第一章の3 コンドミニアム931・13F
13Fと壁に書かれている。
ここは私の部屋のある階だ。
通路は無人だった。私は階段を昇りきると通路に立ち、夜の暗闇に包まれたマンションの外を見下ろした。
外の世界はひどく薄暗かった。周囲の建物が普段放つはずの明りはどこも一切ついていない。とうに日は落ちていて、わずかな街灯以外に光もない道路を見通すことは難しかった。
だが目には見えなくとも、私の持つ『センサー』がそこらに何があるのかを教えてくれていた。
人間の死体が……いくつも転がっているらしい。
死体。
死体。
また死体。
外部へ出て捜索範囲が大きく広がった私の『センサー』が拾い上げてくる情報はそればかりだった。
「……」
おそらく皆ウィルスに感染して死んだのだろう。私は暗闇の中の『死』の山から顔をそむけたくなった。
だが――
「どうしてだ……!?」
その、死んだはずの彼らが――動いていた。
いくつかの死体が立って、歩き、彷徨うようにうろついているのが私には『見えて』いた。
どれも先ほどの女性と同じで脳は半分溶けて、内臓のほとんどが機能不全を起こしているようだ。心臓だけは活発に脈動していた。
私は混乱した。一体なにが起きたのか、なにが起きているのか。
死体の中には完全に生命活動を停止しているものもあった。そのもはや動かぬ死骸に向かって、動いている『死体』が群がっている。
彼らが何をしているのか、薄暗くとも私にはすぐに分かった。
彼らは――死体を喰らっていた。死者が、人間の屍肉を漁っている……!
「ど、どうしたの……なにを見てるのおじさん?」
その声に私は傍らの少女を見た。
少女は私の隣に立って、光の届かぬはるか下を見つめていた。彼女には見えていないらしい。
私は何も言わず、少女の手を握ったまま歩き出した。
「あ。お、おじさん。わたしの家……」
連れている少女の家もこのフロアにあるらしい。途中で立ち止まり、近くのドアを指差してくる。
「わたしの、わたしの家ここなの。だ、だから……!」
怯えた顔で少女が私を見上げてきた。
私はひどく躊躇したが、上手い言い訳が見つからなかった。しかたなく小さく頷き、それから探るようにゆっくりとそのドアに近付く。
少女はすぐにドアノブに手をかけようとした。しかし私ははっとしてその手を制止した。
「ま、待って下さい。まだ開けてはダメです」
「えっ?」
嫌な予感がしていた。それも最悪の予感だ。
私は手を伸ばしドアに手をついた。そして『センサー』を集中し、ドアを透過して内部を捜索する。
出てきた結果は……。
「きみ」
「は、はい」
「……」
「え?」
「……。このドアは……開けないほうが、いい」
私は顔を覆いたくなった。
何か動いているものが中にいるのが分かった。いるが、しかし。
命の存在が――感じられなかった。
何も。
「なんで? どうして?」
少女が私を見上げてくる。
「開けてはいけません。あなたは開けてはいけない」
「なに言ってるの? おじさん?」
「……先に私の家に行きましょう。私は一人暮らしです、『その心配は』ない。だから」
「なにを言ってるの? 待って、ちょっと引っぱらないで。待ってよ」
強引に連れていこうとすると少女が抵抗した。私の手を振り払おうとしはじめる。
「離して、離してよ。わたしの家はここなの、帰らなくちゃ!」
「! ダメです、そのドアを開けてはいけない」
「どうして!」
「それは。……きみが、きっと見たくないものを……見ることになる……から」
「え」
「開けてはいけません。落ち着いて、私の言うことを聞いて下さい。お願いです」
「……」
少女は立ち尽くし、じっと私を眺めていた。
やがてゆっくりと――表情が強張っていく。
「なに……? なんで……?」
「考えないで。とにかく今は落ち着いて、私の言った通りにしてください」
「え……え? ……」
「考えてはいけません。さあこっちへ……」
私がもう一度、少女の手を引いて歩き出そうとした時だった。
少女が激しく暴れはじめた。
「離してっ!! 離して、手を離しておじさん! 離してぇっ!!」
「お、落ち着いて!? 落ち着いて下さい!」
「うそよ、そんなことない!? 離して、わたし帰るの!! 帰る!!」
「ダメです! 私についてきて下さいお願いですから!」
「いやぁ!? お、お母さん、お母さんが待ってるのっ! 家で、わたしの家で……!!」
――ドン!
「「!?」」
突然聞こえてきた音に私と少女は身を竦ませた。
その音は、すぐ目の前にある少女の家のドア。それを、内側から思い切り叩きつけたような音だった。
私と少女は音の聞こえてきたドアをじっと見つめた。
やがて――私達以外に無人の通路に、また音が響いてくる。
ドン。
ドン。
ドン。ドン。ドン。
――オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛――
ドアの向こうから。不気味なうなり声が。
聞こえてきた。
「……」
私は俯いた。
ダメだ。やはりもう手遅れだった。
私は人を癒すことができる。だがすでに『死んで』しまった者は助けられない。
命が消えた者は癒せない。人に再び命を与えられるのは、人の神だけだ。
もう助けられない……。
「お、かあ、さん?」
少女が小さくつぶやいた。
「なに今の? うなり声が」
「……。気のせい、です。行きましょう」
「待って、おじさん待って。ドア叩いて。変な声が。わたしの、家から」
「私にはなにも聞こえてきませんでした。さあ行きましょう」
「待って!? 待ってよっ!! 待って!!」
少女が私の手を逃れようと再び腕を暴れさせる。
私は念力を使って少女の体を拘束した。宙に浮かせてしまう。
「きゃあっ!? なにこれ、なによこれ!? は、離してぇ!!」
少女が必死に声を張り上げ足を暴れさせた。私は少女を連れて自宅に向かって歩き出した。
少女の声を聞きつけたのか、通路に並ぶドアから次々と扉を叩く音が聞こえてくる。
ドン。
ドン。
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン――
「ひぃっ!? あ、ああ!?」
「……」
まずい。静かにしたほうが良さそうだ。
彼らがなんなのか分からないが正気を失っている。さっきの死体の女性の行動を見るに、こちらに襲いかかってくる可能性が高い。
「すいません。ちょっと失礼します」
「むぐっ!? む、むうっ……!」
私は少女の口を念力で押さえ、ついでに彼女の手を操ってその耳を塞いだ。何も聞こえないように。
しばらく待つ。
やがて――波が引くように静かになった。
それから私は自宅のドアの前に立ち、鍵を開いた。最後に階段のほうを振り返る。
誰もいないことを確認すると、私は少女と共に家に入っていった。