第一章の2 コンドミニアム931・12F
妙に静かだった。
耳鳴りがするくらいに、何も聞こえてこない。
「あれっ? こ、ここって」
ぽかんとしてわたしはつぶやいた。
ここは自分の住むマンションだ。そのはずなのに、そうと思えないような不思議な違和感があった。
壁を見ると12Fと書いてある。自分の住む家の一階下にいるみたいだ。
「??? えっと……?」
「馬鹿な」
「え?」
横を向くと、例のおじさん――臭かったり、でも実はいい人っぽかったり、いきなりライオンみたいになったり戻ったり、なんか宙に浮いたりよくわからない変なおじさん――が愕然とした顔をしていた。
「おじさん?」
「そんな馬鹿な。終末のラッパは……聞こえなかったぞ。そもそも早すぎる。こんなことが起こる、はずは」
「???」
「何故だ。何故――『死』で満ちている? す、全てが……?」
おじさんはなぜかわからないけど小さく震えていた。
口に手を当てて怖い顔をして、変なことをぶつぶつとつぶやいている。
わたしはとりあえず小さく頭を下げて言った。
「あ、あの。さっき、わたし急に息が苦しくなって気絶しちゃったみたいですけど。迷惑かけてごめんなさい」
「そんなはずは……どうして、誰が? 病――ベルゼバブかベルフェゴールか。いやしかし私にはなんの連絡も……!?」
「……?」
おじさんはどこか遠くを見ながら呆然としていた。
ひどく顔色が悪かった。わたしの声も聞こえていないみたいで、真っ青になりながら独り言を続けている。
(急にどしたんだろ。なんかちょっとヤバそうな……?)
わたしはちょっと距離を取りつつ、様子のおかしなおじさんを眺めた。
よく考えたらこのおじさん、全然知らない人だ。
さっき変なことが起きたしエレベーターから出れたんだから、これ以上は関わりあいにならないほうがいいのかも知れない……。
「そ、それじゃわたしはこれで。なんだかよく分からないけど帰ります」
「何故このタイミングで。いや彼らの仕業ではない……? って、え?」
「し、失礼します」
わたしはもう一度頭を下げると、おじさんに背を向けて歩きはじめた。
とりあえず階段の方から上に上がって、さっさと家に帰ろう。遅くなっちゃったけどしかたない。
お母さんに怒られるかもだけど、エレベーターが止まってたんだからわたしのせいじゃないし。おなかも空いたし早くごはん食べたい……。
「待って!? 待って下さい、ダメです! まだ動かないで!」
すると後ろからおじさんが走ってきて、わたしの腕をぐっと掴んだ。
「あイタッ?」
「あ。す、すいません。しかし少し待って下さい、まだ……!」
「?? な、なんですか。もうエレベーターから出れたしウチに帰りたいんですけど……」
「まだです! 待って下さいとにかく!」
「ええ?? あ、マンションの管理人さんに出れたって言っておかなくちゃいけないかも、だけど」
「違います!! そんなことではない、そんな悠長な話はしていません! それどころじゃない……!」
「え?」
「なんということか……! おそらくもう誰も、誰も生きてはいない。少なくとも周囲に一切の生存反応は感じられない……!」
生存?
わけがわからない。急に何を言い出すんだろう、このおじさん。
「え、えっと。離しておじさん、早く帰らなくちゃ」
「ダメですってば! 動かないで、ちょっと待って!」
おじさんがわたしの腕を強く握ってくる。地味に痛い。
しかも妙に必死な顔でこっちを見てくるのがなんか怖い。
「や、やめて。痛いよ離して」
「いいから行かないで! 少しの間言うことを聞いて下さい! お願いします!」
「ええ゛……?」
なにこれ、とわたしは思った。実はいい人かもしれないと思ったけどやっぱりちょっと変な人? しかもやっぱり、またあのきっつい加齢臭がしてるし。
「は、離して。ひ、人呼びますよ。おじさんなに、まさか痴漢だった……!?」
「え!? いや違いますよ、そうじゃなくて!」
「じゃあ離してよ。なんか怖いよ、わたしを家に帰して」
「それは出来ません! とにかくここにいて下さい! この場を離れないで!」
あ。やばい。なんかやばい。
人を呼んだほうがいいのかも……。
「本当に人呼びますよ? いいの、おじさん。叫んじゃいますよ?」
「うっ……!? い、いやしかし、本当に動いたらダメです。少しの間でいいんです、じっとしてて」
「呼びますよ?」
「……。動かないで。それに呼んでも、……誰も――誰も『来ません』。来ないんです」
「はあ?」
「いいからここにいて下さい。とにかく落ち着いてこの場を動かずに」
「……」
わたしはすうっと息を吸いこんだ。
助けてこの人痴漢です、はまだ分からないからやめておこう。誰か警察、もさすがにひどいか。とりあえず大声だけでいいや。
わたしはおじさんを確認する。おじさんは少し躊躇するような顔を見せたが、手を離そうとしなかった。
それを見てからわたしは大きく声を出した。
「わーーーーーーーーーーーっ!!!」
……。
わたしの声がこだました。
自分でも驚くくらい強く音が反響して聞こえた。
そしてそれが過ぎると。
不気味なくらいに、冷たい静寂が返ってきた。
「えっ」
「来ないんです。誰も」
わたしの大声にわずかに顔をしかめたおじさんが、小さくかぶりを振った。わたしの腕を掴んでいた手をそっと離す。
「なぜなら誰も……生きていないから……」
「……」
「なんということだ。どうしてだ、どうしてこんなことが起きてしまった。悪夢だ……」
おじさんが肩を落とした。
声が震えていた。
「閉じ込められている間に何が起きたというのだ。どれだけが死んだのだ。私は、この私がいながらこんなことに……!」
よろよろとおじさんが歩き出した。おぼつかない足取りでエレベーターホールから出て行こうとする。
「お、おじさん? どこ行くの?」
「……少し周囲を見てきます。きみはそこを動かないで。すぐに戻ってきますから」
そう言うと、おじさんは行ってしまった。
あとには一人。
わたしだけがぽつんと残される。
「な、なに……? よくわかんない……」
ひどく静かだった。
音が聞こえない。外は暗くなっているけど、時計を確認するとそれでもまだ9時を回っていない。
なのにまるで深夜のような、いやそれ以上に静かだった。
というよりも音が『ない』。
人がいる気配がまったくしない――誰もいない、ということをわたしは肌で感じた。
「う……!? なにこれ、きもちわる……?」
すぐ近くの壁にある電灯が一つ、半分切れかけて不規則にちらついていた。夏なのに肌寒いような気がした。
一人でいることが急に不安になってくる。
子供のころに迷子になった時のような、取り残されたような、感覚。たった一人でいるのがなぜだかすごく怖くなった。
やばい、怖い。
なにこれ。
「……。お、おじさん待って! わたしも行く!?」
思わずわたしはおじさんを追いかけて走り出していた。
エレベーターホールを出ると、いくつもの家に続く通路がある。
その手前にある階段の前でおじさんの姿が見えた。
「あ、おじさん! ちょっと待って……あれ?」
おじさんはじっと立ち尽くしていた。
駆け寄ってみると、道の先に向かってじっと視線を注いでいる。
「? ど、どうしたのおじさん。こんな所に立って」
わたしはおじさんに追いつくと横から顔を見上げた。
おじさんはなにか信じられないようなものを見るような、そんな顔をして通路の先を見つめていた。
「なに? ……」
わたしはおじさんが見ている通路の先に視線を移す。
そこには――
「……。えっ」
『それ』を最初に見た時は、カカシのように見えた。
でもすぐに見間違いだとわかった。
なぜならそれが、作り物なんかじゃない、本物の人間のかたちをしていたからだ。
かたちだけは。
あり得ない。
あり得ないものが、私の目の前にいる。
『それ』は私の前でゆらゆらと風に揺られるようにして立ち、呆けたような虚ろな視線を宙に彷徨わせていた。
「なんだ。これは」
確かに人間の形をしていた。形だけで言えば、それは生きた人間だ。
しかし――
『ア゛、ヴア。オ゛オ゛オ゛――』
それが奇妙な唸り声を上げた。
それは……人間の大人の女のようだった。
剥がれ落ちてボロボロの、青黒い皮膚を持ち。
瞳は白く濁り。
体中から太い血管がいくつも浮かび上がっていて。
そして――口元からはおびただしい血糊が滴っていた。
すぐ足元に小さな子供のような人影が、血だまりの中で倒れ伏している。
『オ゛オ゛オ゛、オ゛……!』
ずるり、と。
足を引きずって、こちらに向かって一歩を踏み出してきた。
『オオ゛……!』
ずるり。また一歩。
私はただ呆然とその光景を見つめていた。
なんだ。なんだこれは。
そんなはずは。
「……なに……?」
心臓は――動いている。私の『センサー』がおぼろげながらもその情報を拾ってくる、しかし。
生命の反応が全くない。
生命の力が完全に尽きている。紛れもなく死んでいる。
脳も機能していない、前頭葉の大部分が溶解しているようだ。
他の内臓の部位も完全にめちゃくちゃだ。これで生存は不可能だ。
その女性の体内にはあのウィルスが大量に繁殖していた。あれに感染して死亡したらしい。
にも関わらず……。
「何故立っている。何故……?」
これは『死人』のはずだ。何故心臓が動いて立って歩いている? 何故死なない? どうして死んでいないのだ?
この人は――死んでいる。間違いなく死んでいるのに。
心臓が動き、立って、歩いている――
「――ひっ……?」
脇で聞こえたその小さな悲鳴に私ははっとした。
そちらを見ると、先ほどエレベーターホールに置いてきたはずのあの少女が目を見開いて私のとなりにいた。
「あ。き、きみ」
「なに……? なにあれ、ち、血だらけ……?」
少女が怯えたように声を出した。
通路の向こうから、ずるり、ずるりと、わけのわからないものが近付いてくる。
こっちに向かって。
「……! きみ、下がって。私の後ろに」
私は少女をかばうようにして背後に押しやり、一歩下がった。
不気味なうなり声を上げながら『死んだはずの女』が近づいてくる。まったく理解ができない状況だ。
だがなんとなく分かる――危険だ。
「そこの人。それ以上こちらに近付かないでください」
『ヴ、オ。オ゛オ゛オ゛――』
「……」
私は一応ながら、向かってくる『死体』の女性に声をかけた。しかしどうやら聞こえていない。
それはそうだ、私の『センサー』が情報を拾い上げている。この死体は脳が半ば溶解している。
おそらくもう……言語を解する能力は、いやそれどころか意識はない。
戻ることも。
「来ないで下さい。聞こえていないかも知れませんが、それ以上近づくなら攻撃します」
『オ゛オ゛オ゛――オ゛オ゛オ゛……』
「警告します、近付くなら攻撃します。よろしいですか」
『ヴオ゛オ゛オ゛ォ……』
「最後の警告です。あと一歩踏み出せば、私はあなたを攻撃する――」
『ゥオ゛オ゛オ゛オ゛オッ!!』
女が血に染まった歯を剥き出して突っ込んできた。
私は手をかざし魔力の念力を放つ。瞬間、すぐ目の前に黒い魔法円が浮かび上がった。
「ぬぅんッ!!」
『グゥゲッ!』
ぱん、と空気が弾けた。潰れたカエルのような声を出して、女がきりもんで吹っ飛んでいく。
女は通路の奥の壁まで吹き飛ばされてぶつかった。壁を砕いてめりこみ、そのままぐったりと動かなくなる。
「……」
死体の女性は身じろぎしない。ぶつかった拍子に腰椎がへし折れたようだ。やはり心臓は止まっていないが、さすがに動けないだろう。
相手が起き上がらないことを確認してから、私は後ろを振り返った。
少女が血の気の引いた青い顔をしていた。きっと私も似たような顔色だろう。
「おじ、さん……? なに、今の……?」
「わかりません。吹き飛ばしたのは私ですが、『あれ』がなんなのかは」
「い、今の、今のって。ま、まるっきり、ぞ、ぞん、ゾンビ……!?」
「……」
ゾンビ。
荒唐無稽な話だ。いや、悪魔の総裁であった私が言うのも変な話だが。
確かに魔界には死体の軍団というものはあった。人間の死体を操って兵隊にするという、私からすると反吐が出るほど悪趣味なことをする悪魔の王はいる。
だがしかしそれは魔力で操り人形にしているだけだ。私の使う念力を応用した技術にすぎない。
死体は死体だ。自分で動くはずがない。
しかし……。
「そ、れに、あれ、あれは!?」
少女が通路の先を震える手で指差した。
そこには血の海に沈んでいる、小さな子供の姿があった。
「見ないほうがいい。見てはいけません」
「でも! た、助けなきゃ……!?」
「……」
私は小さく首を振った。
もう生きていないことは分かっていた。体中に齧られたような歯型がいくつかあった。
しかし死体の状態からすると、例のウィルスに感染して死亡していたようだ。大量に保菌している。
おそらくさっきの女性の子供であるようだが、実の親に食い殺されたわけではないらしいのがわずかに救いであるのかもしれない……。
「うそ。そんな……!」
少女が絶望的な顔をした。
私は言葉が出てこなかった。ただ、少女の手を掴んで歩き出した。
「お、おじさん?」
「行きましょう。ここから離れるんです。早く」
「は、離れるって」
「とにかくこの場から離れます。階段で」
私の『センサー』が恐ろしいものを感じ取っていた。
血の海に沈んでいる子供の死体が、わずかだが――その心臓を動かしはじめていた。
私は込み上げてくる恐れの感情を必死に抑え込み、心を固くした。見たくないものから目を逸らすと、少女の手を握り階段を昇っていった。