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第一章の1 コンドミニアム931・エレベーター内


それが起きたのは。

夏の暑い日のことだった。


私の名は 武江たけえ なおる

製薬会社に務める、ただの一介のサラリーマンです。


しかしてその正体は。

――悪魔『ブエル』。


それが私の真の名です。少々有名な悪魔なので、知っておられる方もいらっしゃるでしょう。

職能は『治癒』。私にかかればどのような病人でも、たちどころに治して差し上げることができます。

年齢は人間に換算すると今年で50を数えます。脂ぎった中年と申し上げてよいでしょうか……。


私は現在、この人間界でごくふつうの一般男性に擬装して暮らしています。

長年連れ添った妻に三行半を突きつけられ、可愛い一人娘も結婚して片付き、殺伐とした悪魔社会に疲れた私は、一念発起して第二の人生をこの四季豊かな日本という国で暮らすことに決めた――というわけです。


まあ私の事情などともあれ、その日私は一人帰路へついていました。

珍しく定時で退社できたおかげで外はまだ明るく、道には子連れの奥様がたや学生の姿もちらほらと見えています。


コンビニの前を通りすぎ、私は夕方もそろそろ近づいてきた、蝉の鳴く新緑の街路樹が茂る歩道を歩いてゆきます。

『今日も美味しいスコールコーン スコール社』と書かれた看板のある十字路が目安で、そこを右に曲がると私の住むマンション『コンドミニアム931』が見えてきます。


するとマンションの入り口をくぐったところで、ちょうど上へと向かうエレベーターのドアが閉まろうとしているのが目に入ったのです。

エレベーターには一人の若い少女が乗っていました。

学生服を来たその少女は十台の半ばごろでしょうか、小さくツインテールにまとめた短い髪がよく似合う可愛らしい女の子でした。


私は乗せてもらおうと走り出し、手を振って開けておいてくれと示しました。

少女は頷き「開」のボタンを押してくれました。



そうして私はそのエレベーターに乗りこむことになったのです。






それが起きたのは。

夏の暑い日のことだった。


わたしの名前は河野かわの 由佳ゆか

女子高生。若さあふれる16歳。


好きなモノは甘いもの。得意な科目は現国と体育。

どこにでもいるフツーの女の子。だと思う。たぶん。


その日は最悪だった。

慰めてくる友達の誘いも遠慮して、わたしは一人家に向かって歩いていた。


(はあ。あーあ……)


なんて心の中でつぶやいてしまう。


……フラれたから。

好きだった水泳部のセンパイに告白したら、見事にフラれてしまったから。


自分のなにがいけなかったんだろうか。どこがだめだったんだろうか。自分で言うのもなんだけど、顔にけっこう自信はあるのに。

ずっと好きだったのに……。


……ずっとって言ってもわりとそんなこともないんだけど。ぶっちゃけつい最近なんだけど。

でもとにかくフラれた、フラれてしまった。ちくしょうめが。うぬぬ……!


こんな可愛らしい後輩のわたしが思いを寄せているというのにフるなんて、逆に怒りさえ込み上げてくる。ピッチピチの乙女の思いを踏みにじるなんてありえなくない? おのれおのれ……!

なんて半泣きで恨み言を念じつつ、わたしは『今日も美味しいスコールコーン スコール社』と書かれた看板のある十字路を右に曲がる。


すぐに自宅のマンションが見えてくる。わたしはマンションの入り口をくぐって、エレべーターのボタンを押した。

しばらく待っているとエレベーターのドアが開く。わたしは肩を落としながらのろのろと乗りこんだ。


自分の家のある『13階』のボタンを押そうとした時。

するとそこに、一人のおじさんが走ってくるのが見えた。

禿げ上がった頭の50代くらいのおじさんだった。スーツを着ていて会社帰りに思えた。なんだか気弱そうな顔つきの、ちょっと情けなさそうな以外は特に変わったところもないふつうのおじさんだった。


こっちに向かって走りながら手を振っていて、どうやら乗りたいらしい。

わたしはしかたなく「開」のボタンを押して待ってあげた。



そういうわけで、おじさんはわたしの乗るエレベーターに間に合ったのだ。






エレベーターのドアが閉まっていく。


「……あの。何階ですか?」


わたしはそう言って後ろを振り返った。

あわてて駆け込んできたおじさんは体力のない中年らしく、ちょっと走っただけで息を切らしていた。


「はあ、はあ、ふう。すいません、13階を」

「はい13階……。うっ?」


頷いたわたしがボタンを押そうとすると異臭が鼻をついた。硫黄のような、卵の腐った臭いにも似た悪臭だ。


(うえクサッ。なにこれ、このおじさんの臭い?)


ひどい加齢臭だった。夏まっさかりということもあって、よく見てみればおじさんはだいぶ汗だくだ。


(なんだかなぁ、もう。こっちはフラれたばかりだってのに……)


とわたしは思うものの、さすがに面と向かって「アナタ臭いんですけど」とは言えない。


「……うー……」

「? どうしました? 13階を押してもらえませんか」


おじさんが不思議そうな顔で言ってくる。

そのなにも分かってなさそうな顔にわたしはちょっとカチンと来た。なんとかして伝えてやりたいような気分になる。


黙って『13階』を押す。

そして『9階』、『3階』、『1階』の順にボタンを順に押してやる。


(伝わるかな? 9、3、1。くさいって)


ちょっとしたイタズラ心だった。

やがてエレベーターが上に向かって動き出し、3階で止まる。ドアが開くけど、自分の家は背後のおじさんと同じ13階にあるので降りたりはしない。


「あれ? 降りないんですか?」

「はい。降りないです」

「……? あっ。……」


そこでようやくおじさんが意味に気づいたらしい。すまなそうにうつむいて、すみっこの方へ寄っていく。


(ふふんだ。このおじさんには悪いけど、こんな気分の時にくさいのが悪いんだもん)


意地悪なうっぷん晴らしが成功したことにわたしはちょっとだけ気分を良くして、そ知らぬ顔ですましていた。

エレベーターのドアが自然と閉まっていく。


そうしてまた動き出し、今度は9階で止まる。

わたしは降りない。おじさんもうつむいたままで黙っている。


(……あ。やば。これすごい気まずい)


いまさらになって気づき、わたしは口をもにょもにょと動かした。

エレベーターが閉まっていく。また動きはじめる。


(ど、どうしよ、同じ階で降りるのもますます気まずいし。ていうかご近所さんじゃん。わたしバカだ……)


ちょっと考えが足りてなかったかも知れない。頭を抱えそうになりつつ、なにかいい考えがないかと少しあわてた。

するとピンといい思いつきが浮かぶ。


(あ! じゃあ14階を押してそこで降りよっと。あとはちょっと待ってから、知らない顔して戻ればいいし?)


そうしてわたしは14階のボタンを押そうと手を伸ばした。

ところで。


――がくん、とエレベーターが大きく揺れた。


「えっ!?」

「むっ?」


すみっこでうつむいていたおじさんも顔を上げた。

エレベーター内が急に薄暗くなる。天井の蛍光灯が切れていて、赤い非常用のランプが点っていた。


「え。え、え、えっ!? な、なに?」


わたしは周囲を見回した。

エレベーターの中は一面、小さな電球が放つ赤い光に支配されていた。さっきまで聞こえていた駆動音が消えて妙に静かになっている。


「え……え? うそ?」


エレベーターが――止まっていた。

よりにもよってこのタイミングで。


「ええええ!? う、うそでしょ!? ちょっと!」


わたしはあわてて「開」ボタンを連射した。しかしうんともすんとも言わない。


「えーっ!? ど、どどどどうしよこんななにこれ!?」

「……。ちょ、ちょっとあの。落ち着いて。非常用のボタンを押してください。上についてる」


おじさんがこっちに近付いてきて、わたしの頭ごしに非常用と書かれた黒いボタンを押した。

赤い電灯が消えて元通りに蛍光灯が光りだす。


「あっ直った! よかった!」

「……明りは直りましたが。しかし……動きませんね」


電気は戻ったものの、やっぱりエレベーターは止まったまま動かなかった。どこか故障してしまったみたいだ。


「……。えと、これって」

「ちょっとどいてください。そこの電話を使いましょう」


おじさんはてきぱきと動きはじめ、非常ボタンの近くに備え付けられていた受話器を手に取った。

おそらくは管理人室かどこかに繋がっているそれに向かって話しかけはじめる。


「もしもし、もしもーし。――あ、はい。そうです、止まってしまいました。ええはい。……分かりました、業者を。はい……はい」


いくらか話をしてから、おじさんが受話器を置いた。

こちらに向かって振り返る。


「故障……だそうです。管理人さんが今急いで業者を呼ぶそうで」

「はあ」

「待ちですね。しばらくかかるかなぁ……」


ボリボリともう髪のない頭をかいて、憮然とした顔のおじさんがすっと離れていく。こっちと距離を取ってすみっこの方に縮こまった。


「……」


わたしはそんな座りこんだおじさんを眺めながら、呆然としていた。

エレベーターに閉じ込められてしまった。見知らぬ中年男性と共に。


「う、そ」


わたしはもう一度、恐る恐るおじさんの方を見てみた。

ふと――わずかに目があった。

背中にぞわりと鳥肌が立ったのが分かった。わたしはさっと目を逸らす。


その時のわたしには、一瞬だけ見えたおじさんのその目が――

くさいとバカにされて怒りの混じった、若い獲物を狙うねちっこく脂っこい視線に見えてしまっていた。






ひどく蒸し暑かった。


停止したエレベーターの中は空調が利いていないらしく、篭もった熱気で満ちていた。

私はそう広くないエレベータの隅に座りこみ助けが来るのを待っている。


「……」


私の対面には、同じく閉じ込められてしまった少女が俯いて座っていた。そのすぐ脇には学生かばんが立てかけられている。

どうも気まずい。


こういう特殊な事情でお互いに閉じ込められた他人同士というのもあるが――先ほどのやりとりが尾を引いていた。

931。く、くさい……。


ちょっとショックであった。自分はそんなに臭いんだろうか……。

とはいえこの硫黄臭さは別に加齢臭というわけではなく、悪魔独特の匂いなのである。


人の身を模して生きているとはいえ、悪魔の匂いまではなかなか消せないものだ。ついつい油断すると時折漏れてしまうことがある。

今もこの少女は臭さに迷惑しているのだろうか? なんというかすごく申し訳ない……。


「……遅いな。まだか……?」


それにしても救助が遅かった。

私は左手の腕時計を眺めた。助けを待ちはじめて実に三時間もの時間が経過している。


にも関わらず音沙汰がない。さきほどもう一度電話を使ってみたが、今度は管理人が出てこなかった。

私と少女は篭もった空気の中で汗だくになりながらひたすら待ち続けている。


せっかく久々に定時で帰れたというのに台無しである。この少女も早くここから出たいだろうに、外はもう暗くなっている頃だろう……。


「ふう。……ん?」


すると、ぴんと自分の中の『センサー』に反応を感じた。

私は顔を上げて少女を見る。


私の真の姿はブエルという名の悪魔であり、その職能はあらゆる者に対する『治癒』だ。ゆえに病人が近くにいるとそれが分かるという『力』を持っている。

その『センサー』に反応があった。病気、肉体が悪い状態になっている反応。目の前の少女が急激な脱水症状を起こしている。


いけない――熱中症だ。

私は自分のかばんを開けて、飲みかけのお茶のペットボトルを取り出した。

ひどくぬるいがそれでもしかたがない。彼女には速やかに水分を補給させるべきだ。


「あの」


立ち上がって少女に声をかけると、少女が少しびくりと震えた。それからそろそろと顔を上げてこちらを見てくる。


「きみ、ちょっといいですか? このお茶を」

「ひっ!?」


……。

『ひっ』?


「え? あ、あの」

「あ、ちが、あのややめて!? ごごめんなさい違うんです、くさいなんて言ってごめんなさい!?」

「はい? ご、ごめんなさいって」


少女がかばんを抱えてあわてて後ろに下がる。

私を見てなぜか怯えた顔をしていた。しまいには目に涙を浮かべはじめる。


「ごめ、ごめんなさいー! お願いやめてゆるじでぇー……!」

「……!? ち、違いますよ! なにかひどい勘違いしてませんか!? 私はただこのお茶を!」

「いやぁ! お茶なんて! ……お、お茶?」

「お茶ですよ! 脱水症状起こしてるでしょう水分取らないと! 気絶してしまいますよ!?」

「え? あ。お茶……」

「飲んでください。飲みかけですけどこれ以外に持っていないので」


私は少女にお茶を手渡すと、額を押さえてため息をついた。

なんなんだ……自分はそんな不審人物に見えるのか。さすがにちょっと悲しい……。


「あ、ありがとう……」


ペットボトルを受け取った少女は、よほど喉がかわいていたのか飲みかけということも気にせずにあおりはじめた。

そうして半分ほど飲み下したところで、ふう、と一つ息をついてこっちを見てくる。


「あ、あの。……すいません。わたし、なんかひどいこと言っちゃって。誤解して、あの」

「いえ。いいですよ……熱中症で倒れられても困りますから」

「これ半分も飲んじゃったんですけど。おじさんも飲んだほうが」

「私はいいです。喉も乾いていませんし、エレベーターに乗る前に水分取りすぎていましたから大丈夫。あなたが飲んで下さい」


本当のところ、私は水分どころかその気になれば食料さえ必要としない体だ。これでも一応悪魔の端くれである。


「それよりも、助けが遅いですね……。こんなに待たされるのは少しおかしい」


私は額の汗を拭い(この『汗』も一種の擬態だが)、エレベーターのコンソール、その一番上にある繋がらない黒い受話器を眺めた。


いくらなんでもこんな長時間放置されっぱなしというのは少し異様だった。

なによりさっきは通じていたこの電話が繋がらないのがおかしい。もし助けが遅れるなら、通常こちらに連絡の一つもよこすはずである。


「う、うん。もう三時間も経ってるね」


少女が不安そうな顔で頷いた。


私は小さく唸る。悪魔の力でなんとかするにしても、私の能力は基本的に『治癒』であり、閉じ込められたここから外部の様子を探ったりすることはできない。私の『センサー』はほぼ視認範囲内という限定的なものだ。

あとは薬草学などの知識とせいぜい護身に軽い念力が使えるぐらいで、あまり万能な力を有する悪魔ではないのだ。


「いつになったら出られるんだろ? もう外は夜になってるよね……」

「ううむ……。そうですね、少々危険ですが自力で脱出するのも考えた方がいいかも知れません」


そう言って私は天井を見上げた。

こういったエレベーターには天井に点検用・非常用に小窓のような出入り口がある。

そこを開ければ、とりあえずエレベーターの上に出られるはずだった。


「え? そこから出るの? でも」

「届かない、ですよねぇ……。うーん」


どうしても身長が足りていなかった。周囲に足場になりそうなものもない。

自分の念力を使えば話は簡単だが、すぐそばにはふつうの少女がいる。あまりおいそれと正体をばらしたくはない。


「あ、じゃあ。おじさんがわたしを肩車すれば届くかも?」

「大丈夫ですか? 先に行くと少し危ないかも知れませんが」

「任して任して! だいじょうぶだよそれくらい。じゃ、持ち上げてくれる?」

「そうですか。では失礼、よっと」


促され、私は天井に見えている出入り口の下に立って少女を肩車した。

歳なので少々腰に来るが、この小さな少女程度ならまあなんとかなる。


「開け方は分かりますか?」

「ええと、たぶんこうやって……あ、開いた!」


少女が少しいじくると出入り口は簡単に開き、真っ暗なエレベーターの上が覗き見えた。


「おじさんごめんね、ちょっとおじさんの肩に足を乗っけちゃうけど」

「構いませんよ。もし近くにエレベーターのドアがあれば、そこを開けて外に出てください。たぶん手動で開けられると思います。それから助けを呼べば私も出れますから」

「うん。よいしょっと」


少女が私の肩に足をかけて、天井の上へと顔を出す。


「うわ真っ暗ー。あ、ドアっぽいのがある」

「それはよかった。じゃあ次は手を上げますから、それを踏み台にしてなんとか昇ってください。コードなどは危険ですので触らないように気をつけて下さいね」

「はーい、じゃあ昇るね。あ、ぱんつ見ちゃだめだよ?」

「……見ませんよ……。いいから早く上へ」

「あははは。でもひどいこと言っちゃったのにお茶くれたし、ちょっとくらいなら別に見られても、なーんて……。うくっ?」


その時だった。びくり、と少女の体が急に震えた。

そのまま動きが止まる。


「どうかしました? なにかありましたか」

「うっ。あっ、くっ? か、くく……!?」

「?? 一体なにが……。!」


少女の体が急に力を失った。支えている私に向かって落ちてくる。

私はあわてて少女を抱き止めたが、勢い余って倒れこんでしまった。


「うわっ危ない! ちょっときみ、……っ!?」


私は驚いた。

抱きとめた少女が――喉を押さえてもがいていたからだ。


舌を出し、眼球がこぼれそうなほど目を見開いて。

苦しそうに暴れはじめる。


「あっ!? あか、かはっ!! あ、うう!? かひ、ひゅ、ひゅっ……!」

「ど、どうしました!? ……な、なにっ!!」


私の『センサー』に強烈な反応があった。


――『死』。

その直前、最大級の異常を知らせるアラート。まもなく死を迎える人間だけが発する最も危険な状態。


「な、なんだ!? 一体何が起きた!?」


呼吸器不全から、瞬く間に心臓が異常な速度で脈動しはじめ。みるみるうちに因果関係の分からぬ多臓器不全となり、体中の細胞が謎の変異を開始していく。


死ぬ。

これは――このままでは死ぬ。

この少女がどういうわけなのか、突然に『死』に飲み込まれていく。


「あ゛あ゛……!! ひゅう、あう、ひゅーっ、ひゅーっ……! ひゅ……ひゅ……」

「な……!? い、いかん! は、はぁあああーーっ!!」


人の病を癒す悪魔としての、反射的な行動だった。

私は封印していた魔力を右手に解き放つ。私の手が強く光輝いた。


「くそっ、一体なんだというのだ!? これは……」


私は少女の胸に手を当て、生命力を強く吹き込む。

同時にその体になにが起きたのか、魔力を用いて調べていく。


「な、なんだとぉっ!?」


その結果に私は驚愕した。

それはあらゆる病を永き時に渡り癒してきた、大悪魔ブエルとまで呼ばれた私でさえもまったく――まったく未知の病だった。


「馬鹿な!? なんだこれは、こんなものは見たことが……! う、ウィルス!?」


ウィルス――今までに類型のない、それも異様な力を持った――信じられぬほどに強力なエネルギーを持った驚異的なウィルス。

私が与えている生命力さえも凌駕するほどのすさまじい侵食力……!


「馬、鹿、な……!!」


いけない。止まらない。

このままではこれは止められない。

少女が死ぬ――


「う、おおおおォオオオオーーッ!!」


私の背中が弾けた。

そこから馬の足が五本飛び出してくる。


禿げ上がった頭と顎の周りに金色の毛が生え、貌の形が大きく歪んだ。

視界が広がる。獅子の顔へと、変貌していく。


「――グルゥオオオオォォォォーーーー!!!!」


私は強く咆哮した。

金色の光がエレベーターの中を埋め尽くした。






「――はあ、はあ、はあ……」


私は荒く息をついて、腕の中の少女を見つめていた。

少女は先ほどまでの異常な呼吸をやめていて、今は穏やかにゆったりと息をしている。


なんとか――間に合った。

致命的なダメージを受ける前に、少女にウィルスに対する抗体を備えさせることができた。


「……あ、危な、かった……!」


大きくため息をつき私は脱力した。ギリギリだった。

もう少しで手遅れになるところだった。あともう少し、ウィルスの解析が遅れていたらこの少女は死んでいた……。


「なんなのだこのウィルスは。恐ろしい感染力だ、信じられん……」


今までにない異様なウィルスだった。

ウィルスとしての生命力、増殖力、感染から発症までの時間、患者へ与えるダメージ。どれをとっても既知のものとは比較にならない、凄まじいポテンシャルを備えていた。

なぜこんなウィルスがこんな場所に……。


「……う。ううん……?」


少女が目を覚ました。

軽く首を振り、目を開けてこちらを見てくる。


「起きましたか。よかった……。どこか体に変なところはありませんか?」

「え。あ、だいじょうぶです……へっ!? うひゃあっ!?」

「? あっ」


はっとして私は自分の顔を押さえた。

真の姿になったままだった。先ほどまでとはまるで違う、獅子の顔面のままである。


「うわ、うわわわわーー! ら、ららららいおんーーっ!?」

「あ、いや、あのそのこれは」

「ひええ!? ……え? しゃ、喋って……お、おじさん? の声?」

「……はい」


私はしかたなく頷いた。見られてしまった……。


「え、なにそれ? なにその顔、お面? どうして?」

「いやお面ではないんですが。驚かせてしまってすいません」


気まずそうに鼻をかいて、私は少女を離した。背中に飛び出している馬の足をスルスルとしまいこむ。


「わっ?」

「あまり気にしないで下さい……」


見られてしまったものはしかたがないと割り切って、私は変身を解いていく。

金色のたてがみがはらはらと抜け落ち、顔は人間のものへとみるみるうちに戻っていく。


「……。も、戻っちゃった? おじさん、な、何者?」

「気にしないで下さい。それより今は」


時には悪魔が正体に気づかれてしまうこともある。とはいえただの女学生一人に見られたからと言って、そう騒ぐほどのことではない。少々面倒だが魔界の元同輩に連絡を取って記憶を消してもらえば済むことではある。


しかし今はそれよりも、もっと気になることがあった。

私は天井の穴をじっとにらむ。上には妙なウィルスが蔓延している。


どころか、開け放ってしまったせいでエレベーター内にも大量のウィルスが入りこんでしまっていた。

妙な刺激臭がほんのわずかだが鼻をついていた。このウィルスが臭いの元なのだろうか、酸が金属を腐食させるような刺激臭だ。


抗体を備えさせた少女、そしてはじめから病気という概念が通用しない自分しかいない以上この場は特に問題ないが。

こんなものが外にある、ということは。


「……。まさか」


外部はどうなっているのか。

私には外が見えない。外にこのウィルスに侵された人がいたとしても、私の『センサー』が通じるのは隔てられていない同じ空間内がほぼ全てで、それも物陰になっているとかなり分かりづらくなる。つまり目視できる範囲か、頑張っても薄い壁一枚を透過する程度だ。


このウィルスは自分ほどの者でさえも即座に処置しなければ助けられないほど。

そうなるとまさか外は今……。


「お、おじさん?」

「いえ。とにかく外に出ましょう、ここにいてもしかたがない」


脳裏をよぎった嫌な予感を振り払い、私は魔力の念力を使った。

少女と自分の体がふわりと宙に浮き上がる。


「わ、わ?」

「今はもうしょうがないので、さっさと出ることを優先しましょう。気をつけて、どこかに体をぶつけないように」


天井の穴から私と少女はエレベーターを後にする。

真っ暗なエレベーターの上はすぐ近くにどこかの階へと繋がる閉じられたドアがあり、こういう緊急時のためだろう、中から開くためのバルブがあった。

私はエレベーターの上に降り立つと、それを回してドアを開いていく。外から電灯の光が差しこんできた。


「よいしょ、ふん、ふん……。よし。これだけの隙間があれば出れますね」

「……」

「さあ外へ出ましょう。ともかく管理人の方と会わなければ」

「う、うん」


ある程度まで開けたところで私は少女を連れて外へと出た。

外はもう薄暗く、とっくに夜になってしまっていた。


そして。



世界が終わっていた。



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