。
「なによこれ、出してよ。これ監禁じゃん。拉致監禁だよ……」
わけがわからない。宙に浮かせられて変なおじさんに連れていかれた。理解できない。わかんない。怖い。
でもそれよりわからないのは。
「……。なにが起きたの? あれはなんだったの……?」
気持ち悪い、口から血をたらした――あの女の人。
真っ白に濁った目。青黒い肌。うなり声。
すぐそばに血だらけの子供……。
「う、おえ……!」
わたしは思わず口を押さえてえずいてしまった。だめだ、思い出したくない。
「なによこれ。なんなの。こんなの、これじゃまるで」
……。ゾンビホラー映画じゃん……。
「やだよ、そんなの映画だけでいいよ。ゲームとかだけで十分だよ。お母さん……!」
わたしは頭を抱える。
帰りたい、家に帰りたい。わたしの家はすぐそばにあるのに。
でも――本当はすごく遠くにいってしまったような気がしていた。
それが本当に怖かった。涙が出てくる……。
そうやってわたしがめそめそ泣いていると、とんとん、とふすまが叩かれる音がした。そちらを見ると、あれだけ固くて開かなかったはずの戸がすっと開かれる。
あの例のおじさんがすまなそうな顔をしてこっちを見ていた。その手にはお盆に乗せたごはんを持っている。
「……夕飯を持ってきました。おなかが空いているでしょう」
「……」
「こんな場所に閉じ込めてすいません。ですが、きみには一旦落ち着いてもらう必要がありました。許して下さい」
おじさんはそう言って頭を下げた。それからゆっくりと部屋の中へ入ってくる。
「……。謝るなら、出してよ。わたしをここから出して」
「はい。きみも落ち着いたようなので構いません。ですが一つ約束してください」
「約束?」
「この家を出て、きみの家に向かわないこと。それだけ守ってくれれば」
「……」
「外は危険です。何か恐ろしいことが起きています……」
おじさんがお盆を置いてごはんを勧めてくる。
わたしはじっとお盆の上のごはんを見つめた。おなかはすいていたけど、食べる気はしなかった。
「いらない」
「いりませんか」
「食べたくない……。でも、外に出なければいいの。わかった」
「すいません、ありがとうございます。では家の中を自由に出歩いてもいいですよ」
わたしは立ち上がった。ゆっくりと歩きはじめる。
そして――
「あっ!?」
おじさんの不意をついてわたしは走り出した。
おじさんの脇をすり抜けて居間に出る。そのまま廊下に飛び出して一直線に玄関に向かう。
すぐにドアが見えてきた。ドアに鍵はかかっていなかった。わたしは体当たり気味に玄関のドアを開こうとした。
だけど。
「うっ!? あ、開かない! なんで……!?」
「――すいません。謝ります、きみを信じるようなことを言っておいて」
振り返ると、おじさんが廊下に立ってわたしを見ていた。悲しそうな顔をして。
「念のために念力で固定しておいたんです。人間の力ではそれは開きません」
「開けて、開けてよ! わたしは帰るのっ家に帰るの!」
「すいません。それは出来ない。出来ないんです……」
「なんでよ!! わたしを解放してよ、帰してよ! 人を監禁するなんて犯罪でしょ!」
「事態が事態です。まずは安全を確保しなければなりません。私にはきみを見捨てることはできない」
「意味わかんない! なに言ってるの!」
「せめて確実に助けられる人間は助けたい。それは私の使命、存在意義でもある」
おじさんはじっとわたしの顔を見つめてくる。気弱そうな顔つきの、どこから見てもくたびれたふつうの中年のおじさんだ。
でもなぜか――その目は真っ直ぐで迷いがなかった。
「助ける? なんなのおじさんお医者さんなの? 変なこと言わないでよ、そんなの聞いてないし別に全然かっこよくない!」
「医者ではありません。今は製薬会社に勤めるサラリーマンです。医師になるには手続きが大変でしたし、助けられる命なら『職能』を使ってしまうのを我慢できそうになかったので」
「はあ!?」
「ですが似たようなものです。人を癒す事を願う、という点ではなにも変わらない――」
そこでおじさんが言葉を切った。
その顔が――みしみしと歪んでいく。
「! えっ……!?」
わたしは唖然とした。
おじさんの背中に、馬の足みたいのが何本も生えていく。気弱そうだった顔がぐにゃりと曲がって、禿げた頭に金色の毛が生えていき、やがて。
……ライオンの顔になってしまった。
「驚きますか。そうですね、それはそうでしょう」
「……」
「私の名前は『ブエル』。ソロモン72柱、『治癒』の悪魔です。こちらでの名前は武江 治」
「……」
「驚かせてすいません。ですが安全のためとはいえ、魔力を使ってまであなたを一方的に閉じ込めた以上隠しごとをしているのは誠意がないと思ったので」
「……」
なにこれ。
は? あ? 悪魔?
「え? ちょ、ちょっと。なに? あく……?」
「……すいません。とにかく、ここから出ないようにお願いします。この家にあるものは自由に使ってかまいませんので」
おじさんはそう言って軽く頭を下げると、背を向けて居間に入っていってしまった。
わたしは玄関の前に突っ立って、ひたすらぽかんとしていた。
私は居間を通り過ぎると、奥に続いている書斎部屋の中へと入っていった。
変身を解き元の姿へ戻る。それから自分の書斎にしている室内をゆっくりと眺めた。
部屋の中は今朝私が外出した時となにも変わっていない。
ただ、一つを除いては。
「……。コルウィヌス」
私は窓際に置かれた鳥かごを見つめた。私の唯一の同居人がそこにいた。
黒いカラスの『使い魔』コルウィヌス。
彼は私がこちらの世界に引っ越してきてから、新たに使い魔としたカラスだった。今では魔界と私を繋ぐたった一つの連絡方法、伝書バトの役目を与えてある。
彼は私をじっと見つめていた――恐ろしい、赤く充血した瞳で。
『カアッ! カアッ! カアアッ!』
コルウィヌスがかごの中で狂ったように叫び暴れている。
黒く美しかった毛並みはひどく荒れ、抜けた毛があたりに散乱してしまっていた。
「なんということだ。お前もまた『そうなって』しまったとは……」
コルウィヌスは――感染していた。
あの、恐るべきウィルスだ。コルウィヌスの体内には大量のウィルスが蔓延していた。
この部屋は魔力を使って完全に防音しておいた。コルウィヌスの声で、あの少女が怯えてしまわないように。
『カアアアッ!! カアアッ!』
「もう私の声は聞こえていないのだな……。お前の脳も半分溶けてしまっている」
私は肩を落とした。
悲しかった。彼を、友を助けてやれなかった。
もうコルウィヌスに意識はない。私が魔力で与えた彼の知的な心は、完全に崩壊してしまっていた。
「すまない、すまない友よ。お前を助けてやれない。お前はもう死んでしまった」
コルウィヌスの命はすでに尽きていた。
ここにいるのはコルウィヌスの姿をした動く死体だ。もう彼はいない。
「コルウィヌスよ、私を許してくれ。お前はもう死ななくてはならない。お前を解き放てば、きっとお前は人に襲いかかるだろうから」
『カアッ!! カア、カアアッ! カアッ!!』
「許してくれ友よ。すまない……」
私は俯き、そして念力の手をコルウィヌスに伸ばした。
彼の首を掴み――捻る。
骨の折れる音と、頚椎がちぎれる感触が伝わってきた。
静かになる。
「……すまない……!」
涙がこぼれた。
そのまましばらく、私は立ち尽くしていた。
やがて私はゆっくりと椅子に座りこんだ。もうコルウィヌスの声はしない。彼の心臓は止まっていた。
手を伸ばし、机の引き戸を開けて私はそこからタバコと灰皿、ライターを取り出す。
この人間界に来てから少しの間だけ吸っていたタバコだ。人の世のタバコとはいかなるものかと興味本位で買いはじめたものだ。
いくら吸っても病にならない私だが、コルウィヌスを使い魔としてから彼の健康を考えてやめていたものだった。
一本を抜いて口にくわえ、火をつける。煙を吸いこむ。
久々の煙に私はむせてしまった。しかしそれでももう一度くわえ直し大きく吸いこむ。息を吐くと、煙が広がった。
もう一口。私の口から吐き出された一筋の煙が、きつい臭いと共に天井に向かって昇っていく。
そうしていると少しだけ心が落ち着いた。
「……」
久しぶりに吸うタバコはなんの味もしないような気がした。それでも心は静まっていくようだった。
「……いや、やっぱりやめよう」
そこでふと私は自分の浅はかさに気づき、灰皿にタバコを押し付けて消した。あの少女がいる、タバコ臭いと迷惑になるだろう。
私は立ち上がり、窓を少しだけ開いて換気した。ついでにタバコを箱ごとゴミ箱に放り投げる。外れて床に転がったが気にしなかった。
ライターはポケットに入れておく。私は念力と治癒ができるが、何もないところから火は出せない。
防音を解いて部屋を後にする。一度振り返って鳥かごを見つめた。
コルウィヌスは――もう動かなかった。
私は何も言わず部屋の外へ出た。そしてこの部屋も念力で固めて開かないようにしておくことにした。
あの少女が間違えて開けてコルウィヌスの死体を見てもよくないだろうし、私の友達をもう誰にも見せたくもなかった。この部屋は、そのまま彼の墓標になる。
「ふう……」
私はどさり、と居間のソファに身を沈ませた。
そして考える。
何が起きたのか?
「まさか。……ウィルスのせいなのか?」
コルウィヌスも、あの死んだはずなのに動いていた女性も、子供も。誰もがあのウィルスに感染し死亡していた。
強烈な肉体の変異――ウィルスがそれをもたらし、脳を溶かして凶暴にさせているというのか。
「くそっ。このマンションだけでもどれほどの数が……!」
私がエレベーターを出た時、私の『センサー』は無数の死を拾っていた。外にも、この部屋の中にも、あたり一面例の殺人ウィルスが漂っている。
ウィルスの拡散具合からして、他の人間の生存は絶望的と見ていい。このウィルスは抗体がなければ生存不可能な凶悪さだ。
感染から発症までのタイムラグはほぼない。ウィルスがもたらす人体への被害は甚大だ。これまでのウィルスにも類型が見られない。ゆえに、これに耐性を持った人間がいるのを期待するべきではない。
生存率は……限りなく0に近いだろう。
おそらく。もう誰も生きていない。
「……!」
私は――間に合わなかった。
何も気づかなかった。エレベーターに閉じ込められている間に、全て終わってしまっていた。
私がいたところでどれほどの人間が救えたかは分からない。大した数にはならなかっただろう。
しかしそれでももう少し、もう少しだけは救えたはずだ。救えたはずなのに。
私は自分を殴りつけたくなる衝動をこらえ、大きく息を吐いた。
落ち着け、冷静になれ。己の不甲斐なさを今さら悔いても意味はない。そんなことをしている暇があるならやれることがまだあるはずだ。
そうだ、問題はこれからを考えなければ。少なくとも一人だけは命を救えたのだから。
あの少女を――守らなければ。
あの少女にはもう感染の心配はないだろう。与えた抗体は完璧だ、その点にぬかりはない。
ただ、凶暴化したあの死者たちが襲いかかってくる恐れがある。
あれは一体なんなのか。
あれは『死体』だ。センサーに生命の反応もない、動く物体だ。もう人間とは言えない。
脳が溶けている以上自我は完全にない。奇跡は絶対に起きないだろう、前頭葉という意識の座が物理的に損壊しているのだから、回復することはできない。私の力でも無理だ。
もう『死んで』いる。
……。
なぜウィルスで死亡したらしき人々がああなってしまったのか、詳細はやはりまだわからない。
わからないが、こちらに襲いかかってきた。彼らの脳があの状態では意思の疎通もまったく不可能だ。あれらに近付くことは得策ではない、あの少女とあれらを隔離しなければならないだろう。
外部はすでにそこらじゅう歩く死者でいっぱいだということは予想できた。
ならばヘタに出歩くのはよくない。念力で固めたこの家にいるのが一番安全、ということになるが……。
「ふむ……。持つことには、持つと思うが」
そうなるといつまで持久するのかという話になる。
食料はあるが、このウィルスがもたらした被害の規模が分からない。コルウィヌスがもういない以上、魔界にも連絡が取れなくなってしまっている。
何が起きたのか、それを把握しなければ行動の方針も決められない……。
「……。そうだ、テレビだ。なんでそんなことに気づかなかったのだ」
人間の社会は便利なものを生み出しているんだった。まず情報を得なければ。
私はテレビのリモコンを探した。ガラステーブルの端に置かれているのを見つけて手を伸ばそうとする。
「――おじさん」
その声に私は顔を上げた。
あの少女が廊下から居間に入ってくる。ずっと廊下にいたらしい。
「どうしました? なんでしょう」
私が聞くと、少女は俯いた。
なにか悩むような顔をしてからもう一度顔を上げてこちらを見てくる。
「もう全然わかんないんだけど。とりあえず……悪魔って、ほんと?」
「はい。私は悪魔です」
私は頷いた。テレビのリモコンに手を伸ばすのをやめて、代わりに念力でそれを持ち上げて手元に持ってくる。
「あ」
「念力です。これだけでは証明にならないかも知れませんが」
「……。まじですか? 本当に?」
「はい、本当です」
正体をバラしてしまったが、この少女にはすでに一度見られている以上ごまかしても仕方がないだろうと思っていた。
私は古来何度も人に召喚されたことがあるが、経験からすると堂々と真実を語ったほうが信用されることが多かった。守るからにはまずはこの少女から信用を得たい。
しかし少女は額に手を当ててうなりはじめる。
「ちょっと待って……全然わかんない、なにそれ。アニメとかゲームじゃあるまいし」
「アニメ? ああ、私たちがモチーフにされている娯楽作品もあるようですが」
「頭がパンクしそうなんだけど。ゾンビ映画かと思ったら悪魔って。悪い夢でも見てるのわたし……?」
「……」
しまった。拒否反応を起こしてしまったか? 思えば異常な事態だ、異常を重ねてしまうのはまずかっただろうか……。
「わかんないわかんない、全然わけわかんない。はあ」
少女はため息をつき、私の対面にあるシングルソファに浅く腰掛けた。
それからじっと私をにらんでくる。
「どうしても出してくれないの? 外には」
「……出せません。私は外が非常に危険だと思っています」
「どうしてそんなこと分かるの」
「私の力です。私は人が生きているか死んでいるのかが分かります。さっき調べたら、周囲は……死体だらけでした」
「……」
「最初は、あなたにあまりに恐ろしい光景を見せるべきではないとだけ思っていました。しかし事情が変わった。あなたも見たでしょう、先ほどの女性」
「う。……ゾンビ、みたいな」
「あれがなんなのかは私にもわかりません。しかしあれは完全に『死んで』いた。にも関わらず動き、そして襲いかかってきた」
「そ、そうだけど。でもあんなの、なんかウソみたいで」
「あれは現実です。夢ではありません。そして周囲が動く死体だらけという反応なら」
「……じゃ、じゃあまさか……」
少女がつばを飲みこんだ。下を向いてつぶやく。
「うそでしょ……? じゃあ、わたしのおかあさん、は……?」
「……」
「じゃあお母さん、どうなったの? お父さんは? 犬のジョンは? 猫のタマは?」
「……」
「ねえ、どうなったのよ? み、みんなは。この部屋のいくつか隣でわたしの家族はどうなってるの……?」
私は何も答えることが出来なかった。何も言えない。
「……。さっき、わたしが倒れた時。あんまり覚えてないけど、おじさんなんか光ったよね? 目を覚ましたらさっきみたいにライオンの顔になってた」
「はい」
「わたしに何をしたの? 何かしたんでしょ? どうしてわたしは……あの女の人みたいにゾンビになってないの?」
「……私が治療したからです。私は『治癒』の悪魔です、あなたを治療して抗体を備えさせました。だからあなたは死んでいない」
「抗体? なにそれ」
「あなたの目には見えていないでしょうが、先ほどから妙なウィルスがあたりにいます。人を即死させる恐ろしいウィルスが」
「……。だから、ゾンビ映画じゃないんだから。そんなの……!」
そう言うと、少女は頭を抱えてうずくまってしまった。
「いやよ、もうやだ。覚めてよこんな夢。帰りたい、うちに帰りたい。すぐ近くにあるのに……!」
私は目を閉じて眉間を押さえた。少女の悲痛な声が耳に残る。なんでこんなことになってしまった。
私はテレビをつけるのをやめた。もしもっと恐ろしい情報が流れれば、この少女に余計心労を与えることになりかねない。
しかしリモコンを背中に隠そうとした私の手を少女は見ていたらしい。手を伸ばして、私からリモコンをひったくってしまった。
「あっ。き、きみ」
「なんで隠すの。テレビつけようとしたんでしょ」
「そ、そうですが。いやしかし今はつけないほうが」
「うるさい」
「えっ」
急に怒り出したように少女が私をにらむ。そしてリモコンを押してテレビをつけてしまった。
流れてきたのは――
「……なによ、これ」
――延々と続く砂嵐だった。